カセットテープ
六月中旬、夜。岳はカセットデッキの再生ボタンと録音ボタンを繰り返し操作していた。
蒸した部屋の所々を突き刺す様に、ガチャガチャと音が鳴り響く。50分テープに好みの音楽を録音し終えると、やや緊張した面持ちで拙い字の曲目を書き、カセットケースを閉じて鞄にしまった。
翌朝、梅雨の霧雨に通学路は濃い灰色に濡れていた。
家から程近い小さな神社の石造りの鳥居が雨に染まり、重たそうに立っている。
いつもは電線の上を行ったり来たりしている小鳥のさえずりが、その朝は竹林の中から聞こえてきた。
そして陽の輝きを失った草木達は力強い太陽に当てられるのに疲れ果て、まるで微睡んでいるかのようだった。
ビニール傘を差しながら岳は自転車を漕いでいたが、霧雨程度なら、と傘を閉じる。
自転車の速度を上げると、濡れた頬を通る風が心地良かった。
自転車を置いて校内に入ると下駄箱で玲奈に会った。
指をさし、笑いながら岳に近寄る。
「がっちゃんおはよう。相変わらず顔色悪いねぇ」
「いつもだよ。逆に良かったらどっか壊れてんだ」
「がっちゃんマジで朝が似合わないよね。太陽の下が似合わな過ぎて、想像するとなんか笑うわ」
「ありがとうございます。褒め言葉です」
そう言うと岳は自嘲気味に笑った。
岳と玲奈が揃って教室へ入ると、佑太が腰に手を当て、何かに怒っている様子で純の前に立っていた。
純は机に座ったままで佑太を見上げている。
佑太が小声で純に何か呟いている。
「何なん?さっきの態度。舐めてんかよ」
純はうんざりした様子で答える。
「そうやってすぐカッとなるの、やめてくんない?俺も疲れるんさ」
岳が遠目に二人の状況を飲み込もうとしていると、純を庇うように千代が間に割って入った。
「喧嘩辞めなよ!ていうか藤森佑太、本当ムカつく。純君何も悪くないじゃん!」
「あ?女は黙ってろよ」
「何でそういう言い方しか出来ないの!?だから嫌われるんだよ!」
「俺は純と話してんだよ!女は黙ってろ」
話す気力を失くした純は、佑太から目を外した。床に視線を落とすと、小さな灰色の蜘蛛が這っているのが見えた。他を見回してみても、一匹だけだった。
佑太は近頃、何の脈絡も無しに突然純に対してのみ、機嫌が悪くなる日があった。二人と共に居る時間の多い岳や良和はそれを感じていたが、恐らくは佑太が純の事を下に見ているからだろう、と感じていた。しかし、それを改めるように注意する事は特にしなかった。
彼らの様子を薄笑いを浮かべながら見ていた玲奈が、岳の肩をそっと叩く。
「ほら。熱いのが嫌いながっちゃんの出番だよ」
「面倒くっさ。何なんだよ朝っぱらから……」
不満げな表情を浮かべながら岳は机に鞄を置き、佑太に声を掛けると教室の隅へ連れて行った。
佑太は岳と視線を合わそうとせず、落ち着きの無い様子で体を捩じらせた。
「佑太。純君に何かされたんか?」
「ちげーんだよ。純が俺の話「はいはい」とかテキトーに聞き流すからさ。酷くね?」
「純君、疲れてんじゃねーの?てか、そんな事くらいで怒んなよ」
「だって……仲間じゃん!」
「だったら尚更。誰かの話聞きたくない時だってあんだろ。仲間であっても手下じゃねぇんだから」
「分かってっけどさぁ……」
「なら純君に謝れよ。それでおしまい。はい」
岳に背中を押されながら佑太は純の前に立つ。
「すいやせんでしたー!」
佑太はややふざけた調子でそう叫ぶと、勢いよく頭を下げた。岳が一瞬顔をしかませ、舌打ちする。
千代が「ちゃんと謝りなよ!」と諭したが、佑太は聞こえないフリをした。茜が教室へ入るとその異変に気付き、千代と玲奈に「喧嘩?」と尋ねる。茜は猫の喧嘩でも眺める様に、口元を隠しながら笑っていた。
純は黒板を眺めたまま反応せず、佑太に取り合おうとはしなかった。
それを見た佑太は「ごめんってぇ」と純を宥めるように謝っていたが、純は「あぁ」と呟くだけで佑太を許した様子を見せなかった。
移動教室で理科室へと移動する最中、岳は純に話し掛けた。
「純君、佑太が最近あんな風になる事、増えてる?」
「あぁ……。最近多いね。こっちから話し掛けても無視されたり。振り回されてる感じするんさ。いい加減にしてくんねーかなって思ってんだけどさ」
「反抗期なんかね。純君、「的」にされてんかな」
「してるだろうね」
そう言うと純は力なく笑い、こう続けた。
「藤岡と比べる訳じゃないんだけどさ、友達と仲間って、何か違う気がするんさ。今の俺は佑太の子分っていうか。アイツと仲良くなればなる程、なんか藤岡を思い出して無意識に比べてるんかもしれんけど」
同じ転校生として岳には思い当たる経験があった。
新しい土地で友人が増える度、古い土地の友人を強く想う事でジレンマが生まれた。
ある日、学校交流の為の体育祭があり、岳の前小学校は同じ町内だった為に古い友人と新しい友人が一挙に揃った事があった。
古い友人達が「どうせ男衾はがっちゃんより面白い奴とかいないっしょ?」とやや見くびった態度で居ると、良和が「まんげハロー!」と叫びながら横を通り過ぎていった。
愕然とした様子で反応に困っている古い友人達の前で、岳は仲間意識と誇らしい気持ちを古い友人達ではなく、良和に覚えた。
岳にとってはその経験が救いとなったが、今の純に新旧の友人が同じ場所に集まる機会は当然無い上、佑太が余計な風当たりを純に向ける事で、純が元の藤岡に無意識に逃げ場を探してしまう事も岳は察した。
「そもそも、佑太が最近おかしいのが悪いんじゃねーの?」
「そう思うっしょ?マジ何なんだろ、アイツ」
「男の生理じゃん?」
岳がそう言うと純は声を上げて笑った。一瞬、前を歩く佑太が振り返った。
しかし、岳は構わず続けた。
「今日は奴、重い日なんだよ。まぁ友達は佑太だけじゃないし、純君も簡単に「はい」って言う事聞くのやめたらいいよ」
「そうしてみるよ。ありがとう。でも、最近マジでムカつくわ」
純は吐き捨てるように呟くと前を歩く佑太を睨みつけた。
佑太はあるクラスメイトの教科書を取り上げ、猿渡とふざけ合って笑っていた。
理科室へ近づくと生徒達が騒めく声が聞こえて来た。入り口付近に生徒達が集まっている為に岳と純は中へ入れずに居た。上川が「とにかく座れー」と指示を出し、生徒達はゆっくりとした足取りで席へと向かった。
理科室の中へ入った途端、岳は生まれてから今まで嗅いだ事のないような、強烈な甘い匂いに吐き気を覚えた。思わず各テーブルに据え付けられた手洗い用の水道で水を飲もうとすると、茜に「それ汚いよ」と言われたので岳は廊下の水道目掛けて飛び出て行った。
窓が全開にされた理科室で、上川が濡れた雑巾を数名の生徒に手渡し、机を拭かせている。
「何、この匂い」
純が顔をしかめていると猿渡が笑いながら近寄って来た。
「高崎がやったんだって!ははは!」
しかし、強烈な匂いの原因が分からず、純は首を傾げる。そこへ岳が戻って来た。岳が猿渡に尋ねた。
「何これ?何したらこんな匂いになるんだよ?」
「か、翔が、ま、前の授業中にバニラエッセンス瓶ごとブチ撒けたんだって!」
「ははは!」
岳と純は高崎 翔の暴挙に手を叩いて笑い合った。
一体どこの世界に理科室にバニラエッセンスを瓶ごとブチ撒ける中学生がいるのだろうか、しかし、ただ「やりたくてやった」のでは無いのだろうかと、岳は考えていた。
小学校六年の頃、翔は成績こそ良かったものの、日頃から女子をからかったり、学校の物を壊したりなどの悪ふざけを繰り返していた。
ある日、翔はまた悪ふざけをし細面で目つきの鋭い担任教師から説教を受けていた。
授業時間を割いて叱り続けても、翔の返事は「はぁ」か、平坦な口調で「はい」と淡々と呟くのみであった。すると自らの言葉が響いていない、と判断した担任教師は
「おまえみたいな奴はもう帰っていい!」
と激怒し、匙を投げたかのように見せた。翔はその言葉を真に受け
「じゃあ帰ります」
とそそくさと帰り支度を始め、教師から「本当に帰る奴があるか!」と容赦の無く張り手を喰らわされた。という事があり、児童達の間で翔の大胆な行動は有名になっていた。
その後も翔の成績は優秀な方であったが、大人に覚えた不満や怒り、そして思い立った事を例え一人だけだとしても学校側へぶつける翔の行動を、岳は好意的に感じ、またある種の尊敬の念も抱き、時に共に校内での「破壊活動」を行っていた。
岳はそれらを思い出しながらにやけていると、雑巾をかける上川が目に付いた。額に、打ち上げられた海藻のような髪の毛が汗の為にへばり付いている。岳は「ざまぁみろ」と口に出さずに呟いた。
掃除の為に授業が中々始まらず、かと言って岳達は手伝う気も起きず、先日あったUFO特番の話をしていると純が急に何かを思い出したように「そういえば……」と言った。
「がっちゃんさ、杉下さんて分かるかい?」
「杉下?あぁ、やっちゃん?」
純の口から飛び出たその名前と純との接点が岳は見出せなかったが、純の表情からあまり良くない話なんだろうという事を読み取った岳は純に向き直った。




