約束はいらない-13◆「神の切っ先」
■ジョオテンズ山脈/不帰の峠→ヴェルデ河→龍の背
多勢に無勢ながらも、ほぼ無傷で遭遇戦を着る抜けたカーシャとローランは、再び馬上の人となった。幸い、訓練された重戦馬は逃げ出すこともなく、峠に残っていてくれたからだ。
不帰の峠の長い南斜面は荒れ果てた北側の斜面とは異なり、草が生えており、森林限界以下に下って来ると、ちらほらと木々を見かけるようになった。
「ラダックの山並みは越えたな」
二人の背後には、越えてきた山波が屏風の様に立ちはだかっていた。
「まだ先は遠いぞ、ローラン殿」
カーシャは薄く笑って言うと、馬を促して山脈の間の谷に入った。左手には大きな氷河が流れてきており、氷河から溶けだした河が谷底を東から西へ流れている。
「あれがヴェルデ河だ。地図にはその名が記載されてはいないが、土地の人間は皆そう呼んでいる」
「ヴェルデ河というのですか」
「そうだ。ステリック公国では、この河を“三途の河”と呼ぶ者もいる。幾多の激戦がこの河の向こうで行われ、多くの戦士がこの河を渡って帰ってこなかったからな」
「そうですか・・・」
ローランは、ヴェルデ河の対岸をみて呟いた。
「さらに気を引き締めねば」
☆ ☆ ☆
ヴェルデ河まで降りたのは、日暮れ近くになってからだった。間近で見る河は、鉛色に濁っていた。
「かなり濁ってますね」
「氷河からの水だからな。石灰を多量に含んでいるからこの様な色になる。飲むと調子が悪くなるぞ」
「はい。こんなところで腹を壊したら、医者は来てくれませんね」
「フフフ、そうだな」
その晩は、木の陰の旨い寝床が見つかった。二人で慎重に周囲に罠を張り、その晩はぐっすり眠ることが出来た。
☆ ☆ ☆
次の日。一転してどんよりと曇った空を、若干不快そうにカーシャは見上げた。
「雨だとやっかいだな。足跡が残る上、馬上戦が不利になる」
「ええ。視界が悪くなり、身体を冷やしますし」
「降り出す前に、急ごう」
再び馬上の人となり、二人は渡河点を探して川岸を下っていった。程なく、河が広く浅くなっている場所を発見し、難なく渡河した。向かうはラダック山系の向かい側にある一層高い山脈だ。
「あの山脈は“龍の背”と呼ばれている」
「“龍の背”というのですか?」
「そうだ。古代に、強大な龍を魔導師達が封じ込め、それがあの山脈になったと言う話だ」
「あの大きさの“龍”ですか・・・」
「想像も付かないな、あのサイズだと。星界の海には、その様な怪物がうようよ居ると聞くが、真実かどうかは定かではない。だが、強大な魔導は、またの龍を目覚めさせるかも知らん」
「場所が場所だけに、起こりそうな気がしますね」
「そうだな。だが、そうならないことを祈るだけだ」
カーシャはそう言うと、前方を指し示した。
「峠は、“龍の首”の所だ。低くなった地点が見えるだろう?あそこを越える」
低いと言っても、標高一万フィート以上はある。高度差五千フィート、目が眩む高さだ。一歩一歩、カーシャとローランを馬に揺られ、峠を目指してジクザクに登って行く。その間も、二人は油断無く周囲を警戒する。
「静かだな。何も起きないに越した事はないが、静かすぎる感じだな」
「はい。静かすぎる・・」
ローランは周囲を見回した。
「嵐の前の静けさと思えなくもありません」
「わからん。油断をしないことだな」
☆ ☆ ☆
山脈の中腹で日が暮れた。仕方がないとばかりに、カーシャは下馬すると、二頭の馬を集めて脇に繋いだ。
「一番危険な状況だ。十分に注意をせねばな」
ローランは周囲を見渡すと頷いた。
「見通しがよく、発見されやすい。身を隠す場所もない。用心に越したことはないですね。火は炊かない方がよいでしょう」
「そうだな。今夜は交替で番をすることとしよう。ローラン殿、先に休まれよ。夜半に起こす」
「わかりました。寝る前に少し罠を、準備して休みましょう」
ローランは、近づいた者がいたらわかるように、周囲のめぼしい場所に簡単な罠を仕掛けた。その後に防寒の準備をしてカーシャに言った。
「では、先に休みます」
☆ ☆ ☆
夜半。吠え声でローランは目が覚めた。傍らにいたカーシャが制止の声を掛けた。
「静かに」
「何か来ましたか?」
「遠くだ。それに、こちらが風下だ。気付かれる事は無いだろう」
「なにものでしょう?」
「巨人だろうな。昨日の事を根に持っているのではないか」
「かなりの数を倒しましたから」
ローランは素早く身支度を整えながら言った。
「私も警戒します」
「そうだな。悪いが、起きて貰って置いた方が良いだろう。ローラン殿は、こちらの方角を頼む」
カーシャはそう言うと、風上方向に向いた。
「はい」
ローランは、風下の方向を警戒する。
一晩中、吠え声は続いた。だが、それ以上深刻な事態にならず、二人は翌朝を迎えることが出来た。
「行こう。この山を越えれば、神の切っ先まで順調にいけば、二日で着ける筈だ」
疲れも見せずに、カーシャはさらりと言った。
「あと、二日」
ローランは二人の重騎馬を連れてくると、カーシャに手綱を手渡した。
☆ ☆ ☆
“龍の背”の長い葛折の峠道を登っていく。ラダックの山並みよりは、たっぷり千フィート以上も標高が高く、険しさもそれ以上だった。一歩一歩馬を導きながら、それでも無事に龍の首を抜ける事が出来たのは更に一日後だった。
「見よ」
峠に立って、カーシャの指し示す方向を見ると、“神の切っ先”と呼ばれる孤峰が以外と近くに見えた。
「あの下の森のどこかに、湖が有る筈だ」
「あれが、“神の切っ先”」
ローランは孤峰を見詰めた後、森を見下ろした。
「あの森のどこかに・・・。歩いて探すことになりますが、リュラック殿が言っておられたように、発光現象にも注意しなくては」
カーシャはローランに頷くと言った。
「行こう」
再び馬を促すと、カーシャとローランは長い葛折を下り始めた。