一目惚れ
杉下 八恵は良和と同じクラスの、体格こそ小柄だが「言いたいことはハッキリ伝える」というタイプの女子であった。
純や岳とは違うクラスだった為に普段余り接点は無かった。
純は今から話す事を思い浮かべると、頭を抱え「ひゃあー」と小声で叫んだ。
「あのさ、杉下さんから一緒に帰ろうって誘われたんさ」
「うん」
「……どしたもんかね?」
「え……?帰れば良いんじゃない……?」
岳が「だから何だよ」とでも言い出しそうな顔で純を見ている。
「いやー、その……。気まずくて……」
「あぁ、気まずい、か。確かに、二人きりじゃ気まずいな。うん、気まずいな」
岳は女子と二人きりで帰る事など皆無であり、尚更その相手が名前程度しか知らないと相手ならどう対応したら良いのだろうと思い始めた。が、純に良い提案が出来ず考えあぐねていた。
しかし、そうなった経緯を知れば何か答えが浮かぶかもしれないと思い、純に尋ねた。
数日前、純が昼休みに廊下を歩いていると、何となく見覚えのある女子から突然「純君でしょ?」と声を掛けられた。
純が答える間も無く「じゅんじゅんって呼んで良い?」と畳み掛けられ、純は慣れないその呼び方に照れ笑いで返した。
「私、隣のクラスの杉下 八恵」
そう言いながら良和のクラスを指さし、八恵は微笑んだ。
口から小さく零れた前歯に純は微かに愛嬌を感じ、頭を掻きながら答えた。
「あの、どうも。じゅんじゅんです。新川純です」
「知ってるよ!じゅんじゅん、私の名前覚えてね!ねぇ、今度一緒に帰ろうよ!」
「方向が」
「同じだから大丈夫だよ!私はすぐ着いちゃうけど。一緒に帰ろうね、約束ね!約束だかんね!」
「あぁ、オッケー。そのうち」
「そのうちじゃダメ!部室か教室まで呼びに行くから。じゃあね!」
その経緯を純から聞くと、岳はある考えに至った。それは余りに短絡的であったが、その他に答えが見つからなかった。
「やっちゃん、純君の事好きなんだろね」
「いやいやいや、それは……。だって、今まで話した事ないよ?」
純ははにかみながらも、腕組みをしながら首を傾げた。
面識の殆ど無い相手に好かれ、その原因が無い事に純はどう対処していいのか分からずに居た。
「一目惚れじゃん?」
岳はその時生まれて初めて「一目惚れ」という言葉を的確に使う事が出来、大人になった気分で純にその得意げな表情を向けた。
純は岳の言葉に喜ぶ様子はなく、寧ろ頭を抱えてしまった。
「がっちゃん、こういうのって何とかならん?俺、気まずいの嫌なんさ」
「そりゃ好きって奴はいないよね」
岳はそう言うと「どうしたんもんかねぇ」と、ひとりごちた。
答えを見つけられないままでいると、いつの間にか横で話を聞いていた佑太が「何よ何よー!」と二人の肩を叩いた。良いアイデアがある、と言う。その言葉に純の表情は綻んだ。
「最初は二人だけで帰ってさ、その後に俺らが自然と純達と合流すりゃ良いんじゃん?」
「そうか。おぉ、ありがたい」
純は佑太の提案を素直に受け入れ、その様子を見ていた岳は内心、安堵した。
様々な思惑が無い分、気持ちの切り替えもこの頃は皆、早かった。
上川が「授業始めるぞー」と声を上げたが三人は授業を受ける気などとうに失くし、上川に構う事なく話し合いを続けた。
そして早くも昼休みには杉下が純の元を訪れ、一緒に帰る約束を取り付けていた。
放課後に純の部活動が終わり次第、杉下と一緒に帰るとの事だった。
部活を終え、ジャージに着替えた純が外に出ると杉下が待っていた。
夕陽のせいもあるだろうが、杉下の髪が茶色がかっているのに気付いた。
やや緊張しながら純が尋ねた。
「杉下さん、染めてるんかい?」
「え?染めてないよ!怒られちゃうもん。元からだよ」
「あぁ、そっか。校則か」
「当たり前じゃん!じゅんじゅん大丈夫?」
緊張が純の言葉のバランスを見事に崩した。何とか元に戻そうと、視線を杉下から外す。
「え?いやいや、うん。俺は大丈夫よ」
「そう。じゃあ、帰ろっか」
「あぁ」
純が後ろを振り返ると、裏門を出た辺りに二つの緑色のジャージ姿が見えた。自転車に跨り、爪先歩きでゆっくりと後を付いてくる佑太と岳だった。
「じゅんじゅん、もう男衾には慣れた?」
「あぁ。森下と佑太が最初色々してくれてさ、おかげでだいぶ慣れたかな」
「そっか。茜と仲良いんだよね、じゅんじゅんは」
「どうだろ。がっちゃんの方が仲良いんじゃない?」
「そうなの?本当?」
「そう……だと思う。多分」
自分で言っておきながらも、その言葉を完全に肯定出来ない自分に、純は苛立ちを覚えた。
雨上がりの夕陽と、アスファルトが乾いて行く匂いと、杉下への緊張感でその想いを塞いだ。
その間、何処かぎこちない口調で杉下が「夏だねぇ」と言っていたが純の耳には届いていなかった。
「夏休みになるとね、この辺の皆は寄居の「水天宮」とか小川の「七夕祭り」とかに行くんだよね。じゅんじゅんはお祭り、誰かと行くの?」
「え?お祭りあるんだ。初めて知ったかも。あ、でも水天宮だっけ?小さい頃行ったかもしれない。橋の下から花火が上がるんだっけ?」
「そうだよ!じゅんじゅん良く覚えてたじゃん!記憶力良い方?」
「いや、全然。花火が好きなんさ」
「それならさ、小川の七夕も花火上がるよ。夏休み入ってすぐやるの」
「へぇ、行ってみたいな」
「それならさ……」
杉下が肝心な用件を純に伝えようとした矢先、背後から甲高い佑太の声が雨上がりの湿気を切り裂いて飛んで来た。横に居た岳が「奇天烈な声だよなぁ」と笑った。
「じゅーん!」
その声に純は安堵を覚え頬を緩ませたが、杉下は「あぁ、もう!」と悔しそうに地団駄を踏んだ。
佑太がふざけて二人の間に自転車で割って入り、杉下が「危ないから!」と注意する。
その後から来た岳が、悪びれた様子も無く「珍しい組み合わせだね」と二人に声を掛けた。
佑太と岳が先を急ぐ気配を全く見せなかった為、杉下は純と二人きりで帰ることを諦め、残り僅かの帰り道を他愛もない話をしながら四人で帰る事となった。
杉下の家の前で立ち話をしていると街は薄闇に包まれていった。山が濃い影を描き、杉下は純の話を聞き漏らすまいと目を輝かせていた。
杉下と別れた後、作戦が功を奏した事に三人は喜んだが、杉下は玄関のドアを閉めると溜息と共に鍵を掛けた。
翌朝、岳は茜に声を掛けた。
「森下、これあげる」
「何これ?」
岳は昨日渡し忘れていたカセットテープを茜に手渡した。
「スピッツとか、色々入ってるから聴きなよ」
「ていうか!字、ヘッタクソ!スピッツがスピッ「シ」になってる!」
そう言うと茜は笑いながら鞄にカセットテープを仕舞った。
「ファーストだけど「トンビ飛べなかった」って曲良いよ」
「へぇー。聴いてみる。がっちゃん、今度私も持ってくる。聴いて欲しいバンドがいるんだよね」
「え、誰だろ?」
「筋肉少女帯。絶対ハマるから、聴いて!」
「あぁ、うちの兄貴が確か好きだったな。ちゃんと聴いた事ないし、楽しみにしてるわ」
岳は兄のアパートのCDラックに人間椅子と筋肉少女帯が並んで置いてあった事を思い出していた。
茜は岳に覚えた違和感を払拭するように、岳は茜に対して良き理解者になれるように、再び互いの距離を測ろうとしていた。
休み時間になると純は昨日の出来事を岳と佑太と共に振り返っていた。
「昨日は助かったわ。本当、ありがとう」
岳は3Bの鉛筆を削りながら、呑気な口調で言った。
「また誘われるんじゃないの?多分、昨日だけじゃ済まないと思うで」
佑太も頷きながらそれに乗る。
「ぜってーまた誘われるって!だって夏祭りの話したとか、純と行く気満々じゃん!」
昨日の帰り道に杉下とどんな話をしたのかを、佑太と岳は純から聞き出していた。
純は背伸びをすると手を頭の後ろに組み、宙を仰いだ。
「また誘われるんか……どうしよっかな……」
「奈々ちゃん誘えよ!純!イケるよ!おまえならイケるって!」
「いやいや!俺は眺めてるだけで、十分だからさ」
ガタッと椅子を引く音がして岳が振り返ると、茜が席に戻っていた。
嬉しそうな表情を浮かべ、純を眺めている。
「純君。奈々ちゃんの事、好きなの?」
驚いた岳が純の代わりに「いや、それは」と答えたが、純は下を向きながら照れ笑いを浮かべるだけだった。
純は思いよらぬ嘘が茜の前で本当になってしまうかもしれないと思ったが、岳の事を考えるとそれでもいいのかもしれない、と諦めのような感情も抱いた。
純は一言
「困ったな」
と言ったのみで、茜に対して否定も肯定もしなかった。
岳と佑太は茜に否定する言葉が紡ぎ出せず、意味もなく顔を見合わせた。
しばらくの沈黙の後、突然純が吹っ切れたように言った。
「誰にも言わないでくれよ?いやー、お恥ずかしい」
佑太と茜が「漢だねぇ!」とはやし立て、岳が「漢字の「漢」の方のだろ?」と笑った。
この瞬間に純は茜へ抱いていた気持ちに完全に蓋をした、つもりだった。
嘘をついてしまった理由は、茜や周りにその想いを悟られたくなかったからであったが、岳の気持ちを汲んだから、という部分が大いにあった。
しかし、岳の気持ちを直接確かめた訳ではなかったが、それを明確にさせたくないという思いもあった。
全てが白日の下に晒される事なく、うやむやのままに過ぎてくれれば、と心の片隅で純はそう願っていた。
茜が「いつから好きなの?」と聞くと純は「転校してきてからすぐだよ」と答え、はにかんだ。
木村奈々を好きだと偽った理由は木村と純にこれと言った接点が無く、仮に誰かの噂になってもそれ以上話は広がらないだろうと踏んでの事であった。
しかし、茜はそうするのが当たり前だとでも言うように
「で、いつ告白すんの?」
と純に聞いた。「いや、それは……」と純が困惑した表情を浮かべると佑太が「純、「漢」見せようぜ!」と煽り、純の気持ちを知らない岳は「そうだな。明日死んでるかもしれないからな」と元も子もないような発言をした。
その最中に矢所が現れ、部活の事で茜に聞きたいことがある、と尋ねると茜は矢所に「純君、好きな人いるんだって」と嬉々とした表情で伝えた。
「やめてくれー」と純が頼んだが矢所は興奮し、その相手を聞き出そうと純ではなく茜に尋ねている。
すぐに収まるだろう、と純がカーテンに目を向けると、猿渡と高梨慶次郎がカーテンに包まって遊んでいるのが目に入った。
「気楽そうでいいな」
そう思いながら、自嘲気味に笑った。




