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かわいい けだもの しろい エイラは デヒの せなか(1)

挿絵(By みてみん)

い ねいら くほ ぁうく

いった か でひ き たす ぁわす ぇふぉじ

(える)


かわいい けだもの

しろい エイラは デヒの せなか

(1)







エイラは 逃げた

囲いを 抜け 草原を 走り 森を くぐって


「もう もどらないわ」

「もどる ものですか!」

「いやなこと ばかり」

「いたい こと」

「くるしい こと」

「もう いや…」


エイラは 逃れた 過去を 思い出していた

思い出す というより

忘れようにも 忘れられない ほど

まだ若い エイラの 心と体に 刻まれた

苦痛の日々の ことを


エイラには あれが 何だったのか わからない

なぜ あんな ことを され続けたのかも


エイラは 逃げることで 過去を 振り切り

未来を 持つことが できた

いま 足に 触れている ここが どこなのかも 知らないが

何もかも 自由に 感じられた

でも…


「あっ!」

自由な ところは それだけ

危険も あった


「ぐふ…」

目の前に 灰色の 獣が 立っていた

それは 低い 唸り声を あげていた

獣は 素早く 駆け寄ると

汚れた 手で エイラの 白い首を つかんだ


「イン ニ タータ…」

獣は 持っていた 鹿の 頭を 落として

踏みつぶした

骨が 砕け 黒い血が 飛び散った

「うっ…!」


エイラにとって 外界を 見るのは

今日が 初めて だった

それは 残酷な ところだった


「うぅ…」

エイラは うつむき 吐いた

咳込みながら 吐いた


「インニ タータ… うまそうな いきの においだ…」

すくみ上がる エイラの 顔に 獣は

手を 当てた


「まだ おまえらが いきて いたとは…」

「とけるような にくが いきて いたとは…」


獣は 爪を 立てて

エイラの 頬を 徐々に 引き裂いて いった


「かお から くって やる」

獣は 舌を 突き出して

流れる エイラの 血を なめた

「インニ タータの におい だ…」


エイラは 叫びたかった

でも 怖さに 震える ばかりで

何も できなかった


「おぉーぅー…」


どこからか 聞こえてくる 獣の 遠吠え

その声は 繰り返し 周囲を 動いていた


「くって やるぞ」


そのとき 遠くの 草影から 何かが 飛び出し

目にも止まらぬ 速さで 向かってきた

何かが 空気を 斬り裂き

獣の頭を 弾き飛ばした


エイラは 衝撃で 倒れ

体を 大木に 打ちつけた


「いに たーた…」

「もざび さら…」


痛さを がまんして

ようやっと 目を 開けると そこには

大きな 手が 広がって

とがった 爪が 見えた


「あぁ…」

エイラは そのまま 気を 失った







「うぉーぉ…」

獣の 声?

エイラは 慌てて 起き上がった

目の前には また 大きな 獣の顔が 迫っていた

「がーふ!」

「キャーッ」

エイラは 叫び

獣の顔を 突き飛ばした


「なんがい さら!」

獣は 少しも 動かず

手を そっと エイラの 顔に 当てた

「がふ?」

「え…」


固く 閉じた 目を 少し 開けると

獣は 首を 傾けて 見ていた


「えさりな す かえ?」

「てもら ても ででなんがい す かえ」

「いに たーた?」

目の前の 獣は 何か 話しかけている ようだった


「くらね けえ?」

「あるしゃん ごき?」

「だす いんねまぁ?」

「わぴ そばい?」

「とっけき そーびと?」

「わかるのは どれ?」

「うぉー うおうぉ?…」


「それ それ!」

エイラは 思わず 獣に 応えた

「うぉー うおうぉ?」

エイラは 首を振った


「ああ よかった…」

獣は 手を 放して

二本の 足で 立ち上がった


「やっと これで おはなし できるね」

その 獣は エイラの 使う ことばを 探して

話し始めた ようだった


「なんか のむ?」

獣は 振り返って 耳を 動かした

「え?」

よく 見ると エイラは 干し草の 上に いた

それは 小さな 小屋の 中だった


「はい」

「これは ふつうの… みず」

獣は いくつかの 入れ物を 持ってきた


「これは ふつうの…」

「ち」

「これは ちの うわずみ…」

「のみやすいと おもうよ」

「この いろの うすい のは こつずい…」

「げんきが でるよ」

「この ちいさい のは せきずいえき…」

「ちょっと しか とれないん だよ」


「なんで うしろ むいてる の?」

「べつに」

差し出された のは

エイラの 胸を 悪くする 物 ばかりだった

「どれに する?」

「やっぱり ふつうの ちが すき でしょ」


エイラは 怒って

獣の 顔を 叩いた


「けだもの!」

エイラは 叩きつける ように どなった

「そうやって どうぶつを ころしてたのね!」

「らんぼうよ! けだものだわ!」

「たべようとしたら もういっかい たたくから!」

「そばに こないで!」


「そんな…」

獣は 下を 向き 座りこんだ

とがった 耳が だんだん 倒れて いった


「たべよう なんて ちょっとしか おもわなかった」

「もし そうなら きず なおしたり しなかったよ…」


「え… き…ず…?」

エイラは このとき 自分の 顔が

ひどく 引き裂かれていた ことを 思い出した


「いたく ない… なんて…」

さわって みると

頬の 傷は ほとんど 治っていた


「ねえ…」

エイラは そっと 手を 差し出した


「ごめん」

「あたしが わるかった」

「そうよ」

「だって たすけて くれて」

「けがを なおして くれたん ですもの」

「たべられ たって おなじ こと なんだわ…」


獣は 涙の たくさん たまった 目で

びくびく しながら エイラを 見つめた


「でも やっぱり」

「ふつうの みずが いいな」


「ほんと に?」

獣は 顔を 上げ

そっと 水を 差し出した


「はい…」

「うわー…」


それは 木を くりぬいて 作った

大きな 入れ物 だった


「でっ かい こと…」

「ねえ! これ…」


「え?」


獣は 他の 入れ物を 持って

中の 血を なめて いた

「ごめん」

「なんでも ない」

「はやく のみ おわってね…」


「ふう それで ね」

獣は 床に 置いて あった くさりを つかむと

エイラに 見せた


「これ… ちぎっちゃっ たんだ」

「かえす から おこら ないで…」


「あっ とれてる…」

それは エイラに つけられて いた

首輪と 足輪 だった


あれで 引き回され

苦しい おもいを 繰り返した

くさりつきの 首輪 だった


「おこら ないで…」

「かってに とっちゃっ たの」

「わるいと おもってる から」

「でも くるしそう だった し」

「けが してた から…」


獣は うつむいて

小さな 声で エイラに あやまり 続けた


「ちぎった のも わるいと おもって る」

「ていねいに とれば よかった けど」

「いがいと かたかった し…」

「これ… あんまり にあわないと おもった」

「あし なんか すれて いたそう だった し」

「うちがわ さびてた よ」

「それで…」

「いまの うち あやまって おく けど」

「もう それは つけられ ないん だ」

「ご め ん」

「だいじな もの だった の?」

「ずっと してた みたい だし」

「ごめん ね たたか ないで…」


縮こまって 震える 獣の 手から

ねじ切れた くさりが ひとつ

床に 落ちた


「とって くれたのね!」

エイラは 目を 見開いて 叫んだ

「ごめん あやまる から ぶたないで…」

獣は エイラの 声で さらに 小さく なった


「うれしい!」

「あたし ね」

「その くびわ きらい だったの」

「でも かたくて とれなかった」


獣は 頭を エイラが なでて いるのに 気がついて

おそる おそる 見て みた


「あなたは いい けものさんね」

「さっき たたいて ごめんね」

エイラは 獣の 手から

くさりを 受け取ると

遠くへ 放り投げた


「あたしは エイラ」

「エイラ・ミヒ」

「あなた は?」

エイラは 獣の 鼻先を さわった


「な… なんでも ない よ…」

獣は やっと 震えが 止まって

座り 直すと エイラの 手を 握った


「それ より…」

「なんで あんな とこ ひとりで あるいて たの」

「あぶない よ」

「めずらしい におい するなと おもって いったら」

「あいつ ねらってた」


「そう あたしも こわかった」

「ディヒが きて くれなかったら おわり だった」


「デヒ?」


「ディヒ」

「あなたの こと いま かんがえたの」

エイラは 獣の 手を さわった

「すごい てだね ディヒの て…」

それは エイラの 白い 手より

何倍も 大きな

とがった 爪の 生えた

土色の 手 だった


「そう?」

「これが あるから えもの たおせる」

「もし なかったら すぐ しんじゃう」

「さっきの あいつも おなじ」


「ねえ ディヒ…」

エイラは もう

この 獣が 恐く なかった

「そろそろ かお あらった ほうが…」

「え?」

獣の 顔には

さっき なめた 血が たれて

固まって いた

「あ…」

獣は 慌てて

長い 舌を 突き出した


「なめる だけじゃ だめ!」

エイラの 声で

獣は びくっと した

「でも かわは とおくだよ」


「つかれる から いやなの?」


「ちがう よ」


「みずが きらい なの?」


「ちがう みずあびに いってる あいだに…」

獣の 声は 小さく なった

「もし また あいつが きたらと おもって…」

「だから」

「どうしてもって いうなら えーと…」

「エ…エイラも いっしょに」

「きて ほしい…」


「ディヒ…」

エイラは 獣に 飛びついた

「ありがとディヒ!」







ふたりは 外に 出た

獣は 四つ足で 走り出して

とても 速かった


「ディヒ まってよ」

そう 叫んだ とき

なぜ 獣が 急いで いるのかが わかった

獣は エイラの 安全を 確かめる ために

周りを 調べている ところだった


「おいで エイラ…」

獣は 振り向き

ふさふさの 尾を 揺らした


外に 出た 獣は

さっきの 泣き顔とは 違って

とても りりしく

ちょっと 恐い くらいの 目つきを していた


「なにも いない から へいき だよ」

「まあ ふつうは みんな にげだす」

「ここで いちばん おおきい けもの だから」

「みんなに きらわれ てる」


「え? みんな ディヒ きらいなの?」


「デヒ?」

「あなたの ことよ」


「そ…そう か」

「きらい らしい」


「きっと みんな あたま わるいのね」

エイラは 少し 淋しそうな 獣を

励まそうと してみた


「そうだ さっきの こと だけど」

「なんで こんな とこに きたの?」


エイラは うつむいた


「ご…ごめん…」

「いやな ことが あったん だね」

「ごめん もう きかない から」


「いいの」

エイラは 小さな 声で 話し 始めて

獣は それを 心配そうに 見つめて いた


「にげて… きたの」

獣は それを 聞いて 立ち止まった


「ずっと むこうから」

「だって いやだったん だもの」


「そう か やっぱり」

獣は エイラの 震える 手に ほおずりを した

「まだ やってるん だな」

「あいつら」


「え…?」

エイラは 顔を 上げた


「そいつら かおの つぶれた」

「にほんあし でしょ」

獣は その場で 立ち上がった

骨を ぼきぼき 鳴らして

まっすぐ 二本の 足で 立った


「エイラ みたいな かたちの」

「ほそながい やつら でしょ」

獣は エイラの はるか 上から 見おろした


「そ… う…」

エイラは 獣の 大きさが 少し 恐かった


「まえにも なんかい か」

「そんな ことが あったよ」

獣は また 骨を 鳴らして

四つ足に 戻った


「ひがし から にげて きたん でしょ」

獣は 首を 傾けて

優しい 顔を した


エイラは 黙って うなずいた

「ディヒ どうして?」


「きっと そうだ と おもった」

「だから すぐ エイラの」

「くびわ ちぎった」

獣は 土に 爪を 立てた

地面に 深い 傷あとが できた


「でも…」

「もしか したら って おもった から」

「すぐ あやまっ たの」

「インニ タータ は」

「よく くさり くびに まいてる から」


「イン…?」


「エイラの こと」

「インニ タータ」

獣は 手の 爪で

エイラの 顔を 指さした


「そうか」

「つらかった でしょ」

「でも もう だいじょうぶ」

「もし エイラ とりに きたら」

「せえ かも きまっ! って」

「おいはらって やるからね」


エイラは 涙が 出るほど うれしかった

でも なぜ 獣が

みんな 知って いるのかが ふしぎだった


「あいつらは いつでも」

「そうやって なわばり ひろげる」

「エイラ つかまえて」

「いいなりに させる」

「デヒ も あいつら きらい」


獣は 目を 閉じて

たてがみを 逆立てた


「あるこう」

獣は エイラの 速さに 合わせて

歩き 始めた


「むかしは この あたり にも」

「インニ タータ すんで た」

「あの すみか も」

「むかし インニ タータ つくった もの」


エイラは 小屋の 中に あった 物が

自分に ちょうどいい 大きさ だったのを 思い出した


「けもの きらわれ てた」

「そばへ いくと」

「さっきの エイラ みたいに」

「きゃーって にげて いった」

「いっかいしか たべたこと ないのに」


「たべた… の…」


「いっかい ね」

「ちいさ すぎて とるのが たいへん だから」

「いっかいで やめた よ」


「いつの こと?」

「ねえディヒ いつごろの こと?」


「だいたい」

「さんびゃく ねん まえ」


「え…」


「だから むかしの ことだよ」

「エイラも」

「エイラの おやも」

「エイラの おやの おやも」

「エイラの おやの おやの おやも」

「しらない ころの こと」

「そのころ から」

「ずっと ここに すんでる」

「エイラ きっと じゅう ろく さい でしょ」

「デヒ さんびゃく はちじゅう に さい」


エイラには 獣の 年齢が 信じ られなかった

歳とっている ようには 見えなかった


「いままで に」

「じゅう きゅう の」

「インニ タータが」

「くびわ つけた まま」

「ここに はしって きた」

「だから エイラは」

「にじゅう ばんめの インニ タータ」


エイラは 何も 答え られなかった

この 獣には 何も かも

かなわない ような 気がした


「きっと」

「ゆうやけに むかって はしる から」

「みんな ここに くるん だろう」

「エイラも そう でしょ」


エイラは 小さく うなずいた

「くらく なるのを まって」

「はしったの…」


「そう…」

「インニ タータは」

「ひかりが すき だから」


「ねえ その…」

「その ひとたち どうしたの?」

獣は 答えず 黙々と 歩いていた


「どこに いるの?」

「ねえ ディヒ」

エイラは 知りたくて

獣の 首を 揺さぶった


「とおく だよ」

「ずっと とおくに いった」


獣は 空を 見上げた


「とおく って…」

「どういう こと?」


エイラは 獣から 手を 放した

「ディヒ…」


獣は エイラを ちらっと 見た

「きらいに なった?」

「そうでしょ エイラ」


エイラは 少しずつ 獣から

離れて いった

「ディヒ… そんな…」


「きらい なんだね」

獣は エイラを 追った

エイラは 後ずさり して 獣を 避けた


「よわい なあ エイラは」

獣は 立ち止まった

「どうして インニ タータ みんな」

「おなじ こと かんがえるの」

獣は エイラから 離れて

元の 道へ 戻った


「デヒ たべたと おもってる でしょ」

「さっき いった でしょ」

「たべる くらいなら きず なおしたり」

「しないって」

「それに」

「インニ タータ たべた のは」

「いっかい だけ だって」


「いいよ」

「きらわれるの なれてる から」

獣は そう 言って 歩き 続けた


「ディヒ…」

エイラは 走った

「ディヒ だって…」

「なんか こわかった から…」

エイラは 獣の 横に 戻って

いっしょに 歩いた


「インニ タータは」

「たべられる ことしか かんがえ ないの?」

「エイラ」

「もっと つよく ならないと」

「そう でしょ」


「ごめん ディヒ」

エイラは うれしくなって 叫んだ


「もう ディヒ うたがわない」

「ディヒは いい けものさん だから」


「そう?」

「エイラ にじゅう ばんめの インニ タータ」

「じゅう きゅう ばんめの インニ タータは」

「ずっと とおくに つれて いった」


「え?」


「みなみの ほう」

「ずっと とおくに」

「インニ タータ すんでる から」

「じゅう きゅう ばんめの インニ タータ」

「せなかに のせて」

「なんにちも あるいて つれて いった」


「そこに みんな いるのね!」


獣は ちょっと うつむいた

「エイラも いきたく なった でしょ」

「ぜったい そうなると おもった から」

「さっき だまって たの」


「だって よわい インニ タータ」

「つれて いくの」

「すごく つかれる から」


「ディヒ…」


「ほら その かおは」

「いきたいん でしょ」


エイラは 目を 閉じて うなずいた


「わかったよ」

「そんな かなしそうな かお しないでよ」

「エイラの においに きが ついた ときから」

「こうなる のは わかってた」


「ありがとディヒ…」

エイラは 獣に 寄り添った


「そしたら あした でかけ よう」

「でも なんにちも かかるん だよ」

「とちゅうで つかれた とか」

「もう やだ とか いったら」

獣は エイラの 目の前で

笑いながら 牙を むいた


「すぐに エイラ たべて」

「らくにして あげる」


「ディヒ こわーぃ」

エイラは くすくす 笑った


「それと エイラ」

獣は エイラの 体を 見回した


「エイラ はだか でしょ」


「え…?」


「はだか だけど いいの?」

「インニ タータは みんな」

「しろい の きるん でしょ」


「ぜんぶ とられ ちゃったの」


「そう か」

「でも はだか だと」

「インニ タータ らしく ないから」

「みずあび から もどったら」

「しろい の あげるよ」

「こしに まく ひもも あるから」


「ディヒ ほんとに いい けものさんね」


「エイラ どうして そんな けものが」

「インニ タータの しろい の」

「もってるか しってる?」


エイラは 首を 振った

「ディヒが つくって くれたの?」


「ちがう」

「ひとつは むかし たべた インニ タータの もの」

「これは さん ばんめの インニ タータに あげた」

「のこりは あの すみかに たくさん あった もの」

「あの すみか みつけて」

「はいって みると」

「なかには だれも いなかった」

「どうぐは ちゃんと のこってた けど」


「にほんあし に つかまった か」

「なにか に たべられた か」

「みなみ に むかった か」

「どれかが あって」

「いなく なった らしい」

「だから たくさん しろい の もってる」


「そう だったの」


「エイラ」

「せなかに のって くれない?」


「え? どうしたの ディヒ」

「この さきは がけ なんだ」

「がけの したに かわが ある」

「インニ タータの あし だと」

「おりる だけで はんにち かかる から」


「そんなに ながいの?」


「ながくは ないけど」

「がけが きゅう なんだ」


エイラは 地面に 伏せた 獣の 背中に またがった

その 背中は 暖かく

やわらかい 毛が いっぱい 生えていた


「いいかい たつよ」


立ち上がる だけで かなり 揺れた

エイラの 体は 高く 持ち上げ られて

少し 怖かった


「おしり だけで すわってる の?」

「それじゃあ すぐ おちちゃう」

「もっと まえに たおれて」

「デヒ の くび」

「うでで しめて ごらん」


エイラは 獣に 言われた とおり

うでを 巻きつけた


「そう それと あしは」

「デヒ の おなかに くっつけて」

「そう」

「それなら おちない」


獣は 跳ねたり したが

エイラの 体は 少しも 動かなかった


「がけ おりる とき」

「すごく こわい かも しれない」

「こわいと おもったら」

「め とじて つかまってて」

「いままで インニ タータ」

「いちども おとした こと ないから」

「エイラも おちないよ」


獣は 崖の 縁に 立った

急に 落ち込んだ 深い 谷

岩の 突き出た 絶壁 だった


「いくよ エイラ」


エイラには それが

真下に 落ちていく ように 見えた

体が 浮いた 感じに なり

そのまま 谷底に 叩きつけられる

そんな 気が した


エイラは 耐えきれず

目を 固く 閉じて

獣に しがみついた


獣の 背中で

エイラは 激しく 揺れた

上 右 前 下 左 後

どっちを 向いて いるのか

わからない ほど

獣の 動きは 素早く

曲がり くねって 落ちて いった


「エイラ」

「もう いいよ」


獣は そう 言って 止まった

そこは もう 谷底で

しぶきを あげた 川が あった

獣は 小石の ちらばる 川原に 伏せた


エイラは 手と 足を ゆるめて

獣の 背中から 降りた


「こわ かった?」


エイラは うなずいた


「おちない って いった でしょ」


獣は 川の 流れに 向かった


「エイラ ここで みずあび しなさい」


獣は 水に 入って 振り向いた

流れの 少ない

浅い 水たまり だった


「ふかい ところに いかない こと」

「インニ タータ かるい から」

「すぐ ながれて いく でしょ」


獣は そう 言うと

川の 流れに 飛び込んだ

水に もぐって

岩を 倒して

暴れている ように 見えた


エイラは 川に 入ると

手で 水を くんで

少しだけ 飲んだ


獣は 暴れるのを やめて

顔を 上げた

固まって いた 血は

きれいに なって いた


「エイラ たべる?」

獣は エイラの ほうを 向くと

いくつか 何かを 投げた


川原で 跳ねている それは 魚 だった

大きい のも 小さい のも いた


獣は もう いちど もぐると

今度は 魚を くわえた まま

エイラの そばに きた

獣の 毛から

しずくが いくつも 流れた


「たべる でしょ」

獣は そのまま 上を 向いて

くわえた 魚を 飲みこんだ


「たべ ないの?」

獣は 川原の 魚も くわえて

また 飲みこんだ


「たべ ないと エイラ しんじゃう」

「それとも エイラ じぶんで とる?」


エイラは 小さい のを 持って

石に 座ると

それを かじった


「これも エイラの ぶん」

獣は もう ひとつ

小さい のを エイラに 渡した

それは 自然の 川の 味だった

エイラが 今まで 食べさせ られていた

乾いた 粒 よりも

ずっと おいしく 感じた


獣は 少し 離れて

ぶるぶるっ した

たくさん 水が 飛び散って

川原の 石を 濡らした


「うぅ…」

「おぉーぅ」


獣は 空に 向かって 吠えた


「きに しないで たべて エイラ」

獣は ちらっと エイラを 見ると

また 遠吠えを した


強そう だけど どこか

淋しそうな 声だった


エイラは 獣の くれた 魚を

ふたつとも 食べた


「たべ た?」

獣は 遠吠えを 終えて

エイラの そばに きた


「それ たべ ないの?」


獣が 鼻で 突ついたのは

エイラが 握って いる

食べ残しの 骨だった


「それ たべ ないん でしょ」

獣は エイラの 手から

骨を くわえて ぽりぽり 食べた

エイラの 手も 大きな 舌で なめて

下に 落ちた かけらも

きれいに なめ取った


「ちょっと でも のこす のは」

「いけない こと でしょ」

「むかし つかまえた インニ タータも」

「こう やって ぜんぶ たべたよ」


獣は 水ぎわに 行くと

ぴちゃぴちゃ 水を 飲んだ


「エイラ みずあび しないの?」

「おいで エイラ」

獣は 手招き した


エイラは 立って 歩いた


「そこに すわって」

獣は エイラを 水たまりに 入れると

前足の 毛に 水を つけて

エイラの 体を 拭いた


「エイラ よこに なってよ」

獣は 手で エイラの 頭を 支えて

水に 寝かせた


「きれいに なる でしょ」

獣は 何度も 前足で

エイラの 体を 洗った


「かおと しっぽは エイラ あらって」

「そこ さわるの きらい でしょ」

獣は そう 言って 水から あがった


エイラは 獣に 言われた とおり

顔と 長い 尾を 洗った

先の ほう だけに 白い 毛の 生えた

細い 尾が 水の 中で 揺れた


「かえろう か エイラ」


獣は また 伏せると

広い 背中を エイラに 向けた


「つかまって ね」

獣は エイラが 乗ると

すぐ 走った

崖を 登り 木の 間を ぬって

獣は 勢いよく 駆け上がった


「ディヒ すごい ね」

エイラは もう 怖く なかった

獣に ついて いれば

何も 恐れる ことは ないと 思った


「インニ」

「タータは」

「かるい」

「から」


獣は 息を 弾ませて

岩を 蹴りながら 言った

それは 唸り声に 混じった

獣の 声だった

「ここ」

「のぼら せると」

「はんにち」

「かかる って」

「わかる」

「でしょ」


獣は 休む ことなく 走り

すぐに てっぺんに 着いた


「エイラ あるいて」

獣は 伏せて エイラを 降ろした


エイラ には

荒く 息を する その 獣が

とても 力強く 見えた

あれだけの 崖を 登っても

傷 どころか 汚れ ひとつ なかった


「ディヒ…」

「よかった ディヒに あえて」


獣は 何も 言わず 歩いた


「ねえ ディヒ…」

「ディヒ ひがしの ほう しってるの?」

「あたしが いた ところ…」


獣は 黙って いた


「ねえディヒ むこう に…」


「いやだ よ」

獣は 急に 大声を 出した


「エイラ そこに まだ」

「インニ タータが いるって」

「いいたいん でしょ」

「みんな つれて きたいって」

「おもってるん でしょ」


エイラは 何も 言えなく なった

獣は 何でも 知ってて

エイラの 考える ことまで

わかってると 感じた


「むこうの ことは しってるよ」

「あいつら どんな やつで」

「なに してて」

「どこ かんだら しぬか も」

「みんな しってる」


「ディヒ だって…」


「たすけたいん でしょ」

「エイラの おやも そこに いるって」

「いいたいん でしょ」


エイラは うなずいて

獣の 首に 抱きついた


「エイラ なんで けもの が」

「そんな あぶない こと」

「しなきゃ いけないの」


エイラは それでも ずっと

獣に しがみついて いた


「たすける のは」

「エイラ ひとりで やって」

「つかれる し」

「たべられる かも しれない から」

「デヒ いやだよ」


エイラは 獣から 離れた


「また きらいに なった でしょ」

「ねえ エイラ そう でしょ」


獣は エイラを にらんだ


「むかって きなさい エイラ」

「そんな けものの かお たたきに」


獣は 走った

エイラも 走った

でも どんどん 離れて いく

とても 追いつけない

息が きれた エイラに

獣は 駆け戻って きた


「エイラ ごめん つかれた でしょ」

「でも わかってよ」

「エイラ が」

「インニ タータが よわいから」

「あいつら やめないん だよ」


獣は 二本の 足で 立つと

エイラを 持ち上げて

肩に 乗せた


「どうして くるしい のに」

「どうして いたい のに」

「そのまま あきらめ てるの」

「どうして にげるの」

「どうして かみついて やらないの」

「ねえ インニ タータ」


「デヒ が エイラ だったら」

「きっと あいつの かお たたいて」

「くびに かみつくと おもうよ」


「エイラ いま」

「そんなの できない って」

「とても できなかった って」

「けものとは ちがうんだ って」

「おもってる でしょ」


「どうして インニ タータは」

「そう かんがえるの」

「あいつら には」

「エイラ みたいな きばも ないし」

「しっぽも ないんだよ」


「ほんとは インニ タータ より」

「ずっと よわい はず でしょ」

「なんで そんな よわいのに」

「エイラ なにも しなかったの」

「そんな インニ タータは」

「たすかる はず ない でしょ」


獣は 黙りこむ エイラを 乗せて

歩き 続けた


「なかないで エイラ」

「エイラが つよく なれば」

「みんな たすかるん だよ」

「どんな こわい ことでも」

「にげないで やって みて」


「デヒ は エイラに」

「たたかえ なんて いって ないよ」

「ただ インニ タータが」

「みんな まとまって」

「もういやだ って」

「いえるように なって ほしい」


「にげる より さきに」

「みんなで くふう する こと」

「かんがえる ように なって ほしいんだ」


「そう なれるかい エイラ」


「デヒ みんな たすけたり しない けど」

「エイラ たすける ためなら なんでも する」

「ねえ エイラ じぶん しんじて」

「みんなで たちむかって みてよ」


「おねがい つよく なってよ エイラ」







「ついたよ」

「なかないで エイラ」


エイラは 獣に 背中を 押され ながら

小屋に 入った


「そこ エイラの ねどこ」

獣は エイラを 干し草の 上に 座らせた


「どれが いいかな」

「これ かな」

獣は エイラの 体に 合う 大きさの

ものを 探していた


「エイラ これ しろい の」

それは 白布で できた

肩から 下げる 形の 服だった

両わきに ついた 金の 輪が

前と 後ろを つないで いた


エイラは それを 受け取り

すぐ 着て みた


「よかった エイラ やっと」

「インニ タータ らしく なったね」


「ありがと ディヒ」

エイラの 顔に 明るさが 戻った


獣は エイラの そばに 座って

干し草に もたれた


「ねえ ディヒ」

「きかせてよ いろんな こと」

エイラは 座り直して 獣に 近寄った


「おねがい おしえて」

「どう すれば いいのか」


獣は 大きな くちを 開けて

長い あくびを した


「ディヒ むかし なにが あったの?」

「あたしたち イン ニ タータ が」

「いなく なったのは いつごろ?」

「いつから つかまえ はじめたの?」

「なんで つかまえて いくの?」

「みなみ では みんなで」

「くらして いけるの?」

「ディヒの なかまも そこに いるの?」

「あたし なに すれば いいの?」


獣は 目を 閉じた

「ねむく なった よ」

「エイラも ちょっと ねれ ば」


エイラの そばに いる

大きな 獣は

息の音 だけ 残して 動かなく なった

「ディヒ ねちゃう なんて」


その 獣は ぐっすり 眠っている

わけでは なかった

エイラが 少しでも 動くと

耳が 動いた

指を 曲げた だけで

音も しないのに

獣の 耳は そちらに 向いた


エイラは この 獣が

あのとき 駆けつけて くれたのも

きっと 信じられない ほど

いい 耳を している おかげだと 思った


「ディヒ…」

「ディヒの かお すごいね」

「おおきい くち」

「あたしの より とがった みみ」

「つやつやした はな」

「かお だけで すごく おもたそう」

「けものさん らしくて」

「つよそう」

「ありがとディヒ」


エイラは 横に なって

深く 息を すると 目を 閉じた

エイラに とって

生まれて 初めての 安らぎ だった







気が つくと

あの 獣は いなかった

エイラは 起き上がって 周りを 見た


夕方 だった


獣を 探そうと 立った とき

床に 何か 書いて あるのを 見つけた

「まってて」

それは 血で 書いた 文字だった


「ディヒ どこ いったの」

「くらく なって きたよ」

「ねえディヒ どこ?」


エイラは あの 獣を 探したくて たまらない

自分に 気が ついた


獣は 日が 落ちても 帰って こなかった

内も 外も まっくら

ほとんど 何も 見えなかった


エイラは 怖く なった

小さく なって 干し草の 中に かくれた


何かの 足音が する

それは あの 獣の 足音とは 違っていた

だんだん 近く なって

ついに すぐ そばに なった


入り口に 光る 目が 三つ

じっと エイラを 見ていた

エイラは 怖かった

叫びたい ほど 怖かった


大きな 音が した

見ると 光る 目は 二つに なっていた


「エイラ」

「なんで かくれてる の」


それは あの 獣の 声だった


「ディヒ!」

エイラは 立ち上がって

光る 目に 向かった


「どうしたの エイラ」

「まだ ねむい の?」


エイラは 何か やわらかい 物に

つまずいた

倒れる 前に

獣の 手が エイラを つかんだ


「インニ タータは」

「よる にがて だから」

「エイラも そう でしょ」


「ディヒ よかった」

「いなく なっちゃったと おもった」


「まってて って みた でしょ」

獣の 目は 黄色く 光って

エイラの 目の前に あった


「ディヒ あかり つけないの?」


「けもの には いらない よ」

「エイラ よる きらい なら」

「そこに インニ タータの どうぐが あるから」

「つかっても いいよ」


「どこ? ディヒ」


「そこ だよ」

「エイラ みえない の?」


獣が 横を 向くと

エイラの 目には 何も 映らなく なった

さっき から

見えている ものと いったら

獣の 光る 目 だけ だった


「そのまま て のばして ごらん」

「はんたい がわ」

「ちょっと うえ」

「まっすぐ のばして」

「ゆび ひらいて」

「そう それ」


エイラが 握った 物は

ろうそく だった


「もう いっかい て のばして」

「さっきの ところ」

「もっと ひだり」

「その した」

「それ でしょ」


エイラは その 箱から

ひとつ 取り出して こすった


「うわっ!」

炎に 照らされた 獣は

手で 目を かくしていた


「まぶしい なあ エイラ」


エイラは ろうそくに 火を つけた

やっと 明るく なり

エイラは 安心 した


「ディヒは これ つかわないの?」


「つかわ ないよ」

「だって みえる から」


エイラの 足もと には

さっき つまずいた 物が あった

茶色の 毛皮で

よく 見ると

それは 首の ちぎれた 鹿だった


「あした でかける から」

「きょう たべられる くらいの」

「ちいさい の さがして たら」

「よるに なっちゃっ たの」


「キ…」

エイラは 後ずさり した

目を かくしていた 獣が 手を どけると

顔から 胸に かけて 血だらけで

それが 火に 照らされて 光っていた


「キャ…」

エイラは そこに 座りこんだ


「どう したの エイラ」


獣は エイラの 顔を のぞいた

今にも 血の しずくが たれそう だった


「これ たべる でしょ」

獣は 鹿の 足を 持ち上げて

エイラに 見せた


エイラは ゆっくり 立つと

ろうそくを 持って

鹿の 血を 踏まない ように 歩いた


獣は 鹿に 咬みついて

首や 足を ばらばらに ちぎった

「エイラ どこが すき?」

「どこでも すきな ところ あげる」


「まさか エイラ」

「けだもの って たたきに こない よね」

獣は 皮を はいで

小さく 切り分けた


「おいで エイラ あかり もって」

獣は 鹿を 抱えると

外へ 出ていった


「エイラ そこに たきび つくってよ」

「つくりかた しってる でしょ」

エイラは 枝を 集めて

枯れ葉と いっしょに 積み上げた

小枝を ひとつ 持って

ろうそくから 火を 移すと

枯れ葉の 中に 入れた

たき火が 燃え出して

辺りが 明るく なった


獣は 枝に 鹿の 肉を 刺して

火に かざした


「インニ タータは こう やって」

「えもの たべるん でしょ」

「エイラも やって ごらん」


獣は 枝を ひとつ エイラに 差し出した

エイラは 受け取って

たき火で あぶった


「どう エイラ」

「おいしそうに みえて きた?」


エイラの 目には もう

血だらけの 鹿は なかった

肉と 油の 焼ける 匂いが

エイラを 動かした


「こら エイラ」

「あついから ゆっくり たべ なさい」

「ほら まだ そこ やけて ないよ」

「これ あげるから それ かして」

「あぶらが たれてるよ」

「のどに つかえ ちゃうよ」

「もう がつがつ してる なあ」

「エイラ おんなのこ なのに」


獣は 四つの 足 全部に 枝を はさんで

エイラの ために あぶり 続けた


「その えだ かして」

「これ やけてるよ」

獣も 食べたかった

でも エイラの ほうが 先だった


「インニ タータは そんなに」

「しか すき なの?」


エイラは 何も 言わず

鹿の 肉を 食べていた


「やくと たくさん」

「たべるん だね エイラ」


両手で つかんで かじる 姿は

獣と 同じだった


「あれ もう いいの?」


エイラは 深く 息を すると

枝を 置いて

油に まみれた 指を なめた


獣は あぶるのを やめて

鹿の 腹を

首を

前足を 食べた

すぐに 鹿は

骨だけに なった


「エイラは こつずい」

「たべない でしょ」


獣は 骨を 咬んで

その 中まで 食べた

エイラに とっては 堅すぎる 骨でも

獣の 牙は 簡単に 砕いて いった


「エイラ おいし かった?」


「うん すごく おいしかった」

「ディヒ やっぱり いい けものさんね」


「エイラも けものさん だったよ」

「ほら みてごらん」

「そんなに よごし ちゃって」


エイラの 白い 服の

胸と 腹の ところは

鹿の 油が しみこんで

肌に べったり 張りついて いた


「それは エイラが やったん だからね」

「きがえは ないから」

「こんど みずあび する ときまで」

「がまん してなさい」


獣は 立ち上がって エイラを 誘った

「エイラ なかに はいってて」


エイラは ろうそくを 持って

小屋に 戻った

獣は 後足で 土を 蹴って

たき火を 消した


「ねむく なった」

「エイラも ねむい でしょ」


獣は 床に 横たわり

足を 縮めて まるく なった


「おやすみ ディヒ ありがと」


エイラは ろうそくを 吹き消すと

干し草に 入った







エイラは まだ 薄暗い うちに 起きた

入り口から 見える 空は

黒く 青く

山が 影になって いた


鳥の さえずり しか 聞こえない

静かな 朝だった


きのう までの 朝は

仲間の 首輪に ついた くさりの

耳ざわりな 音と

囲いの 向こうから 床に 撒かれる

粒の 音と

それを 拾って 食べる

そんな 音 だけの

いやな 朝だった


大きな 獣は まるく なって

あれから 少しも 動いていない ようだった

顔を 後足の 間に 入れて

尾の 毛が まぶたに かかって いた

でも いつでも とがった 耳は

エイラの 動きを 追って いた


エイラは きのう 獣が くれた

水が 残って いるのを 見つけて

それを 飲んだ


空は だんだん 明るく なり

日が 昇って

この 小屋に 光が 射しこむ ように なったが

獣は まだ まるく なっていた

「ディヒ…」

「よく ねるの ね」

エイラは 小さい 声で

獣に 話しかけた


獣は 足を 動かして

寝たまま 伸びを した

「ぁあーぉぅ」

めくれた 唇の 奥に

たくさん 牙が 並んでいた


「エイラ おきた の」

獣は 首だけ 起こして

エイラを 見た


「おはよう ディヒ」

エイラは 獣に 笑顔で 応えた

「まだ ねむい から」

獣は また まるく なった


エイラは 立って

この 小屋の 中を 見て 回ったり

外へ 出て 景色を 眺めたり していた

枝に 刺さった 鹿の 肉が ひとつ

残って いるのを 見つけて

冷えた それを かじった


中に 戻っても

獣は まだ 寝ていた


エイラは しかたなく

また 干し草に もぐって

獣が 起きるのを 待った


待ち くたびれて

うとうと してきた ころ

やっと 獣は 動いた


「エイラ」

「なんだ まだ ねむい の」 


「おきてる ディヒ!」

エイラは 慌てて

また 寝ようと している 獣に

大声で 言った


「げんき だね エイラ」

獣は 立つと

そこで ぶるぶるっ した


「よく ねてた エイラ」

「これ のんで」

「あれ たべた でしょ」


獣は エイラの したことを

みんな 知って いた


「よく ねる デヒ って」

「おもってる でしょ」

「でも エイラの ほうが」

「よく ねると おもう よ」


「どうして?」

「あたしの ほうが はやく おきたわ」


獣は 首を 振った


「そう じゃ ない」

「ねてる インニ タータの かお」

「さわるの かんたん」

「エイラ こんど」

「ねてる デヒの かお」

「さわって ごらん」


エイラには その 意味が

わからなかった


「エイラ どうする」

「でかけ る?」


エイラは うなずいて

立ち上がった


「どっち?」

「みなみ? ひがし?」

「よく かんがえて きめて ね」


南へ 行くと

仲間が いる

東へ 行けば

仲間を 救けて

いっしょに 暮らせるかも しれない

エイラは 考えた


「ディヒは…」


「しらない」

獣は 恐い 顔を した


「インニ タータの ことは」

「エイラ きめて」


エイラは びっくり した

叱られる とは 思わなかった


「エイラ つよく なってよ」

獣は じっと 見つめた


「ディヒ ごめん」

「きめた わ」

「みなみ」


獣は まばたきを した

「インニ タータと くらすん だね」 

「みんなの ところに いくん だね」


エイラは うなずいて

首を 振った

「みんなで ひがしに いきたいの」


獣は 目を 閉じて

深く 息を した

「えらいぞ エイラ」

「やっと つよい インニ タータに あえた」


「え…」


獣は 目を 大きく 開けた


「きっと エイラ できる」

「はやく いこう エイラ」







獣は 小屋を 出ると 右へ 曲がって 

草むらの 中を 進んで いった

不自然な ほど ゆっくり 歩いて

エイラの 足に 合わせて いた


「エイラ なんにちも あるくん だよ」

「なにも ないから」

「あんまり おもしろく ないけど」

「いい でしょ」


「ディヒが いるから いいわ」


「やま みっつ」

「たに よっつ」

「おか ふたつ こえると」

「インニ タータが いる」


「どのくらい かかるの?」

「それは エイラの あしに きいてよ」

「デヒ はしると ふつか くらい で」

「じゅう きゅう ばんめの インニ タータは」

「なのか と はんぶん だった」


「ディヒ そんなに はやいの?」


「はやい かも しれない」

「でも デヒ いく ときは」

「なるべく ちかみち するから」


「きょう は?」


「ちかみち しない」

「エイラ がけ のぼれない でしょ」


「みち よく しってる のね」


「もう さんびゃく はちじゅう に ねんも」

「いきてる から」

「いろいろ わかった よ」

「エイラ にじゅう さん にん ぶん」


「ねえ ディヒ」

「そこに ディヒの なかまも いるの?」


「いる はず」


「ディヒも そこで くらせば いいのに」


「そう おもった ことも あるよ」

「でも さんびゃく ろく ねん まえに」

「そこから でて ここに きた」

「インニ タータ たくさん いると」

「たべたく なるから」


「けだもの って いわない でね」

「エイラ だって しか とか さかな」

「たくさん いると たべたく なる でしょ」


「ディ…ヒ?」


「きらいに なった?」


「そうじゃ ないの」

「ひがしの こと おしえて」


「おしえる って」

「エイラ そこに いたん でしょ」

「せまい ところに」

「とじこめ られてた から…」  


「やっぱり そう なの」


「ねえ ディヒ」


「わかった よ」

「よく きいて ね」


「ひがしに いる にほんあし は」

「インニ タータ つかまえて」

「つち ほらせ たり」

「もの つくらせ たり して」

「すきに つかっ てる」


「いじめ たり」

「たべ たり」

「ち のんだり してる」

「エイラの くびに」

「たくさん はりの あとが あったよ」


「エイラ おんなのこ だから」

「こども うめる でしょ」


「エイラの こが」

「おとこのこ だったら」

「そとに だされて つかわ れる」

「おんなのこ だったら」

「すぐ まるやき」


「にほんあし は」

「やらかい にくが すきだから」

「インニ タータの こども」

「よく たべる」


「エイラ どうしたの」

「かおいろ わるいよ」

「ごめん ちがう はなしに しよう」


「いいのよ ディヒ」

「あたしが きいたん だから」


「ねえ エイラ」

「そこに けものは いた?」

「デヒ じゃ なくて」

「もっと きいろい やつ」


「わから ない」

「でも こえは きこえた」

「ディヒ とは ちがう こえ」


「がるぅー…」

「こんな こえ?」

「そう そっくり」


「それは にほんあしの みはり」

「インニ タータ にげない ように」

「そとに はなして ある」

「エイラ よく みつから なかったね」


「その きいろい けものは」

「ときどき せまい へやに つれて いかれる」

「その へや には」

「たくさんの にほんあし と」

「ひとりの インニ タータが いる」


「いつ けものが」

「インニ タータ かみころす か」


「にほんあし は それで あそんでる」


「ねえ エイラ」

「その きいろい けものと」

「ここに いる けものは」

「どっちが つよいと おもう?」


「ディヒの ほう」

「だって その つめで たたかれたら」

「どんな どうぶつ だって かなわない もの」


「エイラ つよさは ちからじゃ ないんだよ」


「え? ディヒ つよい じゃない」


「つめが あれば つよい の?」

「エイラ つめ のばすと つよく なるの?」

「そうじゃ ない でしょ」

「エイラ みなみに つく までに」

「よく かんがえて」

「つよい インニ タータに なってね」







「ねえ エイラ」

「もう だいぶ あるいた から」

「やすみたく なった でしょ」

「インニ タータ はんにち あるく と」

「つかれた って いう から」


「うん ちょっと」


「それに なにか たべたく なった でしょ」

「インニ タータ はんにち で」

「おなか すいた って いう から」


「エイラ デヒ ここで まってる から」

「なにか とって きても いいよ」


「とって くる… の?」

「エイラ すきな もの」

「とって きて」

「もし あぶなく なったら」

「きゃーって いえば」

「すぐ いく から こわく ないよ」


「ディヒ は?」


「きのう たくさん たべた でしょ」

「だから いらない」

「エイラ とって きて」


獣は 草むらに 座って まるく なった


エイラは どう すれば いいのか 迷った


「どう したの」

「エイラの おと きいてる から」

「へいき だよ」

「いって おいで」


「ねえ ディヒ…」

エイラは 獣の 顔を のぞき こんだ

「ディヒも…」


獣は まるく なった まま 言った

「エイラ じゅう はち ばんめの」

「インニ タータと おなじ なんでしょ」


「え?」


「なに たべる か」

「わから ないん でしょ」

エイラは 座って うなずいた


「エイラ それで」

「なんにちも あるけると おもってた の」

「なにか とって たべ ないと」

「しんじゃう でしょ」

「そうでしょ エイラ」


「もう あるいても むだ だね」

「むこうに つく まで に」

「エイラ たおれ ちゃう」


「ディヒ…」


「ないても えものは こない よ」

「よわむし エイラ」


「しか とって きて デヒ って」

「エイラ おもってる でしょ」


エイラは 泣き顔で

獣の 手を 握った


「やだ から ね」

「デヒ たべ たく ない」

「エイラ しか ぜんぶ」

「たべ られない でしょ」


「のこった しか」

「ここに おいて いくの?」


「ちょっと だけ たべて」

「すてる なんて」

「ひがしの にほんあし と」

「おなじに なっちゃう」

「けもの には できない よ」


獣は 立ち上がった


「デヒ かえる よ」

「エイラ すきに して いいよ」


エイラは 泣きながら

獣を 見つめた


「きらいに なった でしょ」

「おわかれ だね エイラ」


獣は 土を 蹴って

あっと いう まに

草むらに 消えた


「ディヒ」

エイラが 呼んでも

何も 動かず

あの 獣の 姿は

もう どこにも なかった


「ディヒー!」


辺りを 探して みた ものの

足あと すら なかった

風が 吹き抜けて

草を 揺らす だけだった


「ディ…ヒ…」

エイラは 座りこんで

泣き 続けた


帰ろうか とも 思った

でも エイラには

帰る 道が わからない

どっちへ 行けば いいのか

草むらの 中では

見当も つかなかった


エイラは 足もとに 落ちて いた

草の 種を つまんで 食べた

硬くて 苦くて

ひとつぶ だけで やめた


遠くで 何か 動物の

悲鳴が 聞こえた


エイラは 怖く なった


木の 影に かくれて

小さく なった


そばに 赤い 実を つけた

草が 生えていた

エイラは その 実を 取った


「いたい!」


小石が エイラの 顔に 当たって 弾けた

エイラは 手を 引っこめて

また 小さく なった


やがて 日が 傾き

寒く なって きた

あの 獣は 姿を 見せず

影すら なかった


夕暮れが 迫り

あちこち で 遠吠えが 響いた

次第に 辺りが 暗く なり

すぐ 夜に なった

エイラの 目は 光を 失い

何も 見えなく なった


草むらと 木の 枝が 空も 覆って

まったくの 闇が エイラを 包んだ


エイラは 寒さに 震えて いた

風が 吹く たびに

肌が 切れそうな

このまま 凍えそうな 感じが した


空腹で 縮こまって

指には もう 感覚が なかった


とつぜん エイラの 顔に

何かが 張りついた

ざらざら して 固い

血の 匂いの する 生き物が

顔 全体を 締めつけた


首を 振っても

手で つかんでも

それは 離れなかった


やっと 目を 開けると

そこには 黄色い 光が ちらちら していた


「よわい なあ エイラは」


エイラは 思わず それに 抱きついた

暖かい 毛並みは たしかに あの 獣だった


「あたし もう だめかと おもった…」

エイラは 獣に しがみついて 泣いた

「ほら ね」

「インニ タータの かお」

「かんたんに さわれる」

獣は エイラの 頭を なでた


「エイラ なかないで」


「わかったよ デヒの まけ」

「もう どこにも いかない から」

「ねえ なかない でよ エイラ」


獣は エイラに 抱きつかれた まま

枝を 拾って 草を 集めて

火を おこした


たき火が 燃えて

辺りを 明るく 暖かく 照らした


「エイラ ほら ちょっと はなれて」

「これ とって きたから」

「やいて たべ なさい」


獣が 持って いるのは

白い うさぎ だった


「これ ぜんぶ あげる から」

「もう なかないで」


獣は 爪で 引き裂いて

皮を はがして

ばらばらに した


「けだもの って いわない よね」 

獣は きのうの ように

枝を 差し出した

「あわて ないで いいから」

「ほら また よごし てる」

「がつがつ してる なあ」

「けだもの さん エイラは」


エイラは 獣が 見守る なか

夢中で うさぎを 食べた

獣から 見れば その 姿は

まったく どうもうな 野獣 だった


「たべ た?」

「これも あげる」


獣の 手には

いくつかの くだものが あった


「インニ タータは」

「これも たべる でしょ」


エイラは いったん 獣の 目を 見てから

それを 受け取った


「あまくて おいしい でしょ」

「デヒ たべない から」

「ぜんぶ エイラに あげる」


エイラは くだものを 食べて

満足そうに 横に なった


「ディヒ ありがと きて くれて」

「あたし すごく うれしい」

「ディヒが いる だけで うれしい」


エイラ には もう

不安は なかった

獣が いれば

少しも 怖く なかった


獣は エイラの 食べ残しを

ぜんぶ きれいに なめ取った


「エイラ つかれた?」

「ねむく なった でしょ」


獣は たき火の そばの 土を

前足で 掘って くぼみを 作った


「ディヒ どうしたの?」


獣は 草を ちぎって

くぼみに 敷いた


「ねる でしょ」

「おいで エイラ」

獣は くぼみに 座ると

歩いて きた エイラを 抱いて

そのまま 横に なった


「もう さむく ないから」

「おやすみ エイラ」


エイラは 泣きだしそうに なりながら

獣の 広い 胸に 顔を 押しつけた


「あった かい ディヒ」

「ありがと」







まだ 暗い うちに

エイラは 目を 覚ました


獣は ずっと エイラを 抱いて

寒さから 守って くれて いた


「ディヒ どうして こんなに」

「あった かいの…」

たき火は とっくに 消えて いるのに

息が 白く なるほど

寒い はずなのに

エイラは 寒さを 思い出す ことも なく

ぐっすり 寝られた


エイラは 夜露の ついた

獣の 顔を なでようと した

獣は びくっと 動き

エイラの 手に 咬みついた


「なん… だ エイラ… か…」

獣は あごを ゆるめて 目を 閉じた


「ほんと だ…」

「ディヒの かお さわれない」

エイラは 手を ひっこめた

手の ひらに

牙の あとが 残って いた


「ごめん ディヒ」

「もう すこし ねましょ」

エイラは 暖かい 獣に もぐりこんで

静かに 目を 閉じた


「なんが さ」

「てなんが お ねいら」


「ディヒ おきたの?」


エイラが 見つめても

獣は あごと 鼻を

ぴくぴく させる だけで

目は 閉じた ままだった


「れいら でひ とばい え お」

「なんがい かか ねいら」


それは 獣の 寝言 だった


「まとぅが えぉ」

「かも きも ててか」

エイラには その 意味が

まったく わからない


初めて この 獣に 出会った ときも

たしか こんな ふうに

話しかけて きた

エイラは それを 思い出した


「なかとぅが えぉ ねいら」


“ねいら” “れいら”

“これは きっと あたしの こと”

エイラは そう 思った


「ディヒ たくさん ことば しってる のね」

「それ けものさん の?」

「こんど ディヒの ことばも おしえて」

エイラは 眠る 獣に 小さく つぶやいた


日が 昇り 夜露も 乾いた ころ

やっと 獣は 目を 開けた


「おはよう ディヒ」


「まとぅが れいら…」

「ねぉ」

「おはよう エイラ…」


「ディヒ ゆめ みてた?」


「きもち いい ゆめ」

「エイラも いたよ」


獣は エイラを 抱いて

起き上がった


「ディヒ?」

「れいら って」

「あたしの こと?」


獣は 大きな くちを 開けて

あくびを した


「そう エイラの こと」

「よく しってる ね」


「だって ディヒ…」

エイラは くすくす 笑った


「そう これは けものの ことば」


「えむね か でひ れいら」

「これは ね」

「デヒ は エイラ すき」

「えむねぉ ねいら き えと」

「これは」

「エイラ よる きらい」


「いぇと か でひ う ねいら つ しっとぅら」

「これは」


獣は 立って ぶるぶるっ すると

振り向いて エイラを 誘った


「デヒ と エイラ みなみに あるく」

「こういう いみ」


「いと か…?」

「ディヒ もう いっかい」


「いぇと か でひ う ねいら つ しっとぅら」

「エイラ いえる?」


「いえと か でぃひ う えいら…」


「えいら じゃ なくて ねいら」


「どう して?」


「エイラ あるく から」

「デヒ が エイラ のせて あるく ときは れいら」


エイラは 首を かしげて

へんな 顔を した


「むずか しい?」


「うん」


「あたらしい ことば」

「つかえる ように なる には」

「じかん かかるよ」

「デヒ も そう だった から」


獣は 南に 向かって 歩いた


「ディヒ いくつ ことば しってるの?」


「やっつ くらい」


「そんなに?」


「ばしょ が かわると」

「ことばも かわる」

「おなじ インニ タータ でも」

「すんでる ばしょで」

「ちがう の つかう」


「さんびゃく はちじゅう に ねん で」

「デヒ いくつも おぼえた」

「だから エイラと はなせる」


「エイラ だって」

「さら なんがい」

「うぉー あぅ ぁお」

「これだと こまる でしょ」


エイラは なおさら この 獣には

かなわない と 思った


「いにんにたぁしっとぅら あったぁえいら」

「いっとかみ てかきーしな」


「みなみの インニ タータは」

「エイラの ことば だから」

「だいじょうぶ だよ」

「そういう いみ」


「ディヒ いろいろ しってる のね」


「エイラ しらな すぎる でしょ」 


エイラは どきっと した


「ずっと とじこめ られてた から」

「エイラ わるく ないよ」

「いかたふ ぁえきぅて うこ い」

「わるい のは にほんあし」

「そう でしょ」


「デヒ エイラに まけた から」

「おしえて あげる」


「エイラ あかい くさの み」

「たべようと したでしょ」

「い かたす うこ」

「あれ だめ」


「たべられ ないの?」


「せえぉ にんにたた き たす」

「インニ タータ あれ たべ ない」

「たべると め みえなく なるよ」


「エイラ たべようと してた から」

「いし なげた」

「エイラの て ねらった けど」

「かおに あたった」

「ごめん ね いたかった でしょ」


「ありがと ディヒ」

「みてて くれた のね」

「あれ びっくり したけど」

「みえなく なるより ずっと いいわ」


「よかった」

「それと さむい とき」

「あな ほる とか」

「たきび つくる とか」

「くふう しないと だめ だよ」

「エイラ たきび つくれる でしょ」


「ひが なかった もの…」

「でも ディヒ」

「きのう わかった」

「ディヒの みてた の」


「そう?」

「ててか エイラ やって みて」


「うん」


「きょう エイラ すごく つかれると おもう」

「この さき やま ある から」

「あし しびれて きたら いってね」

「ちょっと だけ のせて あげる」


「ディヒ あたし あるくから いいわ」


「よかった でも エイラ」

「きっと つかれた って いうよ」


「いわないわ」

「いったら ディヒに たべられ ちゃう」


「そう だったね」


ふたりは 寄り添って 歩いた

エイラも 獣も

とても うれしそう だった


しばらく して

獣は 急に 止まった


「エイラ この さきに えものが いる」

「おと たてない ように して」


獣は ゆっくり 歩いた

あれだけ 重い 体なのに

少しも 足音を たてない

エイラの 小さい 足 だけが

音を たてて いた


「さら なんがい…」


獣は 前を にらんで

体を 低く して

そっと 進んだ


エイラも ぴったり くっついて

同じ 速さで 歩いた


「エイラ みえる?」


獣が 静かに 指さしたのは

黒い 大きな とかげ だった


「くろい の?」


「そう」

「エイラ あれ とって ごらん」


「あたしがー?」


「こら しずかに」

獣は エイラを にらんだ

「あれは あし おそい から」

「インニ タータも とれる はず」

「やって ごらん エイラ」


エイラは 獣を 見た まま

動こうと しなかった


「エイラ の えもの」

「はしって しっぽ つかんで」

「ふりまわして ごらん」

「エイラ にも とれる から」


「でも…」


「デヒ ここに いる から」

「だいじょうぶ」


「ディヒ…」


「たべる もの とれない エイラ」

「よわい エイラ」

「デヒ きらい」


エイラは まだ 迷っていた


「いえった ねいら!」

獣は 前足で エイラを 突き飛ばした


エイラは 走った

何も 考えず 獲物に 向かった


獣は その場に 伏せて

じっと それを 見ていた


エイラが 走り

逃げ出す 獲物を 追いつめて

両手で つかむ

頭の 上まで 振り上げて

長い 髪を 乱しながら

地面に 叩きつける


それは エイラの

初めての 狩り だった


獣は 心の 中で

この 瞬間を 祝った


「エイラ!」

獣は 肩で 息を する

若い インニ タータに 駆け寄った


エイラは 獲物を 握った まま

震えて いた


「つよい エイラの えもの」

「おおきい りっぱな」

「エイラの えもの」


獣は エイラの 指を 開かせて

ゆっくり 座らせた


「エイラ これで いきて いける」

「だれも いなくても」

「デヒ と おなじ ように」

「エイラ もう いきて いける」


エイラは 震える 手で

獣の 指を 握った


「ディヒ… あたし…」


獣は エイラを 抱いて

乱れた 髪を なでた


「なにも いうな」

「エイラが いちばん よく わかってる」

「だから なにも いわなくて いい」






10


ふたりは しばらく

動かなく なった 獲物の 前に  

座って いた


「ディヒ?」


「これ ディヒも たべる?」


「エイラの えもの」       

「すこし くれると うれしい な」


「ほんと?」


「けもの は はじめての えもの」

「みんなで たべる」

「みんな いい えものに」

「であえる ように って」

「デヒ むかし そう だった」

「いま エイラ はじめての えもの」


エイラは 獣の 顔を なでてから

立ち上がった


「ディヒ いきましょ」

「なんか きもち いい」


エイラは 獲物を 引きずって

歩き 始めた


「みて ディヒ!」


エイラは 上を 指さした

「あれ きのう ディヒが くれた」  


その 木の 枝には

丸い 実が ついていた


「エイラ よく きが ついたね」

「あれも とって みる?」


エイラは うなずいた


獣は エイラの そばに きた

「あれ とるには エイラ どうする?」


「きに のぼる」


「エイラ のぼるの だめ」


「どうして?」


「あの き」

「すごく やらかい」

「どんな かるい インニ タータでも」

「えだが おれて」

「そのまま じめんに どすん!」


「あれが じょうぶな き だったら」

「もう とっくに どうぶつ たちに」

「とられ てるよ」


「どう しよう…」

「でも ディヒは とってきて くれた」

エイラは 獣を 見つめた


「エイラ あわて なくて いいよ」

「そこに すわって」

「よく かんがえて ごらん」

獣は そう 言うと

座りこんで まるく なった


「なにか おもい ついたら いって ね」


エイラは じっと 実を にらんで

考え 続けた


実は 細い 枝の 先に ついて いて

獣の 言うように

すぐ 折れそう だった


長い 棒で 落とす

それを 思いついて 周りを 探した

でも あの 高さまで 届く ような 物は

木 そのもの くらい しか なかった


ディヒに 投げ上げて もらう

でも これを 言ったら

獣が 牙を むきそう なので やめた


短い 棒を つなぐ

エイラは やっと いい やり方を 見つけた

「ディヒ!」


獣は 首を 持ち上げて 目を 開けた


「ぼうを むすんで ながく して」

「みを おとすのは どうかしら?」


獣は 笑顔を 浮かべた

「エイラ やって ごらん」


エイラは すぐ

辺りから 棒を 拾って きて

草や つるで 結んだ


いくつか つないで 持ち上げて みると

それは すごく 曲がって

先の ほうは いつも 下を 向いていた


持ち方を 変えたり して

何とか 上へ 向けようと したが

揺れる たびに 結び目が ほどけて

ますます ひどく 曲がった


獣は あくびを して

また まるく なった


エイラは この 方法を あきらめて

もう一度 座って 考えた


考える うち

きのうの ことを 思い出した

赤い 実を 取ろうと したとき

ディヒが 小石を 投げて 教えて くれた


石を 投げて 実を 落とす

これなら だいじょうぶ

そう 思った


「ディヒ いし なげる のは?」


獣は 目を 開けた

「やって ごらん エイラ」


エイラは 足もとの 小石を 拾って

実に 投げつけた


でも 小石は

ぜんぜん ちがう 所に 飛んで いった


何回も 投げて いると

小石は だんだん

実の 近くを 通る ように なった

エイラは うまく いきそうな 気が して

小石を 投げ 続けた


やっと 小石が 実に 当たった


「エイラ その ちょうし」

獣は 今度は まるく ならずに

ずっと 見ていた


エイラの 石は

三個に ひとつは 当たる ように なった

その 石が 偶然にも

実の つけねに 当たった とき

枝から 離れて 地面に 落ちた


「ディヒ!」

エイラは 叫び ながら 実を 取りに いった

でも 戻って くる 姿は

あまり うれしそう では なかった


差し出した エイラの 手には

確かに 実が あったが

べっちゃり つぶれて いた


「エイラ やっと とれたね?」


「でもディヒ こんなに なっちゃった」


「たべられる から おなじ でしょ」


「ディヒ まるい まま とって きて くれた」


「そう だね」

「エイラ じぶんで かんがえて」

「み とった から えらい よ」

「その ごほうび に」

「デヒ の とりかた みせて あげる」


「デヒ これ とくい なんだ」


獣は そう 言うと

木に 尻を 向けて

後足の 指に 石を 挟んだ


「よく みてて ね」


獣は 素早く 後足を 蹴り上げて

すぐ 走った

獣の 放った 石は

まっすぐ 飛んで いき

実に 当たって 落ちて いった

実が 落ちる ころには

獣は もう 真下に いた


落ちる 実に 向かって

獣は 飛び上がった

空中で 実に 咬みついて

そのまま 地面に 降りた

それは あの 大きな 体に

似合わない ほどの 身軽な 動きだった


「はい エイラ」

獣は くわえていた 実を エイラに 渡した

それは 丸い きれいな 実だった

傷や 牙の 跡も なく

枝に ついていた ままの 形だった


「ディヒ すごいね…」

「ディヒ すごい!」

エイラは うれしく なって

獣に 飛びついた


「エイラ もう わかった でしょ」

「だから エイラ いきて いけるよ」

「デヒ そう おもう」


獣は 目を 閉じて

ほおずりを した


「いきましょ ディヒ」

エイラは 獲物を つかんで

跳ねるように 歩きだした


でも 軽快な 足どりも

そう長くは 続かなかった


だんだん 坂が 急に なり

エイラの 素足を 拒むように

硬い 岩も 突き出して きた


獲物を かつぐ 肩も

とかげの うろこに こすられて

まっ赤に なっていた

足も

草と 石で すりむけて

いくつか 血が にじんで いた


エイラは あまり 話さず

少し うつむいて

獣の 横を 歩き 続けた


獣にも それは よく わかって いた

エイラが せいいっぱい 気を 張って

歯を くいしばって ついて きて いることを

ここで 弱気に なったら

約束を 破って しまう

それを 気に して いるのが

痛いほど わかった


「ねえ エイラ…」

「デヒ すこし やすみたく なった」

「エイラ は?」


前を 行く 獣が 立ち止まると

エイラは ひざを がくがく させながら

やっとの ことで たどり 着いた


「ディヒ つかれ たの…」

「あたし…」

エイラは その場で 力なく 倒れた


獣は エイラを 抱いて

日の 当たらない 所まで 行くと

横に なって 休んだ


疲れきった エイラは 目を 開けず

獣の 前足の 中で

すやすや 眠って いた


「エイラ よく あるいたね」

「デヒ まだ あるける けど」

「きょうは ここで ねよう エイラ」


汗と 土で 汚れた エイラを

獣は 洗って やりたかった

腫れ上がった 足を

冷やして やりたかった


「この さき やま こえると」

「かわが あるよ」

「そしたら いっしょに」

「みずあび しよう エイラ」


獣は 木の 根元に もたれて

じっと そのまま

エイラを 見守って いた


エイラが 目を 覚ましたのは

夕方に なってから だった


「キャーッ!」

エイラは 目の前に いる 獣に 気付くと

悲鳴を あげて すくんだ


「エイラ どう したの」


獣は 少しも 慌てず

鼻先で エイラの 顔を 突ついた


「あ… ディ…ヒ?」


「そう デヒ だよ エイラ」

「デヒ いつも そばに いるから」

「こわく ないよ エイラ」


「ディヒ!」

エイラは 獣に しがみついた


「いやな ゆめ みたん でしょ」

「でも だいじょうぶ」

「いつか エイラ その こわい の」

「エイラの てで たおす」

「デヒ そう おもう」


「ディヒ… こわかった」

「きいろい けだものに おいかけ られて」

「あたし ころんで」

「けだものの きばが おおきく…」

獣は エイラの 頭を なでた


「エイラ それ なら」

「もし こんど けだもの きたら」

「すぐ デヒ よんで」

「かっこよく おいはらって やるから」

「だから なかないで エイラ」


エイラは ずっと 獣に

自分の 体より ずっと 太い

獣の 前足に しがみついて いた


獣は どう しようか 困った

こうして 泣かれては どうしようも ない

なだめる のと 叱る くらい しか

思い つかなかった


「ねえ エイラ」

「たきび つくって くれない?」

「それと エイラの えもの」

「たべさせて くれない?」

「それとも たべないで ねる?」


エイラは ゆっくり 顔を 上げて

やっと 獣に 抱きつくのを やめた


「つくって くれる?」


エイラは うなずいて

枯れ枝を 拾い はじめた


たき火の 準備は よかったが

かんじんの 火が なかなか つかなかった

エイラが 夢中に なって

枝を こすり あわせても

煙さえ 出なかった


手が 疲れて

ときどき 休み ながら

エイラは ずっと やっていた

さっきの 泣き顔が うその ように

枝を にらみ つけて

そのこと だけに 集中 していた


長い 時間と 単調な 音で

獣が 眠く なってきた ころ

ようやっと エイラの 手元が 明るく なった


エイラは 震える 手で

そっと 火種を 移した

すぐに たき火は 燃え上がり

反対に エイラは がっくり 倒れた


獣は エイラの 顔を のぞき こんだ


「エイラ つかれた でしょ」


「てが しびれ ちゃった」


「はじめは なかなか つかない」

「れんしゅう すれば だいじょうぶ」


「きっと そうね」


「それで ね エイラ」

「えものの かわ はがすの」

「デヒに やらせて くれない?」


エイラは 寝たまま うなずいた


「エイラ もって きてよ」

「あれ エイラの えもの だから」

「エイラ から もらわ ないと」

「デヒ さわれ ない」


エイラは 首を すこし かしげたが

起き上がって 獲物を つかむと

獣に 差し出した


獣は それを 受け取ると

長い 爪を 使って

器用に 皮を はがして いった  


エイラは ちょっと 驚いて いた

引きちぎる と 思って いたのに 

獣は じつに ていねいに

皮だけ はがした


「えものの かわ」

「あした つかう から」

「エイラ もってて」


獣は 皮と 肉を エイラに 返すと

そこで まるく なった


エイラは 獲物を ちぎって

小枝に 刺すと 火に かざした


焼いている あいだ

エイラは 少しずつ それを

獣に 差し出した


獣は ちらっと 顔を 見ると

エイラの 小さな 手に 乗っている

獲物を 食べた


エイラは 片手で 獣に 与えて

もう 片手で 小枝を 持って

いつもの ように がつがつ 食べた


それに 比べて 獣は

その たびに エイラの 顔色を うかがい

申しわけ なさそうに

そっと エイラの 手を なめた


ふつうに 見れば

その 姿は まったく 逆 だった


「エイラ デヒ もう いいから」

「ぜんぶ たべて」


獣は エイラが 一度に

どのくらい 食べるか 知っていた

ちょうど エイラが 満腹に なる 量を 残して

たき火から 離れた


エイラが 食べ 終わって 横に なると

獣は 残りを ぜんぶ なめ取ってから

土を 掘って 草を 敷き

そこで まるく なった


エイラは 大きく 伸びを してから

獣の 前足に もぐりこんで

この日の 終わりと した






11


次の 朝

エイラは 満足に 立てなかった

全身が 引きつって

特に 足は

動かす たびに 刺すような 痛みが 走った


そんな 調子 だから

目が 覚めて

獣の 前足から 出るのも たいへんで

獣が どいて くれるまで

けっきょく 起き上がれ なかった


「エイラ あし いたいん でしょ」


獣が 見つめる エイラの 足は

あちこち 腫れて

見る だけで 痛く なるような 色だった


「いたそう だね エイラ」

「たくさん あるいた から」


エイラが 気を 張って

本当は 痛いと 言いたいのを

こらえて いるのが

肩の 震えで わかった


獣は エイラの 前に 座って

背中を 見せた


「デヒ エイラに まけた から」

「のせて あげる」

「くびに つかまって エイラ」

エイラは 獣の 太い 首に

うでを 巻きつけた


「たつよ エイラ」


獣は そのまま 立った

エイラの 体は 持ち上げられ

うまい ぐあいに

獣の 背中に 乗っかった


「エイラ これ もってて」

獣は きのうの くだものと

獲物の 皮を 差し出した


「いそいで かわに いくから」

「つかまって エイラ」

獣は そう 言うと 走った


すごい 速さ だけど

背中は あまり 揺れなかった

いつも より 背を 低く して

揺れを 抑えて くれた


「ディヒ いいな つよくて…」

エイラは 揺られ ながら

ときどき つぶやいた


同じ 道のりを 歩いて いるはず なのに

小屋を 出てから ほとんど

食べて いない はず なのに

獣は 少しも 疲れを 見せない


エイラは こんな

頼りに なる 獣に 出会えて

本当に よかったと 思った


「エイラ?」

獣は 走り ながら

ちらっと 振り向いた


「なに?」


「すごく つかれたと おもったら」

「そう いって くれれば」

「デヒ エイラ のせて あげる」


「でも…」


「どのくらい で あし いたく なるか」

「エイラ わかった でしょ」


「うん…」


「そんな ときなら」

「デヒ エイラ たべ ない」

「あるけなく なったら」

「いきて いけない よ」

「だから」

「こんど から そう いってね」


「ディヒ…」


「いたく ないのに のせて って いったら」

「デヒ エイラ たべる けど」

「エイラも デヒ しってる から」

「かおいろ わかる でしょ」


「でも ディヒ」

「あたしの せいで つかれ ちゃう」


「なんだ そんな こと」

「しんぱい してた の」

「インニ タータ かるい から」

「ぜんぜん へいき」


「おおきい おすの へらじか」

「ひきずって くる ほうが」

「よっぽど たいへん」

「デヒ より おもたい えもの だから」


「ディヒ そんなの とって くるの?」 


「すごく あぶない けど」

「なんとか しとめる よ」

「それが あれば なんにち か」

「のんびり して いられる でしょ」


「インニ タータ だと」

「まいにち とって こないと たりない」

「だから いっかい で やめた の」


「そう… ね」

「ディヒ おおきい から」


「デヒの おもさ」

「エイラ じゅう ご にん ぶん」

「たくさん たべ ないと」

「いきて いけない」

「だから すこしで たりる インニ タータは」

「いいな って ときどき おもう よ」


「あたしも ディヒ いいなって おもう」

「つよくて はやくて」


獣と 話す うち

急に 目の前が 開けて

音をたてて 渦巻く 川が 見えた


「やっと みずあび できるね」


獣は なるべく 流れの

穏やかな 所を 探して

そこに エイラを 降ろした


「エイラ この みずに はいって」

「あし のばして」

「しばらく すわって なさい」


エイラは 何も 言わず うなずいて

獣の 言う とおりに した


獣は 少し 離れて

川に 入り

暴れる ように 魚を 採った


エイラは 足を 冷やし ながら

水を 飲んで

汚れた 服を 脱ぐと

体も いっしょに

きれいに 洗った


冷たい 水が 腫れた 足を なでて

気持ち よかった


獣は 川原で 遠吠え すると

ぶるぶるっ しながら 戻って きた


「エイラ あし すこし だけ」

「いたく なくなった でしょ」


「うん きもち いい」


「それに エイラ きれいに なった」


「ディヒ も ディヒの いろ」


「それ かして」


獣は エイラの 服を 受け取ると

川原の 石に 広げた


「あれ と デヒの けがわ」

「かわく まで ここに いよう」

「とおくに いったら だめだよ エイラ」


獣は 横倒しに なって

まるく ならずに 目を 閉じた


濡れた 毛が つんつん 立って

唇から ひとつだけ 牙が はみ出て

白く 光って いた

息を する たびに 胸が ふくらんで

小石が 鼻息で ころがった


エイラは 足が すっかり 冷えると

水から 出て

獣の そばで 横に なり

空を 仰いだ


きれいな 青空 だった

雲が ゆっくり 流れて

空を 拭っていく ように 見えた


となりの 獣は

ときどき 何かを つぶやき

顔と 足を ぴくぴく させた


エイラの 目の前に

獣の 手が あった

白い エイラの うで より 太い

ごつごつした 土色の 指が

毛に 包まれ 曲がって

爪が こっちを 向いていた


「ディヒ… ながい あいだ」

「この てで いきて きたのね」

「みなみに つれてって くれる なんて」

「あたしを まってて くれた みたい…」


エイラは 誰にも 教わって いないのに

野の 獣は 恐れるべき ものだと 知っていた

初めて 出会った 獣でも

その 姿を 見た だけで

怖くて 逃げる ことしか 頭に なかった


エイラを

インニ タータを 追いかけ

爪で つかまえて 咬み殺そうと する

獣は みんな そうだと 思った


でも

それは 間違い だと

こんなに 怖そうな 姿 なのに

確かに 怒ると 怖いけど

本当は 優しくて しかも 賢い

見た だけでは わからない

その ことが

エイラの 中に しみこんで いった


“あたしが もし ディヒ だったら”

“ちいさくて よわい インニ タータを”

“わざわざ みなみに つれて いったり”

“する かしら”


エイラは 自分に 問いかけた


“たべた かも…”


“ちいさい むしが いると”

“つぶしたく なる もの”

“だから よわい いきもの みたら”

“すぐ ころすわ きっと…”


エイラは この 獣より

自分の ほうが よっぽど

けだもの だと 思った


“ディヒ けもの さん ね”

“あたし きっと けだもの”

“ゆめの なかに でてくる”

“わるい けだもの”


“あたしも ディヒ みたいに ならなきゃ…”


エイラは 目を 閉じて

自分 自身を 反省 した


「ぁあーおぅ…」


獣は 大きく 伸びを した

指を 固く 震わせて 動かすと

何か やわらかい ものに 触った


「ご…ごめん エイラ」

「いたかっ た?」


獣は 爪を エイラの 耳に

引っかけた ことを あやまった


「なんとも ないわ」

「ディヒ やっぱり けもの さん ね」

エイラは 微笑んだ


「え? デヒ けもの」

「い かでひ くほ しか」

「むかしから けもの だった よ」


「いいの なんでも ない」

エイラは 立ち上がって

体に ついた 砂を 払い 落とすと

乾き 始めた 服を 着た


「きれいに なった エイラ」

「また インニ タータ らしく なった」

獣は エイラを 眺めた


「あたしの かっこ すき?」


「すき だよ」

「しろい の にあう エイラ」


「ディヒ? インニ タータは」

「みんな これ きてるの?」


「そう だよ」

「エイラ おんなのこ だから」


「え? おとこのこ は ちがうの?」


「すこし ちがう」

「でも にてる」

「みなみに いけば わかるよ」


「そうね」


「エイラ だったら」

「みんなに みられ ても」

「ちっとも はずかしく ない」

「エイラ きれい だし」

「かわいい から」


「え…?」


「あの けだもの エイラ つかまえて」

「たべようと した のも きっと」

「エイラ かわいい から だよ」


「デヒ も ちょっと だけ」

「たべようか と おもった」

「でも たべ ないで よかった」


「エイラの かお」

「なるべく きず のこらない ように」

「きれいに なおした」

「かわいい かお だった から」


エイラは てれくさく なった


今まで かわいい なんて

言われた ことの ない エイラに とって

獣の ことばは 新鮮な 驚きでも あった


「わらって こえ かけて くれる とき」

「エイラ いちばん かわいい」

「デヒ そう おもう」


「いやだ ディヒ…」

エイラは なおさら てれくさく なった


「ごめん もう やめる よ」


「そうじゃ ないの」

「なんて いうか…」


「デヒ おもった こと いった だけ」

「エイラ デヒ きらいに なった?」


「そうじゃ ないのよ」

「ディヒ だいすき」

エイラは 獣に 抱きついた

「へんだ なあ エイラ」

「でも げんきに なって よかった」

獣は エイラに しがみ つかれた まま

水ぎわに 向かった


「ほら」

「エイラ よく みてて」


エイラは 抱きつくのを やめて

獣の となりに 座った


「これ えものの かわ」

「きれいに あらう でしょ…」

獣は 皮を 水に 沈めて

うろこの すきまの 泥まで

きれいに した


「うらに する でしょ…」

「そしたら みず いれると…」

「ほら ね」

「みず もって いける」


獣が 差し出した のは

獲物の 皮を 使った 水筒 だった


「この かわ」

「デヒ はがした のは」

「これ つくろうと おもった から」

「あな あくと だめ でしょ」


この 獣は 本当に

獲物を むだに しない

エイラは その ことに 感心して

ため息を ついた


「どうしたの エイラ」

「これ もって」

「みず でない ように しばって」

獣は それを 手渡すと

二本の 足で 立った


「でかけ よう」

獣は エイラを 軽々と 抱き上げると

いつかの ように 肩に 乗せた


「こわく ない でしょ」


流れの 激しい 川を

獣は 歩いて 渡った

どんなに 深い 所でも

エイラは 濡れる どころか

しぶき すら かからなかった


獣の 歩みは 速く

すぐ 岸に 着いた


「エイラ つぎの かわ とおい から」

「みず のむ なら いまの うち」


「たくさん のんだ から へいき」


「それ なら エイラ」

「その まま デヒの くび つかめる?」


「うん」

エイラは うでを 獣の 首に まわした


「そし たら あし ぶらん」


エイラが 足を 投げ出すと

獣は 四つ足に なり

また うまい ぐあいに

エイラは 獣の 背中に 乗っかった 


「あし いたい でしょ」

「なおる まで つれてって あげる」

「みず こぼさない ように ね」


エイラは 獣の 優しさに

また 涙が 出そうに なった


獣は すたすた 歩いて

森に 入った


「かわいい けだものー」

「しろいー エイラは」

「デヒの せなかー」


「え?」

獣の 声は

なんだか いつもと 違って いて

話し方も へんだった


「おいしそうー でも」

「だれにもー あげ ない」


「ディヒ?」

エイラが 話し かけても

獣は 応え なかった


「だからー エイラはーうく」

「かひーぁくほー」

「ねお!」

「いったー ねいらー」

「える えき えが えとら」

「きたー ぁわすー ててか!」

「せえ ねいらーきでひ いしー」


それは 獣が 作った 歌 だった


エイラは ここで 初めて

歌と いう 奇妙な 音に 触れた


「えとぅら ねいら…?」

「ねお」

「エイラ も うたう?」


エイラは 獣が

なぜか 気持ち よさそうに

へんな 声を 出して いるのを 

ただ 黙って 聞いて いた


「ねえ エイラ」

「エイラの かわいい うた」

「デヒに きかせて くれない?」

「エイラの うた」

「きっと いい こえ」

「デヒ そう おもう」


「エイラ?」

「ねちゃった の?」


「おきてる ディヒ!」

エイラは 慌てて 答えた


「あぁ びっくり した」

「ね…え エイラ」

「うた しってる でしょ」


エイラは 首を 振った

獣の 耳が ぴくっと 動いて

だんだん 下がって いった


「そう なの ざんねん だな」

「でも きっと」

「エイラの なかまが おしえて くれるよ」


「ディヒの は?」


「デヒの うた だめ」

「だって すぐ」

「あって ぁくほ」

「これに なっちゃう」


「けもの さん の?」


「そう」

「いつか デヒ」

「エイラの うた ききに いくよ」


“いつか 聞きに 行く”


エイラは いま

あと 何日 かで

ディヒと いう 獣との

別れが 来る ことに 気が ついた


“そんなの やだ”

“おわかれ なんて…”


エイラは この 獣が 好きで

もう 獣の いない 世界 など

考え られなく なっていた


「ディヒ いない なんて やだ!」

エイラは 自分の 想いを

大声で 叫んだ


「ぅあ! びっくり」

獣は 立ち止まって

おそる おそる 振り向いた 


「エイラ? デヒ いるよ…」


エイラの 声は まだ

森に こだま して いた


「ディヒ!」

エイラは 獣に しがみついた


「ねえディヒおねがい」

「いっしょに いて…」


獣は エイラの うでに

ほおずりを した

「わるい ゆめ みたの?」

「デヒ エイラと いっしょ」

「した みて ごらん」

「それ デヒの せなか」


エイラは 目を 固く 閉じて

首を 振った


「へんな エイラ…」

獣は また 歩き出した


「ディヒ むこうに ついたら…」

「ディヒ かえっ ちゃう…」

「あたし やだ!」


獣は 立ち止まった


「こまった なあ」


獣が インニ タータを 送る のは

これで 20人に なる

その たびに

必ずと 言って いいほど

こうして 別れを 惜しまれる


初めに 獣が

“疲れる” と 言った のは

実は このこと だった


「もう… エイラ…」


この 獣の

382年間に 及ぶ 経験でも  

これを うまく 説得する 方法は

ひとつも 見つかって いなかった


獣は あきらめて

静かに 歩いた


しばらく しても

エイラは しがみ つくのを やめなかった


獣は ため息を ついた


「ねえ エイラ」

獣は 体を 揺すって

エイラの 注意を ひいた


「デヒと あそぼう」


「え…?」


「デヒの あたま おすと」

「デヒ あるく」


「ひっぱると とまる」

「みぎ たたくと みぎ」

「ひだり なら ひだりに あるく」


「やって みて」


「ディヒ…?」


「あたま おして エイラ」


エイラは 目の前に ある

獣の 頭を 突ついて みた


獣は ゆっくり 歩いた


「もっと つよく おして エイラ」


今度は 両手で ぐっと 押した

獣は 走り 始め

まっすぐ 森を 進んで いった


「きゃー!」


「エイラ きに ぶつかる」


「キャーッ!」


エイラは とっさに

右手で 叩いた

獣は くるっと 右を 向いて

急な 坂を 駆け上がった


「つぎ いわが あるよ」


エイラは 止まろうと した

でも 間に 合わない

「きゃ…」

獣は 岩 すれすれの 所で

大きく 跳び上がり

岩を 軽々と 越えて 走った


エイラは ちょっと 怖いけど

なんだか おもしろく なって

どんどん 駆り立てた


獣の 足は

何回 駆っても

とどまる 所を 知らない ようで

いくらでも 速く なった


それは もう

エイラの 目が 追いつかない ほどだった

しがみ ついて

なんとか 落ちない ように する だけで

手いっぱい


エイラは 獣の のどを 持って

ゆっくり 引っぱった

すると

獣の 足は だんだん 遅く なって

ついには 止まった


「あたし びっくり しちゃった」

「はやいねディヒ」


「どう? おもしろ かった?」

「デヒの のりかた わかった でしょ」


「うん すごく おもしろい」


実際 エイラが 他の 生き物を

インニ タータも 含めた 誰かを

自分の 意志で 動かす のは

これが 初めて だった


「エイラ もう ひとつ」

「じょうずな デヒの のりかた」

「おしえて あげる」


「え? どう するの?」


「かたて で くび もって」

「ひっぱり ながら」

「どっちかに たおす」

「やって みて」


エイラは 言われた とおり

獣の 首を 動かして みた

「きゃっ」


獣は いきなり 後足だけで 立ち

くるっと 向きを 変えながら

四つ足に 戻った


気が つくと

さっきとは 反対向きに なっていた


「ね? これが」

「じょうずな ふりむき かた」

「デヒの くび」

「ちょっと たおすと ちょっと だけ」

「いっぱい たおすと」

「ぐるっと まわる よ」


「ディヒ おもし ろい!」


「よかった それ なら」

「このまま デヒ うごかして」


エイラは 少しだけ 押して

獣を 歩かせた


「ねえディヒ」

「ほかにも じょうずな のりかた」

「まだ あるの?」


エイラは なぜか どきどきして

獣の 顔を 覗きこんだ

もう さっきの 淋しさ など

すっかり 忘れて しまった


「たくさん あるよ」

「やって みたい?」


「うん!」


「よく つかまって から だよ」


「わかった」

エイラは 獣の 背中で 座り 直した


「それに ちょっと こわい かも」


「だいじょうぶ!」


獣は 立ち止まった


「まず ひとつ」

「これ デヒ うごか ない」

「でも きっと びっくり する」


エイラは 何が 始まるか

早く 知りたくて うずうず していた


「エイラ りょうて で」

「デヒの みみ ふさいで」


“なんだろ…?”

エイラは そっと 手で

獣の とがった 耳を 覆った


「「があぁーーーおーぅ!」」


「きゃっ!」

エイラは 突然の 吠え声に

うずくまった


「がふ? ほら やっぱり」

「びっくり した でしょ」


エイラの 耳は きーんと なって

よく 聞こえ なかった


「おもし ろい でしょ?」

「だれか おどかす とき つかう」

獣は 耳を ぴくぴく させた


「すごい こえ!」


「デヒの こえ」

「まえに とんで いく」

「だから エイラ」

「デヒの まえに いれば」

「きっと もっと びっくり」


エイラは 慌てて 首を 振った


「いまの だけど」

「デヒの みみ」

「すこし ふさぐと」

「ぅおおーーおーうぅ」

「こんな とおぼえに なる」

「なかま よぶ とき ね」


「ふたつ め」

「これ かんたん」


「エイラ ふり むいて」

「デヒの おしり たたいて ごらん」


エイラが おそる おそる 叩くと

獣は すっと しゃがんで

地面に 伏せた


「かんたん でしょ?」

「のる ときと おりる とき」

「これ つかうと いい」


エイラは 足を 地面に つけて

降りて みた

エイラが 降りても

獣は じっと そのまま だった


「ふつう は」

「また エイラ のる まで」

「デヒ うごけ ない」


エイラは 獣に またがった

「たつ のは?」


「もう いっかい たたく」


獣は エイラの 手を 感じると

素早く 立ち上がった


「これで エイラ どこに でも いける」


「ほんと そうね」


「みっつ め」

「これも びっくり するし」

「すごく あぶない」


「やっても いいの?」


「ここで なら いいよ」


エイラは また 座り 直した


「エイラ デヒ きの そばに」

「つれて いって」


「うん」


エイラは 近くの 木に 向けて

獣を 歩かせた


「エイラ おちない でね」

「やって みるよ」

獣は 大木の 前で 止まった


「むき かえる のと おなじ ように」

「くび ひっぱって」

「デヒ たったら」

「エイラ あしで デヒの はら けって」


「え? ける の?」


「そう おもい きり けって」

「デヒ いたく ないから へいき」

「やって みて」


エイラは おっかな びっくり

首を 引っぱって

獣が 立ち上がった ところで

太い 腹を 蹴って みた

「「がぁーお!」」


獣は 吠えながら

前足を 振り回した

エイラは びっくり して

目を 固く 閉じた


エイラの 上に

砂が 降って きた


獣は 四つ足に 戻り

エイラも 目を 開けて みた


エイラは どきっと した

木の 幹には

3本の まっすぐな 傷が できて いた


エイラにも それが

この 獣の 爪の 一撃である ことは

すぐ わかった


「ふつうの いきもの は」

「これで うごかなく なる」

「デヒ こう やって」

「えもの とってる」


「エイラ?」


獣は エイラの 震えを 感じた


「エイラ こわ かった?」

「ごめん」

「でも よかった」

「これ あぶない と おもって くれて」


「え…?」


「こう いう の」

「あぶない と おもわ ない のが」

「いちばん あぶない」


「こわく なる ほど」

「あぶない って しって いれば」

「ふつう つかわ ないよ」


「エイラ もし ここに なかま いたら」

「デヒの はら ける?」


エイラは すぐ 首を 振った


「そう でしょ?」

「それなら エイラ ただ しい」


「でも」

「にほんあし は そう おもわ ない」

「あぶない と わかってる のに」

「すぐ つかう」

「だから デヒ きらい」


「デヒに つめ あるの しってる のに」

「すぐ むかって くる」


「どうして だろう ね」


獣は ゆっくり 歩き 始めた


「かわいい エイラ」

「そう ならない でね」

「デヒ の おねがい」

「やく そく して ね」






12


獣は そのまま 南へ 向かって いた


「エイラ」

「デヒの つめ こわい?」


エイラは しばらく 答え なかった 


「デヒの きば」

「けもの こわい?」


エイラは やっと 少しだけ

首を 振った


「ディヒ こわく ないけど…」


「はじめて あった ときと」

「さっき は」

「こわ かった…」


「そう だね」

「でも エイラ」

「いま なら デヒの て」

「さわれる でしょ」


「デヒ がぅー って」

「きば みせても」

「エイラ にげない でしょ」


「うん ディヒ やさしい もの…」


「はじめて エイラに あった ときも」

「デヒ きば はえてた」

「いまも はえてる」

「でも エイラ」

「いまは もう にげない」


「デヒも そう だよ」

「エイラ きば はえてる けど」

「エイラ かまない から」

「デヒ あんしん」


「きば とか つめ」

「つかわ ない のと」

「はえて ない の」

「デヒ おなじ だと おもう」


「あたしも そう おもうわ」


「エイラ も?」


「うん あたし ね」

「ディヒ みてて そう おもった の」


「ディヒ おおきな けもの さん」

「あたしの よこで すやすや ねてた」

「あたしも ディヒに もぐって ねた」

「あったかくて きもち よかった」


「きっと ふたり とも」

「かまれる なんて おもわな かった のね」


「デヒ エイラ かめ ない」

「おこった エイラ こわい から」

「けだもの! って いうの」

「あれ こわ くて」


「え? あたし こわい?」


「こわい よ」

「エイラに ち あげた とき」

「あのとき いちばん こわ かった」

「たたか れて」

「かまれる と おもった」


「ごめんね ディヒ」

「あたしも ディヒ しらな かったの」

「いい けものさん だって こと」


「エイラ これ からも」

「かま ない?」


「あたりまえ ディヒ!」


「よかった」

「デヒ あんしん した」


「ねえディヒ」

エイラは 獣の 首を 引っぱると

振り向いて 尻を 叩いた


「エイラ おりる の?」


「もう あるける わ」


「ほんと?」

獣は その場に 伏せた


エイラは さっと 降りると

獣を なでて から

歩き 始めた


でも エイラの 足は まだ

少し 痛そう だった


「ディヒ?」


獣は エイラの 横を 歩いた


「ここには どうぶつ たち」

「なにも いないの?」


エイラは 辺りを 見回した


「いるよ たくさん すんでる」


「でも ひとつも みえないわ」


獣は 鼻を 鳴らした


「みんな デヒ こわい から」

「すぐ にげて いく」

「だから だれも いない」


「そう なの…」

「ディヒ さみしく ない?」


「さみしい ときも あるよ」

「そんな とき」

「デヒ ひるね する」

「どうにも ならない から」


「がぁーぅ って いう けもの」

「どこでも きらわれ もの」

「かみつく から でしょ」


「みんな ディヒ しらない のね」


「ちがうよ エイラ」


「え…」


「この ほうが いいの」

「デヒ えもの とるの みたら」

「エイラ きっと こわがる」

「だれ だって」

「かみ ころす きらい でしょ」


「それ わすれ たら」

「にほんあし と おなじ」


「エイラ いきる ためには」

「がぁーぅ って いうの みたら」

「すぐ にげる こと」


「ほかの いきもの」

「デヒと ちがう」

「エイラ おいしそう だと おもってる」


「いいね エイラ」

「すこし でも あぶない と おもったら」

「なにも かんがえ ないで」

「すぐ にげ なさい」


「それ と」

「どんなに なかよく なっても」

「しか の うしろ いかない こと」


「エイラ」

「ここ あぶない の たくさん いる」

「でも」

「おもしろい のも たくさん」


「わかる でしょ エイラ」


獣は 前を 見つめた まま

小さい 声で 話し 続けた


「それと デヒ おもう けど」

「デヒ つよ すぎる かも」

「これ さみしい こと」


「どう…して?」

「ディヒ つよくて いい じゃない」


「デヒ いま では」

「どんな えもの でも」

「かならず しとめる」

「これ さみ しい」


「あたし わからない な」

「にげまわる ほうが よっぽど」

「さみしいと おもう けど?」


「エイラ どうぶつ たち さわれる」

「デヒ も むかし さわれた」

「でも いま さわれ ない」

「どんなに やさしく しても」

「かならず にげて いく」


「いつか しろい とり が」

「うし の せなか のって」

「そうじ してるの みた」


「デヒ には して くれない」


「ディヒ じぶんで できる じゃない?」


「それが さみしい こと」


獣は うつむいて

ため息を ついた


「なんでも じぶんで できる から」

「ほかの いきもの たすけ いらない」

「だから まわりに だれも いない」


「がぅー って いう けもの」

「みんな すぐ にげだす」

「だから そばに だれも こない」


「デヒ ほんとは すごく さみしい」 


「エイラ いきもの は」

「つよく なる ほど」

「かしこく なる ほど」

「まわり から はなれて」

「さみしく なって いく」

「この こと わかって…」


エイラは 頭を かいた

「ディヒ ごめん」

「あたし よく わからない」


「あの にほんあし」

「おもい だして みてよ」

「その まわりに いきもの いた?」


エイラは しばらく 考えこんだ


「がるぅー って いうの だけ」

「だった… かしら」


「そう でしょ」

「にほんあし ほかの いきもの いらない」

「ころして たべる」

「それ だけ」

「デヒと おなじ」

「すごく さみ しい」


「エイラ おとなに なった とき」

「つよく なった とき」

「この こと おもい だして」

「かんがえて みて」


「でも」

「デヒ こたえ でな かった」

「だから いまは あきらめ てる」

「それに エイラ いるから」

「さみしく ない」


「デヒの ともだち」

「にじゅう にん の インニ タータ」

「みんな すなおで」

「かわい かった」


エイラは 獣の 目に

涙が たまって いるのを 見た

黒い まぶたから あふれて

毛に しみて いった


「ディヒ…」

「あたしの おともだち」

「やさしい けもの さん…」






こうして エイラは

南に 向かって 歩き 続けた


ときどき 獣に 乗せて もらった けど

かなりの 道のりを

自分の 足で 歩いて 旅を した


山を 越え 谷を 渡り

丘を 抜けて

獣と いっしょに 過ごした


途中 エイラは

ここでの 生き方 全てを

自然と 獣から 学び

今では ほとんど 不自由 しなく なって いた


ある 日

エイラは 初めて 鹿を 獲った


もちろん

獣に 助けられ ながら では あったが

最後は エイラが 咬み ついて

息の 音を 止めた


小さい けど

それは 立派な 獲物 だった


獲った あと しばらくは

エイラは うつむき 震えて

何も しようと しなかった


でも

たき火で それを 焼き 始めると

すっかり 元気に なり

いつもの “けだもの さん” に 戻った


獣は 火の 向こうで

獣の やり方と

インニ タータの やり方の 違いを

話して 聞かせた


それは

エイラが これから 迎えるで あろう

仲間の 中で

うまく 暮らせる ように する ためだった


エイラは この 何日かの 旅で

それら 全てを

“けもの先生” から 学び取り

身に つけて いった


いつだった か

棒の 先を 尖らせて 獲物を しとめる


この 方法を

エイラが 提案した ことが あった


すると けもの 先生は

“獲物に 触らない 狩りは いけない”

恐い 顔を して エイラを 叱った


エイラは “どうして?” と 思ったが

“ディヒが 言うなら そう しよう”

そのように 決めて

教えを 守る ことに した






13


午後の 暖かい 陽射しの なか

ふたりは とうとう 目的地に 着いた


そこは 川の ほとりで

獣の 住んでいた 小屋と 同じ 形の

木を 組んで 作った 建て物が

いくつも 並んで いた


「ディヒ…」

エイラは 少し 怖かった


獣に しがみ ついて

そっと 進んで 行くと

何人かの インニ タータが 見えた 


その 人たちは

すぐ 獣に 気が ついて

大きな 声を 出すと

こっちに 走って きた


「あっか!」

駆け寄った 人は 獣に 抱きついて

涙を 流し ながら

獣の たてがみを なでた


「アッカ きて くれた のね…」


その人は エイラより かなり 大きく

太い 手足を していたが

着ている ものは エイラと 同じ だった


「ズージ ひさし ぶり」

「おぼえてて くれて」

「アッカ うれ しい」


「わすれ ないわ…」

「いつだって あいたいと おもってた」


「アッカ ズージ わすれ なかった よ」

「くびわ はずした こと も」

「かまれた こと も」

「みんな ときどき おもい だして た」

「ズージも きっと そう でしょ」


「あぁ その しゃべり かた」

「あの ときと ちっとも かわって ない」


エイラは その人が

むかし この 獣と いっしょに

同じ 旅を した 人だと 感じた


「ズージ りっぱに なった」

「すっかり つよそうに なった」

「アッカ ズージに たべ られ そう」


どうやら その 人は ズージ と いい

獣は ディヒ では なく

アッカ と いう ようだった


「ベテ!」


いつの まにか

もう一人 獣の そばに きて

目を 閉じて 肩を 震わせて いた


「タクク も げんき そう」

「あう たび きば のびて」

「ベテ うれ しい」


「おれも そう だ…」

「おれ ベテの やくそく」

「ずっと まもってる」

「ベテの いった こと」

「ただし かった」


「ほんと に?」


「うそ だったら」

「すぐ おれ くって くれ」


「タクク かわって ない ね」

「あの ころ も」

「すぐ そう いって」

「すわり こんだ でしょ」


「あっ…」

「ごめん そう だった」

「それ やめろって いわれた のに」

「ベテ おれ くう?」


「ベテ タクク たべる の」

「つぎ まで まって あげる」

「きっと もっと ふとって」

「おいしく なってる でしょ」


その人は 大笑い した


「そうだ ベテ」

「おれ いま ズージと すんでる」


「そう なの?」

「なかよく してる?」


「してるさ!」

「けんか しそうに なると」

「ふたり とも」

「ベテ」

「アッカ」

「おもい だす」

「それで けんか とまる」


「それ なら いい」

「もし けんか してるの みたら」

「すぐ たべ ても いい ね?」


「ああ!」

「それに おれたち」

「こども さんにん できた」


「ズージ がんばった ね」

「たくさん ふえて」

「アッカ うれ しい」


「ベテ… その こ…」


みんなは エイラを 見つめた


「ひがし から きた おんなのこ」

「エイラ」

「かわいい でしょ」


獣は エイラに 少し 近付いた


「エイラ」

「この ひと エイラの なかま」

「ごあいさつ は?」


エイラは 小さく なった

「あたし エイラ…」


「タクク と ズージ」

「エイラ まだ じゅう ろく さい」

「でも きっと うまく やって いく」

「デヒ ぜったい そう おもう」


「でひ?」


「い かま でひ」

「エイラ デヒ って よんで くれた」 


「ディヒ よ…」


「ディヒ か!」

「それも いい なまえ だな」


「エイラ きょう は」

「タクク と ズージ の すみかで」

「ねかせて もらい なさい」

獣は 優しい 顔を して

エイラに ほおずりを した


「タクク まさか」

「いやだ なんて いわない ね?」


「いう もんか!」

「ベテに くわれたく ないし」

「おれも ベテに あっためて もらった」

「いやだ なんて ぜったい いえないよ」


タクク と ズージ

ふたりは エイラを 誘った


「おいで えぇと…」

「え…エイラ」

「しんぱい するな」

「その ベテ… じゃ なくて…」

「アッカ… じゃ ない えぇと…」

「ディヒも いっしょ だから」


「いこう エイラ」

「デヒが ついてる」

「こわく ない でしょ」


「うん!」






14


獣は エイラを 小屋に 案内した

それは さっき 立っていた 所から

いちばん 近く

しかも いちばん 川の そばに あった


「アッカ! やっぱり おおきい のね」

「こども かえって きたら」

「きっと びっくり するわ」


「アッカ はいると」

「せまく なる ね」

「この まえも そう だった けど」

「あれ?」

「タクク きのう しか とった でしょ」

「すごいな ベテ」

「そとに ほして ある だけなのに」


「けもの は それで いきてる から

「タクク ズージ エイラの におい」

「みつけ られた のも そう」

「あ そうだ」

「エイラ も しか とれるん だよ」

「すごい でしょ」


獣は エイラを 座らせると

その 横に 伏せた


小屋は 狭くて 獣は 入り きれず

腰から 後ろは 外に はみ出て いた


「エイラ しか とれるの!」

タククは 目を 丸く した


「うん…」


「そう だよ」

「エイラ しか とった」

「タクク おとこのこ なのに」

「どう しても とれな かった」


「でも いま とってる から」

「ベテ あんしん した」


エイラの 頭には

いろいろな 名前が 飛び交って

わからなく なって いたが

獣は 少しも ためらわず

それを 使い 分けた


“8つも ことばを 使える わけね…”

エイラは 思った


「エイラ らくに して いいのよ」

ズージは ぴったり 獣に くっついて いる

エイラに そう 言って 微笑んだ


「そう おれたちは じゆう」

「むかしとは ちがう」

「もちろん エイラも」


「おれ はじめて べ…ディヒに あって」

「がーふ! って いわれた とき」

「すごく こわかった」


「すこし たつと はんたいに」

「よわそうな けものに みえた」

「なんか びくびく してた から」

「でも そとに でたら」

「すごく つよくて」

「おれに いろいろ おしえて くれた」

「ズージも そうだった って いってた」


「だから きっと」

「エイラも そうだと おもう」

「それなら ぜったいに」

「おれたちと きが あう はず」


「あした から」

「エイラの すみか つくろう」

「ここで いっしょに」

「くらして いこう」


タククは エイラを 励ました

それは エイラが 初めて 体験する

仲間の 歓迎だった


「なに これー」

「けだ もの おしりー!」


外で へんな 声がした


「あ かえって きた」

「はいって」

ズージは 立ち上がって 外を 覗き

手招き した


獣は ゆっくり 後ずさり した

首を 持ち上げて


「がーふ!」


「きゃー!」

小さな 生き物たちは

ちりぢりに なった


「もう アッカ!」

「おどかさ ないでよ」


「ごめん ズージ たたか ないで…」

獣は いつかの ように 小さく なった


「へいきよ はいって おいで」

ズージは また 手招き した


「エイラ あれ おれたちの こども」

「さん にん いる」

「きっと いい あそびあいてに なる」


子供たちは 獣を 避けながら

中に 入って きた


なおさら 狭く なったので

獣は 顔だけしか 入らな かった


「しょうかい するわ」

「エイラ ディヒ…」

「あたしたちの こども」


「ひだり から」

「エル おんなのこ ろく さい」

「エキ おとこのこ ご さい」

「エガ おんなのこ よん さい」


「エイラ? この なまえは」

「けものの ことばから もらったんだ」

タククは そっと エイラに 言った


「エル エキ エガ」

「この ひと」

「エイラ おねえ さん」

「なかよく するのよ」


「エイラ! こんど あそんでね」

「きっと だよ」

いちばん 大きい エルは

そう言って 飛び跳ねた


エイラは その 子供の 姿に

初めて 幸せな

インニ タータの 家族を 見た


「それと」

「エル エキ エガ」

「さっき がーふ って いったのは」

「ディヒ」

「おかあさんの だいじな けもの さん」


「エキ? いじめたり したら」

「おしり たたく からね!」


「うん… けだ もの こわい」


「いいこに してれば こわく ないの!」


「どう してー?」

「けだ もの かみ つくー」


「もう!」


「エイラ ごめんね」

タククは エイラの 前で 小さく なった

「こども いると さわがしくて…」

「つかれてる のに」

「これじゃあ やすめない だろ…」


「あたし ひがしに いた ころ」

「こんなの なかったわ」

「だから たのしい」


「そうか よかった…」

「あ そうだ」

タククは 立ち上がった


「おれ なにか とってくる」


そう 言って タククは

獣を 踏まない ように しながら 

外へ 走って いった


「ディヒ? あたし たちも」

「たべもの とって くる?」

エイラは そっと ささやいた


「ねお」

「タクク とって きて くれるよ」

「いま デヒ でかけ たら」

「えもの たくさん で」

「きっと たべ きれ ない」

「タクク それ しって る」


「そう なの?」

「ディヒ あの ひと」

「よく しってる のね」


「タクク ズージ」

「エイラと おなじ くらい しってる」

「ズージ じゅう はち ばんめ」

「タクク じゅう きゅう ばんめ の」

「インニ タータ」

「だから」

「エイラ にじゅう ばん め」


「みんな ディヒが?」


「デヒ みて はしって くる ひと」

「みんな エイラと おなじ」


「そうなの」

ズージは 子供たちの 頭を なでて から

近くへ 来た


「あたし たち」

「むかし あなたの ディヒに」

「たすけて もらったの」

「きっと エイラ あなたも」

「おなじ だと おもうわ」


「だから あたし たち」

「ほんとうの なかま」

「ディヒの おかげで」

「あたしと タクク きが あって」

「むすばれ たの」


「あなたの ディヒ」

「タククの ベテ」

「あたしの アッカ」

「それは あたしの おやと おなじ」

「こわくて かしこくて やさしい」

「けものは おやと おなじ」


エイラは そっと 獣を 見上げた

それは いつもの まなざしとは

明らかに 違って いた


「ディヒ ありがと」

「あたし よかった」

「いきてて よかったわ…」


獣は 鼻先を エイラの ひたいに つけた


「デヒ も よかった」

「エイラ しあわせ そう」

「かわいい エイラ」

「いきる の うれしく おもって くれて」

「デヒ それ だけで なにも いらない」


獣は そう 言うと

鼻先を ズージに 向けた


「ズージ も しあわせ そう」

「アッカ ズージに あえて よかった」

「インニ タータ みんな で」

「ちから あわせて いきて ね」

「アッカ の おね がい」


「もちろん…そう…するわ…」


ズージは 獣の 顔を なでた


「おかあ さん?」

エガは おそる おそる 覗きこんだ

「ないてるー」


「おかあさん なかせたー」

「けだ ものー!」

エキは 獣が ズージを

いじめて いると 思い込み

助けに 行きたかったが

大きな 獣が 恐くて 近寄れず

その場で じたばた した


「ズージ?」

獣は 首を 傾けた


「あの こ こんな けもの」

「みた こと ないん でしょ」


ズージは 涙を 拭った


「そう なの」

「ここ なんねん か」

「みて ないのよ」


「それで エキ アッカ こわいん だね」


「あのこが みた けものの なかで」

「アッカ いちばん おおきい から」


「けもの いなく なった の」

「なんと なく わかる よ」

「アッカ も そう でしょ」

「とおくに すんでる」


獣は 静かに 立ち上がった

「ズージ ここで まって て」

「エイラ デヒに ついて きて」


獣は 後ずさり して 尾を 振り

エイラを 誘った

エイラは ふしぎそうな 顔を したが

すなおに 立って 歩いた


「どう したの ディヒ?」


「ちょっと ついて きて」

「いい でしょ」


「うん」


獣は エイラを

少し 離れた 木の 根元まで 連れて いった

「ねえ エイラ」

「デヒ ききたい こと ある」


「なあに?」


「エイラ これから どう するの」

「ひがしに いく って こと」


「エイラ ここ すきに なった でしょ」

「だから デヒ」

「あの やくそく」

「わすれ ても いい」

「だって エイラ しあ わせ そう」


エイラは 下を 向き

長い こと 考えて いた


「デヒ エイラの きめた ように する」

獣は 座って まるく なった


「あたし やっぱり」

「いきたい の…」


獣は 首だけ 持ち上げた


「ディヒ なかま おしえて くれた」

「ひがしに たくさん いる ひと」

「あたしの なかま」

「みんな つかまってるの おかしい」

「あたし だけ たすかるの おかしい」


エイラの 瞳は

静かに 何かを 訴え 続けた


「わかった エイラ」

獣は 立って ぶるぶるっ した

「すぐ でかけ る?」


「うん」

「まてば それだけ」

「みんな くるしい はず」


「そう だね」

「デヒも いく から」

「つれてっ てね エイラ」


獣は うれしそうな エイラに ほおずり して

いっしょに 小屋に 戻った


さっきの 場所に 座って

ひと息 つくと

何やら がさがさ 音を たてて

タククが 帰って きた


「ほら! こんなに とれた」


タククの 両手には

魚と くだものが 山に なっていた


「ベテには おれが とった しか」

「おれの しか くって ほしい」


タククは 獣と 旅を した とき

どうしても 鹿を 獲れなかった

だから ここで

自分の 成長を 獣に

見て もらいたかった


「タクク えもの たくさん」

「とれる ように なる って」

「ベテと やくそく した」

「タクク それ まもって くれた」


タククは 照れくさそうに 手を 振った

「ベテ みたいに はやくは ないけど」

「なんとか やってるよ」


「それで いいん だよ」

「タククの くらし みれば わかる」


「それで ね」

獣は 音もなく 立った


「ベテ タククの えもの たべ たら」

「すぐ でかけ る」


「え! すぐ いっちゃうの?」

「なんにちか いてよ アッカ!」

みんな 身を 乗り出した


「だめ すぐ エイラと でかける」

「そんな… どうして…」


「タクク ズージ それに」

「エル エキ エガ」

「デヒ エイラと ひがしに いく」


「なんで!」

「また つかまりに いくのか!」


「それ ちがう」

「エイラ つかまら ない」


「あたし」

エイラは ここで 初めて

大きな 声を 出した


「ディヒに あった とき」

「きめて やくそく したの」

「ひがしの みんな」

「ここに つれて くるって」


タククは 目を 丸くした

「え! あいつら から」

「たすけ だす つもり?」


エイラは うなずいた


「むりだよ!」

「おれも かんがえた けど」

「とても できない」

「ころされに いくのと おなじだ!」


「「タクク!」」


獣は 吐くように 叱り

そのまま 堂々と 進んで

唸り ながら

鼻先で タククの 顔を 押した


「できない わけ」

「ここで ベテに きかせて」


タククは 震えて

黙った ままだった

ズージも 子供たちも

獣の ただならぬ 気迫に

何も できないで いた


「それ なら」

「やって みた の」

「いって みた こと あるの」


タククは 顔を 押さえられ ながら

小さく 首を 振った

「そう なの」

「わかった」


獣は 体の 向きを むりやり 変えると

エイラに 近寄り

白い 手を 握った


「エイラ いこう」


獣は すたすた 歩き出した

エイラは ちょっと 戸惑ったが

走って 獣の 後を 追った


「けだ ものー」

「いっ ちゃっ たー」


子供の 声で 正気に 戻った ズージは

すぐ 走った

「アッカ!」

ズージは 追いつくと 歩く 獣の 首に

しがみついて 言った


「アッカ どう したの」

「もどって きて」

「あたし タククに はなして きかせるから」

「おねがい アッカ…」


獣は 立ち止まった


「ごめん ズージ」

「でも アッカ きめた こと」


「そんな…」


「アッカ こう なる って」

「おもって なかった」

「でも ごめん」

「ズージ には わるい けど」

「アッカ タクク きらいに なった」


「きらいな いきもの いると」

「アッカ かみ つき たく なる」

「だから でて いくよ」


ズージは 獣の たてがみに

顔を 押しつけた


「そんな こと いわないで…」

「あたし どうすれば いいか」

「わからなく なる…」


「ズージ ごめん」

「ここ から けもの いなく なったの」

「アッカ いま よく わかった」


「なかま おもわない の」

「やる まえから だめって おもう の」

「そんな よわい インニ タータ」

「アッカ きらい」


「エイラ じゅう ろく さい の」

「おんなの こ」

「あし まだ いたい のに」

「いこうと してる」

「アッカ そんな エイラ すき」


「おわかれ だね ズージ」

「アッカ もう こない」

「ここで しあわせに なってね」

「さいごの おねがい」


「いや! あたし いやよ!」

「おねがい まってて」

「あたし タクク つれて くる」


ズージは 走った

エイラは 心配そうに 獣を 見上げ

獣は うつむいて ため息を ついた


「ディヒ… いいの…?」


「エイラにも ごめん」


「あたしは いいの」

「いちばん くるしいの ディヒ」

「わかるわ あたし…」


「デヒ タククに おしえた はず なのに」

「だから せめて エイラ がんばれ とか」

「いって ほしかった」

「それ なのに できない って」

「どうして できない か わからない のに」

「できない って」


「そんな インニ タータ」

「まわりに だれも いなく なる」

「にほんあし と おなじで」

「かってに さみしく なって いく」

「デヒ その さいごの だれか」


「きなさい よ!」

ズージは タククの 手を 引っぱって

獣を 追った

子供たちも その 後から ついて きた


「ほら! じぶんの ほうが ただしい って」

「いえる ものなら いって みなさいよ!」

「ここに たってるの だれか」

「よく みてから ね!」


ズージは かなりの 迫力で

タククを 叱りつけた


タククは 小さく なり

ひざを ついた


獣は 前を 向き

歩き 始めた


「いこう エイラ」

「デヒ きば が むずむず してきた」


「タクク! あたし アッカが」

「はなして くれた こと」

「よく おぼえてる」


去って いく 獣の 後ろで

ズージは タククを 叱り 続けた

「ためす まえから だめって いう」

「そんな ひと きらいだ って」

「アッカ あのとき いって くれたわ」

「あたしたち つれて きて くれたの」

「なんの ため なの」

「なかまに なる ためじゃない!」


「もう いいわ」

「あたしも いく」


ズージは 子供たちに 手招き して

獣の 横に ついた


「アッカごめんね」

「あたし あの こと」

「きが つかなくて」

「もう はずかしくて…」

獣は 足を 止めて

優しい 顔で ズージを 見た


「ズージ いい こ だね」

「でも もどり なさい」


「どう して…」


「ズージ ひとりじゃ ない でしょ」

「タクク や こども いる」

「たくさん ふえる のも だいじな こと」

「それに」

「アッカ もう おしえる こと ない」


「エイラ なら ひとりで できるよ」

「アッカ そう おもう」


「ひとり で…?」


「そう エイラ だけで」

「かわいい エイラ」

「いつも ひとりで なんでも やった」

「だから エイラ だけで できる」


「あたし いると じゃま…?」


「そんな こと ないけど」

「ズージ も なんでも やった」

「でも いまは のこり なさい」


下を 向いて いた タククは

急に 立って

小屋に 駆け戻った


「タクク と こども たち」

「いっしょに くらす の」

「だいじな ことだよ ズージ」

「ひがしに いるのも なかま だけど」

「ここに いる インニ タータ も」

「ズージの なかま」


「おんなじ なかま でしょ」


「こども おおきく なったら」

「アッカに あいに きて」

「たのしみに まってるよ」


「ズージに あえて」

「ほんとに よかった」


獣は ゆっくり 歩いた


「ちょ…っと…」


後ろで 苦しそうな 声が した

振り返って みると

タククが 何か 荷物を たくさん 抱えて

よろよろ しながら 歩いて きた


タククは やっと 獣の そばまで 来ると

がっくり 座りこんだ


「ベテ おれ まちがってた」

「ごめん」

「おれ ここに なれすぎて」

「よわく なってた って」

「きが ついた」


みんな 獣を 見つめて

黙って いた


「もう いっかい」

「おれ たび する」


「よわい おれ」

「おれも いやだ」

「ベテ おしえて くれ」

「たのむ」


獣は どう しようか 迷った

何だか 追い詰められた ような

気分に なった


「アッカ これで…」

ズージは 獣に 言い寄った


「ディヒ…」

エイラの 瞳も 静かに 訴えた


「もう いっかい…」

タククも 震え ながら

獣の 許しを 待った


「わかったよ」


獣は 振り向き

地面に 伏せた


「わかったよ ベテの まけ」

「そんな かなしそうな かお しないでよ」


「ベテ…」


「みんなで いこう」

「でも じぶんで きめた こと だから」

「すこし でも つかれた とか」

「もう やだ とか いったら…」


タククは 獣に 飛びついた

「すぐに たべて らくに してあげる」

「そうだろ ベテ!」

「そう だったね タクク」

「おぼえてて くれた」


「わすれる もんか!」


「えもの もってきて くれたの」

「むだに しない ように」


「ああ ベテ おしえて くれた」


「よかった」

「ベテ タクク きらい やめた」


「ほんと…?」


「ベテ うそ きらい」

「ほら ふるえて ないで」

「えもの ベテの せなかに のせて」

「インニ タータ ほそい から」

「すぐ ころぶ でしょ」


「はは… そう だな!」


みんな 獣に ついて

歩き 出した

いつかの ように

厳しくて 優しい 獣の

たてがみを なでながら


みんなの

自分と 仲間のための 旅が

また 始まった…



(つづく)


(C)1996 Kemono Inukai


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