酔い
成人式同窓会へ出席した純の視線の先にはすっかり大人になった茜がいた。
近付きたくても近付けないジレンマを抱え…
同窓会会場であるスーパー銭湯の二階の大広間は懐かしい顔と声で埋め尽くされていた。
繰り返される笑い声と一気コール。騒がしい声は寄せては返す波のように決して途絶える事は無かった。
純は会場の隅で安田と共に元5組のクラスメイト達と過ごしていた。
岳はグラスを片手に渡り鳥のようにあちこちへと移動していた後「俺の酒飲んだの誰だよ!」と理不尽に怒ったと思えば、また腰を下ろし誰かと談笑し始めた。
純はある場所から目が離せずに居た。その視線の先にあったのは茜の姿だった。
茶色い髪と薄赤の口紅に目が行き、近付きたくなる衝動を普段は飲まない酒で誤魔化し続けた。
茜は懐かしい面々を前に、ひたすら喋り続けた。気になる話題が多過ぎて一次会では収まりきれないといった様子だ。
中学卒業以来の集まりに酒が進み、ペースが思わず早くなる。
すぐ後ろを誰かが通る気配がして、背中を丸めたが茜はそれに気付くと構わずに足首を掴んだ。
「がっちゃん!」
「おー!森下かよ!」
「久しぶりじゃん!相変わらず眉毛ないし!」
「中学校に置いて来たって言ったじゃん!取り行って来て」
「馬鹿じゃないの?行く訳ないでしょ。ってかあんたの眼鏡兄貴!何年前かなぁ……映画行ったんだよ」
「はぁ!?聞いてねぇんだけど!」
「何か夜中突然電話掛かってきてさぁ。「岳の兄です」とか言ってさ。デートしたけどさぁ、つまんなかったなぁ!」
「それは本当すいませんでした!良く言って聞かせとくわ。今は深谷のヤオコーの店員に熱上げてるよ。ストーカーみたいにコソコソ通ってるで」
「それ、もうストーカーだから!あぁ怖い怖い!ねぇ!スピッツ歌ってよ!スピッツー!」
「酔ってっけどなぁ。歌うかぁ!せっかくだしなぁ!行って来るわ!」
「早く!ダッシュ!」
茜に急かされ岳はステージに向かう。その様子を遠くから眺めていた純は茜に近づけない事への苛立ちを募らせ始めていた。
いつか向き合えるようになるだろうか。
そう密かに思いながら過ごした数年間。今の自分の目には誰かに囲まれながら楽しげに話す茜が光り輝いて見えた。
その輝きは純の小ささを掻き消してしまう程、強いものに思えた。
岳がスピッツを歌い終わると同時に、会場は一層大きなざわめきに包まれた。
入り口に立っていたのは中学三年の夏に引っ越したはずの良和だった。懐かしい顔ぶれの中、さらに懐かしい人物の登場に会場は盛り上がる。
皆が良和に親しげに声を掛け、良和は曖昧な笑みを浮かべながらそれに答える。
「ヨッシー!何飲む!?」
「あぁ。コーラでいいや」
「飲まないんかよ!」
そのやり取りだけで笑いが起きるほど、皆が良和の登場に興奮し、再会の喜びを示していた。
佑太は小木や女子数名と話し込み、相変わらず甲高い声を上げている。
岳は再びさまよいながらあっちのテーブル、こっちのテーブルへと移動している。
茜は楽しげな笑顔を絶やすことなく、喋り続けている。
純は慣れない酒の為に次第に気分が悪くなり、ふらつく足取りで会場を抜けると階段を降りた場所にある踊り場に座り込んだ。
茜に近付けない苛立ちは純の心に靄を生み、それは雲となり、やがて冷たい雨を降らせた。
岳のように何も考えず人に向かっていける自信も無ければ、良和のように誰かに自然と迎え入れられる程の愛嬌も無い。
心の何処かが常に身構えてしまい、思った事を口にする以前に何も考える事が出来なくなってしまう。
そんな自分を変えたくて好きになったHIPHOPでさえ、自分の逃げ場になっているのではないだろうか。
本来立ち向かわなければならないものが分からず、焦りの中で検討違いの事ばかりしているのではないか。
純はネガティブに支配された感情で視界を開く。壁や天井や回り出す。これが「酔い」なのだろうか。
目を瞑っても、その回転が止まる事は無かった。自動販売機で水を買おうとゆっくりと立ち上がる。
廊下を進んでフロントの前を通り過ぎようとした時だった。
「新川さん……ですか?」
「え……?」
回り続ける視界の中に現れたのはかつて高校時代純が恋をした瀧川だった。黒く艶のある髪と印象的な高い鼻梁ですぐに瀧川だと気付く。
純の中で抱えた虚しさは決壊し、一気に瀧川を目指して流れ出して行く。純は相好を崩す、というより何かを諦めきったような乾いた笑みを漏らす。
「ここで働いてるんだ?へぇ……」
「お久しぶりです。昼は学校行ってるので、夜はここでバイトしてるんです」
「ふーん……そっか」
「あの……今日成人式ですよね?おめでとうございます」
「ねぇ、彼氏いんの?」
瀧川の言葉を無視した純は据わった目でそう訊ねた。瀧川は咄嗟に身を引き、純を警戒した。
「あの……え?」
「瀧川さんはさぁ、相変わらず綺麗だね。彼氏、いんの?」
「ちょっと……どうしたんですか?酔ってるんですか?」
「えぇ?当ててごらんよ。それよりさぁ……質問に答えてくれないかなぁ。あぁ……気持ち悪っ……」
「大丈夫ですか?あの……お水用意しますから……そこ座ってて下さい」
「どうも……」
瀧川がフロントの裏へと姿を消すと、純はフロント横のソファに座りながら頭上の嬌声に耳を傾けた。
誰かが楽しげな事でも言ったのだろうか、一塊になった笑い声はまるで天井を揺らしたように思えた。
その発言をしたのが実は自分だと一瞬妄想し、短い笑い声を漏らす。
次に茜の楽しげな顔を思い浮かべ、気軽に茜と話す岳を思い浮かべる。どんなに話したくても近付けすらしない自分への失望を、純は岳への嫉妬へ変えていく。
岳の周りにはどんな時でも常に誰かが居た。それは今も変わらず、そんな岳を観る度に無意識に自分と比べてしまう事が多々あった。
中学、高校と共に過ごしたはずなのに、どうしてこうも差がついたんだろう。
かつて好きだと言っていた茜と何の気兼ねも無く気軽に話せる岳に、純は羨望よりも激しい苛立ちを覚えた。
いけない事だと分かっている。きっと、これは正しくない感情だと。
それでも胸の内に覚えた感情に、純は飲まれていたのだ。
「新川さん、お水飲んで下さい」
フロントの裏から戻った瀧川が水の入ったグラスを手に、純に手渡そうとする。その手首を純は迷うことなく掴んだ。
するとグラスの水が零れ、瀧川の手を濡らした。
「新川さん、離して下さい……」
「嫌だね」
純は薄笑いを浮かべ、その目の奥にか細い愛欲の意思を湛える。瀧川の手首を握ったまま、自身の煮えたぎるような想いを馳せる先は茜だった。
その想いを抱きながらも実際に握っているのは瀧川の手首であり、純は愛欲と後悔と失望の為に泣き出しそうになる。
それでも、それら全てを憎しみに変えて瀧川に投げつけようとする負の感情を、純には止める事が出来なかった。
瀧川の手首を掴んだまま、利き手の左手で純はグラスを受け取る。水を一気に飲み干すと、純は瀧川を引き寄せようとする。
瀧川は身を捩り、声は漏らさずに抵抗した。その顔は悲しみの為か恐怖の為か、酷く歪み始め、このままではきっと泣き出すかもしれないと純は感じていた。
しかし、瀧川は言葉を発さず、純は手首を離そうとしなかった。
銭湯の暖簾をくぐって出て来た中年の男性客がその様子に気付き、純を嗜める。
「おい、女の子嫌がってんだろ!離してやんな」
純は瀧川の手を離すと、目を瞑って軽く笑い声を立てた。
「酔ってるのか?ったく、しょうもねぇや。成人か」
瀧川が無言のまま男性に頭を下げ、男性はぶつぶつと何か言いながらその場を立ち去る。
純は目を開けると天井を眺めたまま言った。
「瀧川さん……ごめん」
「…………」
「あのさぁ……キスしない……?」
その言葉に、瀧川は俯いたままその場を後にした。フロントの裏へと小走りに消えて行く。
純は薄目を開けながら回る視界の隅にその姿を確認すると、ソファに倒れ込みそのまま横になった。
岳は既に元居た場所が何処だったのか分からなくなっていた。行く先々で酒を注文し、グラスを足跡のように各テーブルに残していく。
千鳥足になり始めたその足で置かれているバッグやアウターを踏んで歩くが、謝る事も面倒になり始めている。
茜の居るテーブルに着くと怜奈が居る事に気付き、懐かしさの余りまた酒を注文した。
岳の肩を叩きながら赤ら顔になった茜が訊ねる
「ねぇ!あれは何処いったのよ」
「あれってどれだよ!」
「ほら、暗いのいんじゃん。純!純よ!純を出せ純を!さっき居たよね?」
「あれぇ?あれ、いねぇな」
会場を見回すとその姿は何処にも無かった。良和が「ひょっとこ」の様な顔をして何か踊っているのが見えたので岳は大声を上げて訊ねる。
「おーい!純君そっちいない!?」
良和はロボットダンスのような動きで手を左右に振る。「いない」という事らしい。
「何処にもいねぇな。帰っちゃいねぇと思うけど」
「ふーん。久しぶりだったから話してみたかったのになぁ!あーあ」
「そのうち出てくるんじゃん?」
「…………。トイレ行きたいから、どいて」
「はいよ」
茜は立ち上がると会場の入り口に向かう。辺りを見回しても純の姿は見当たらなかった。
誰かが茜に向かって声を掛け、愛想良く手を振り返す。
「こっち来いよー!」
という声を無視し、茜は会場を出て階段を下りた。




