死んだ魚
純はとうとうアルバイトを変えることになり、岳は掛け持ちのアルバイト先の変人店員に頭を抱え…。
2003年の冬を迎えた頃。
岳は人の足らない平日や土日に警備のアルバイトをし、平日は夕方からコンビニでアルバイトをするという生活を送っていた。
ベースやボーカルを本格的に音楽に乗せる為、練習する時間がかなり必要となったのだ。
バイト先のオーナーとは常連として顔馴染みで、面接へ行くと10秒で「合格!」と言われた。
岳が「いらっしゃいませー」と声を出している間、純はアルバイト先をクリーニング工場から物流倉庫へと変え、日々奮闘していた。
クリーニング工場はロッカールームでの一件から不満が募った後、突発的に辞めてしまった。問題を起こした人間ではなく被害者である純を他部署に配属させる、という事から生まれた不信感を味わって以来、毎日顔を合わせる従業員の誰もが薄暗い表情に見え、日に日に心が疲弊して行くのを感じてしまったのだ。
物流倉庫の仕事は朝8時から夕方までのオーソドックスな時間帯だった。午前中は大型犬用のペットフードや日用品をコンテナから降ろす。二台もこなせば腕は悲鳴を上げ、手を上げることさえも困難になる程の肉体労働が終了した午後は、それらを別の保管フロアへと運んで行く。
一日が終わると脳の芯までくたくたになる程に疲弊したが、人の事を気にする間もない程の慌しさの中に身を置くことに純は安堵を覚えていた。
ただ一点、自らの心臓の事を会社には伝えておらず、大きな不安は残ったままだった。
岳がバイトを始めて三日目の事だった。先輩アルバイトで40男間近の青柳が無精髭を摩りながら神妙な表情を浮かべていた。青柳は眼鏡を掛け直すと、独特のニュアンスの関西弁で岳に訊ねる。
「ちょいちょい、時に質問があるんですが。ええですか?」
「はぁ……何ですか?」
「ここ最近……店長はんに何か変わった様子はありませんでしたか?」
「いや……別に?何もないですよ。何かあったんですか?」
「時間になっても来ないし……連絡が取れへんのです」
「それバックレじゃないですか」
「いや、考えられへん。ありえへん。あの人は……そないな事するような人やないです……」
「ビビッて制服の俺に煙草平気で売るような人っすよ?どうですかね」
「いや……考えられへん。考えられへん……ありえへん」
その日シフトに入って岳に発注を教えるはずだった店長はとうとう現れず、数時間が過ぎた。店長と連絡が取れない事を知ったオーナーは早めの時間に店へ来て、裏で売り上げを勘定していた。
それから僅か10分後だった。オーナーは激怒しながらバックヤードから飛び出し、そして吠えた。
「あの野郎!金抜いてやがった!金……全然足らないよ!商品大丈夫か!?おい!青柳さん!ちょっと見て来てくれ!」
「は……はい!今やりまっせ!」
オーナーは頭を抱えたまま、岳に頭を下げた。
「がっちゃん、変な所見せちゃって申し訳ないね……」
「どうしたんですか……?」
「うん。店長ね、バックレたな。明日っからどうすっかなぁ……。シフト……ちくしょう」
岳は店長からまだ何も教わってもいない状態であり、店にも入ったばかりだったので何の情も無かった。しかし、接客が思いの外楽しかった事もあり、岳はオーナーにある提案をした。
「あの……俺、遅くまでバイトしてもいいっすよ」
「え?いいの?」
身体つきの良いオーナーは、ただでさえ丸い目をさらに丸くし、嬉々とした表情で岳を眺めた。
「はい。接客面白いし、全然苦じゃないんで」
「えー!?じゃあお願いしちゃおっかな!いいのかな?」
「良いですよ」
「ありがとう!がっちゃん大好き!うーん!もう!」
「ちょ、ホモじゃないんで止めて下さい!」
岳を抱き締めるオーナーを青柳は息を潜めながらバックヤードの影から眺めていた。その目はまるで死んだ魚のようだった。
結局、売上金の他には煙草が数カートン持ち出された形跡があった。繋がらない電話は翌日には解約されたようで、電話を掛けても「この電話番号は、現在使われておりません」という機械的なアナウンスが流れるだけだった。
店長不在の中、青柳は店長代理として店を立て直すと息巻いた。従業員間の連絡ノートにはすっかり店長気分となった青柳の字でびっしりと今後の「運営計画」が書き込まれていた。
「各位。丁寧語・敬語の徹底をして下さい。だらしがなさすぎます。お客様は友達ではありません」
「店舗内の清掃が行き渡っておらず、私は悲しいです。特に日用品の棚の埃が目立ちます。昼間のパートさん達は何をしているのでしょうか?おしゃべりは仕事ではありません。清掃を徹底して下さい」
「店長代理として私が危惧しているのは従業員一人一人の意識の低さです。何をするべきか、各位目標を立てここに書き込んでください。これは業務命令です」
しかし、それを読んだパート従業員の誰もが「勝手にしろ」と相手にしなかった。それどころか、青柳の次に書かれていたコメントは
「秋田へ行って来ました。裏におみやげあるので皆さん食べて下さい。宮田」
といったものだった。
連絡ノートを見て手を震わせた青柳は、シフトが同じ時間帯の岳に高々と告げた。
「ええですか?ワシは「明治大学」出身です。そこは必ず覚えておいて下さい」
「はぁ……そうですか」
「因みに……猪名川さんはどこの大学ですか?」
「いや……高卒ですけど」
「ほぉ……それはそれは……。まぁ高卒を否定はしませんが、人には能力を示すための「ステータス」というものがあります。それはつまり、証明です」
青柳の話を聞いているうちに岳の中から抑えきれない程の怒りが湧き上がってくるのを感じ始めていた。ステージに立ち、ドラムを叩き、ギターを振り回す感覚を思い出す。
そして思った事をそのまま口に出した。
「明治卒だったら何でこんな所でバイトなんかしてんですか?これがあなたの「結果」ですか?」
「ほう……言うてくれますね……。では、聞かせてあげます。これは、特別です。聞けてラッキーやと思って下さい」
「何です?」
「ワシはまず第一に、この店の運営スタイルを変えます。もっとフレキシブルな対応が出来る店にします。それはすなわち、ニーズに合った提供を確実にするという事です。そして第二に、店長へ昇格します。これは結果を残せばオーナーはワシを認めるのは確実なんです。そして第三に、ワンブリッジに入学します」
「はい?」
「ですから、ワンブリッジに入学します」
「はぁ……」
「分からへんですか?」
「ケンブリッジの事言ってるんですか?」
「あかん!これはアウトや!これやから高卒は……とは言いたくありませんが……高卒さんは大変ですね」
「そうですか。で、ワンブリッジとは何なんすか?」
「一ツ橋大学の隠語、とでも申しましょうか。普通はワンブリッジで通じるはずなんやけど……あかん」
青柳はそう言いながら、自信満々に目を輝かせていた。岳はとんでもない奴とシフトを組むことになったと思い、肩を落とした。
一方、高卒ですらない佑太は楽しげにその甲高い声を純の部屋に響かせていた。
「どうしよー!袴もいいぜぇ!?でももう時間ねぇかぁ!ははー!」
「疲れてるんさ。静かにしてくれん?」
「コンテナ二本くれーでヘバってんじゃねーよ!ったく弱ぇなぁ!」
「誰かさんと違ってデリケートなんさ。あぁ……温泉にでも入りたい……」
「ジジイみてーな事ばっか言ってよぉ。純は成人式どうすんの?」
「あー……行くかな……どうだろ」
「ちげーよ!スーツか袴かどっちか聞いてんだよ!行かないとかありえないぜ?」
「行かない人もいるんじゃない?あー……眠い」
「なぁ、成人式行くだろ?」
「あー。年明けたら考えるよ」
「それじゃあ遅いぜぇ?」
「あぁ……ちょっと寝るわ」
「えぇ!?起きろよー!カラオケ行くんだろ?なぁ!」
「…………」
「えぇ……嘘だろぉ……?」
佑太はあまりに早い純の寝息に驚嘆の声を漏らした。
成人式はもう目前まで迫っていた。




