犯人は姉弟
冷蔵庫を開けた。
薄暗い台所にオレンジ色の光がさす。独特の香りがする空気の中に手を入れると、そっと冷たい皿に触れた。
ショートケーキだ。皿に乗り、ラップをかけられている。少し迷ってからテーブルの上に置いた。
きっと、明日の朝にはばれてしまうけど仕方ない。限界だった。
父親が煙草を買いに出かけてから、半年が経っていた。
その間一度も顔を見ていない。家族に隠れて借金を作っていたらしい。
四十を超える母親も仕事を探したが、うまくいかず、結局私が大学を辞めて働くことになった。
だから、弟の買ってきたショートケーキを食べることぐらいいいじゃないか、と言い訳する。弟は文句を言うだろうが、本当にけんかになるとは思えなかった。そのやさしさに甘える。
ダイニングテーブルの上だけを照らす明かりをつけて、ショートケーキをほおばる。人工的なまったりとした甘さが口に広がった。スポンジは冷えて少し硬い。
「姉ちゃん」
暗闇から声がした。弟だ。思ったよりも早くばれた。廊下から出てくる。グレーのスウェットの上下を着ていた。
「ごめん。ケーキ食べちゃった」
「それはいいんだけどさ」
いいのか。本当にいい弟だ。その言葉を信じていちごに手を付ける。さわやかな酸味が鼻に抜けた。まだ二月だ。旬ではないのだろう。
「姉ちゃん、今日が何の日か覚えてる?」
フォークを口にくわえたまま固まった。弟は明かりの前に立っている。半年前のあの日から、背が伸びている気がした。高校生だ。急に大人になってしまう。
何の日。クリームが体温で溶ける。唇ににじむのが分かった。弟の誕生日は来月のはずだ。
弟はため息をついた。
「姉ちゃんの誕生日でしょ。馬鹿なの」
「誕生日」
久しく家族で祝っていない日付を言われた。確かにそうだ。二月の半ば。バレンタインを過ぎたころ、私は一つ大人になる。今年はそれより先に社会人になっていたから忘れていた。
「だからケーキを買ってきてくれてたんだ!」
「まあね」
「いい弟だ。ありがとう」
母はそういうことに気の回らないひとだから、きっと弟だろう。唇を尖らせる。
「ケーキ、おいしい?」
「おいしいよ。ありがとう」
「ならいいけど」
それだけ言うと、部屋に戻ってしまった。誕生日だと自覚すると少し寂しいが、仕方ない。日曜日は逆に弟がバイトなのだ。家族が顔を合わせられる日は、減ってしまった。
ケーキをほおばる。確かに、いつもよりおいしい気がした。
「あら、あんた帰ってたの」
「おはよう。お母さん」
八時過ぎにリビングに顔をだすと、母が朝食の準備をしていた。当然私のものはない。個別に用意するのが我が家のルールだった。唯一置かれたマグカップに、コーヒーを注ぐ。休日はコーヒーメーカーからのものが飲めるのでおいしい。
「昨日のケーキ食べた?」
「食べたよ。ありがとう。おいしかった」
「そう。よかったわね。あれ、作ったのよ」
口の端からコーヒーがもれた。むせる。
「お母さんが作ったの!?」
「ううん。あんたのかわいい弟が作ったの」
気管支に入った。また盛大にむせる。そんなことありか。
「なんであいつが!」
「あの子、昔から器用だったじゃない。ああいうのも得意なのよ」
「知らなかった」
コーヒーの香ばしい香りがする。むせて目の端に涙をためながら、息を落ち着かせる。
「ケーキ屋さんになりたいのかな」
「パテシエって言うんじゃないかしら。今どきの子は」
母は、のんきに目玉焼きに箸を通す。
「そういう学校に行きたいのかな」
「そうかもしれないわね」
醤油をかけた。この人も、今日は仕事だったはずだ。
「でも、今考えることじゃないわね」
「そうだね」
「とりあえず今やることは」
「ケーキのお礼のメールをする」
目を合わせると、自然に笑みがこぼれた。いつ以来の朝だろう。
昨日のケーキの味を思い出そうとしたが、難しい。いちごの少し硬い舌触りがよみがえる。
上手にできていた。
食べた翌朝のコーヒーまでおいしいのなら、きっとそれは、幸せの味だった。