闇の向こう
純は自分のした事を激しく後悔した。そして、あまりに懐かしい面影に…
階段を下りながら茜は中学校の頃を思い出していた。
剣道部最後の大会当日、試合の順番が近付いても会場に姿を見せない純を探し回った時の事を。
試合開始直前になってようやく見つけた純は、試合の恐怖に怯えるように体育館の裏手で隠れるように蹲っていた。
きっと人前で負ける事を恐れているのだと思い、茜は純に本気で向かい合った。
「そんなの皆分かってるよ!純君が負けるなんて分かってるよ!」
「だったらさぁ……もう……」
そう純は言ったものの、茜の目の奥に秘められた本気の怒りに気が付くと、自らの力で立ち上がった。
世話の妬ける弟のような気持ちで接していた中学時代。
こうして再び純を探す自分に、茜は例えようのない懐かしさを感じていた。階段を下りる一歩一歩に自然と笑みが零れる。
また何処かで蹲っているのか、それとも勝手に帰ってしまったのだろうか。姿を見つけたら、また逃げ出すのだろうか?
茜がフロント横のソファに目を向けると、それが純だとすぐに気付いた。
泥酔したのか、ぐったりと横たわっている。
放って置こうとも考えたが、何故かそのまま戻る気にはなれずに純の傍に立つ。
「……ん。純!」
「……あ……」
ぼやけた視界の真ん中に、茜の顔が浮かび上がる。口の中が酷く乾いている事に気付くと急激に水が欲しくなった。
今、視界の真ん中に居る茜が夢なのか、現実なのか純にはすぐに判別がつかずに混乱する。
「森下……?本当かい?」
純の言葉に茜は溜息混じりに言う。
「本当に決まってんでしょ。何してんの?飲み過ぎ?」
「あ……あぁ……」
「だっさー!水もらって来るから待ってて」
「いや!あの……」
「いいから!そこに居て」
「あぁ……」
茜がフロントの瀧川に何か告げている。瀧川は節目がちに頷くと裏へと消えて行く。
時計を見ると10分ばかり眠っただけなのに純には先程の事が昨日の事の様に思え、自分がした事を反芻し激しく後悔し始めた。
純は茜から素直にグラスを受け取ると、先程よりも水が冷えているように感じた。一気に飲み干すと空のグラスを茜に渡す。
「あー……水がうまい」
「純君普段飲まないでしょ?」
「あぁ……全く」
「まさか飲酒童貞?顔めちゃくちゃ赤いよ」
「いや……そうかい?まいったね……」
「ねぇ。上行かないの?皆待ってるよ」
「えー?誰が待ってるんだろな……」
「……いっつも突然居なくなるのって何なの?病気?」
「いいや?何となくさ……。今日は飲みすぎて……ちょっと……」
「本当昔っから変わんないんだから」
「心配掛けたかな……はは……」
「心配するでしょ。自殺でもしてたら困るわ」
「ははっ……そうかぁ……心配掛けてたかぁ……」
「え?何笑ってんの?」
「いや……別に……」
茜の声に、距離の近さに、自分の愚かさに、純は湧き出す感情が抑えきれなくなりそうだった。
それは心の奥底に閉じ込めた、脆くも大切な感情だった。
記憶の線がまたこうして繋がった事に、ふいに泣き出しそうになる。
子供のようにソファに再び寝転ぶと、純は目の上を手で覆った。きっと泣いてしまうのは分かっていた。泣いた顔だけは見られたくなかった。
「何!?また寝るの!?」
「いや……うん……ちょっとだけさ……」
「がっちゃん見習いなよ!あれ「ザル」だよ!」
「あぁ……がっちゃんはお酒好きでさ……ヨッシーは変なビデオが好きで……それで……佑太は実は未だにサッカーが好きでさ……俺はなぁ……ははっ……」
「ベロベロじゃん!私もう行くからね?ちゃんと戻って来なよ?」
「……うん」
「大丈夫?」
「もう行っていいよ……皆待ってるだろうからさ……」
「ねぇ……本当大丈夫なの?」
「いいから……行きなよ」
「……寝てる間に皆帰っちゃっても知らないからね!」
純は寝そべったまま片手を上げた。茜は純の太腿をぴしゃり、と叩くとそのまま会場へと戻った。
茜の気配が消えた事が分かると、純は静かに泣き出した。誰にも悟られないように、触れられないように。
目を覆う手の向こうから、雫がゆっくりと流れ始めた。
会場に戻った茜は人の群れの中を千鳥足で歩く岳と擦れ違う。
「森下。純君居たかぁ?」
「え?あぁ。下で寝てた」
「ふーん。まぁ、飲め飲め!俺の代わりに飲め!さぁ、どうぞ」
「がっちゃん飲まないの?」
「俺はこれから小便への旅に出る!アドベンチャー!」
「馬鹿じゃないの!?早く行って来なよ」
「おう」
岳は会場に入ってからほとんど放置していた純が気になり、階段を下りる。
すぐにソファに寝転ぶ純を見つけ、酔っているのだろうと思い自販機で水を買って傍に寄る。
声を掛けようと思った矢先、純が実は泣いている事に気が付いた。
小刻みに震えながら、手で目を覆い、涙を流していた。
酔って何かを思い出したのか、それとも茜との間に何かあったのか。純の口から聞き出す意外、それら全ては憶測に過ぎなかった。
岳は皆が帰るまでに泣き止んでいてくれる事を願いつつ、純の傍らに水を置いて会場へと戻って行った。
「ビックエコー」で行われるという二次会に向け、会場からどっと人が溢れ出す。岳はアウターのボタンを閉めながらフロント横に目をやるとそこに純の姿は無かった。
茜も同様に目を映したが結局会場には戻らなかった純がそこに居ない事に少しの寂しさを感じていた。
携帯で純にメールを送ってみようかとポケットを弄ると良和が岳の耳元で言った。
「がっちゃん!「バキ」がガンダムに乗ったら強いん!?勇次郎に勝てるん!?」
「そもそも操縦出来ないんじゃねーの?」
「ははは!じゃあグラップラーじゃなくてオーラバトラーは!?」
「ダンバイン!」
「ははは!うち来て「ファイズ」観ようぜ!木場さんカッコイイんねぇ!」
「これから二次会だろ?行こうぜ」
「あー!そうだった!皆二次会か、帰るんじゃねーや」
岳は携帯電話を取り出すのを諦め、純が無事に帰れる事を密かに祈っていた。
ビックエコーに向かう車列のヘッドライトを背に純は寒風吹きすさぶ中、寄居駅に向けて歩いていた。
身体を突き刺すような乾き切った寒風に顔を顰める。
今頃岳や茜は二次会に向かっているのだろうか?純は楽しげな光景をぼんやりと思い描いたが、瀧川にしてしまった事への後悔がすぐにその胸を塞いだ。
ホームで東上線の発車を待っていると、秩父線内に停車して煙を吐くSLが目に付いた。
何かの点検なのだろうか、闇に浮かぶ雄々しい姿に純は思わず目を奪われる。
汽笛を鳴らす事なく、静かに白い煙を吐き出し続ける無骨なSL。それはいつか走り出すのだろうか。
微かな期待を持ち続けSLを眺めていたが、発車ベルが鳴り東上線が発車するとあっという間にその姿は闇の向こうへと消えて行った。




