万治への改元と諸施設の完成だ・遊女師匠の芸事手習いどころは高いけど人気だぜ。
さて、7月ももう終わる明暦4年7月23日、昨年の明暦の大火などの天災のため元号が万治に改元され今年は万治元年となった。
明暦の大火によって半分以上が焼けた江戸の復興もとりあえずは一段落したということだな。
「新しい元号は万治か、まあこれで社会全体がいい方向に変わるといいな」
この時代はまだ悪いことが起こったら元号を変えるというのが普通なのだな。
またそれに伴い江戸の町においては大名火消だけでは防火及び消火能力が不足しているのは明らかであったので、幕府直轄の消防組織である、与力や同心によって江戸市内の消火や防火、火災警備を行う定火消役が設置された。
たった1年半くらいで寺社や大名屋敷の移転や町人の住む長屋の整備などの復興が完了するというのも大したものだと思う。
まあこの時代は建築に関してはあまり設計と施工などが一緒であるため分業もないし、長屋の大きさが決まっていて柱の長さなども規格化されてるしガスや電気もないから住宅建設自体が21世紀現代に比べれば簡単ではあるんだけどな。
そして銀兵衛親分から報告があり、建築工事を行っていた養育院(孤児院)・養生院と付帯の薬草園(入院可能な総合病院+薬局)・犬猫屋敷(保健所兼ドックラン)・遊女が師匠の手習所が完成した。
真新しい建築物を見れば感慨もひとしおだ。
「おおやっと出来たな」
「へえ、また何かありましたらよろしくお願いしますわ」
「ああ、こっちこそ」
そしてそれぞれの施設に公金の使い方に問題ないかという監視役の与力も派遣された。
与力の役目はあくまでも公金横領などがないかを確認する役目で事業内容に直接は口出しはしない。
養育院は主に捨て子などを預かって育てる孤児院のような施設だ。
責任者はとりあえず西田屋の元内儀母子にしておいた。
まあ人を動かすのはそれなりに出来るだろうしな
ここで働くのは元切見世の女郎や、武家や町人の女で子育て経験者の女、隠居して暇だが子供が好きな老人、経済的事情で夜鷹などをせざるを得ない武家の奥方など様々。
まだ乳飲み子の場合もふまえて、乳が出る乳母もすでに集めてある。
皆、鉛や水銀の白粉などはさせていないぜ。
養生院は入院施設付きの病院で院長は向井元升、副院長は貝原益軒。
無論院長や副院長も診察などは行う。
そして、俺は手習い所の師匠についてはまず桜をメインにやってもらおうと思っている。
「桜、太夫格の格子のお前さんに門外の遊女手習い所の教頭をやってほしいんだがやってくれるか?
あくまでも看板としてお前さんの予約が入ったら店には出てもらうんだがな」
桜はコクリと頷いた。
「はい、ありがたく受けさせていただきやす」
これで、年季が明けた遊女がその名前やそれまでに身につけた教養などを活かした働き先が出来たな。
こういった手習いや芸事の師匠というのは数少ない女性が出来る職業の一つでもあった。
そして太夫のような遊女であっても、大名の妾になって武家屋敷で芸事を披露したり、商家に身請けされて店でその算盤の知識や手紙のやり取りをしたりするのを除けば、実はあんまりそういった教養を発揮する場所というのもないんだよな。
しかし、三河屋直営の太夫の遊女が指導する手習い所ということで、本来の手習い開始時期である6月より遅いにも関わらず、若い女を持つ親からの申し込みが殺到した。
「まあ、応募がたくさんあるのはありがたいことだな」
俺のつぶやきに桜が同意する。
「ほんまですなぁ」
一般的に江戸時代に町民などに教育を行った場所は寺子屋という名前だと思われているが、それまでも寺での教育が普通に行われていた京のような上方とちがい、江戸では寺での教育というのがそれほど行われていたわけではなかった。
なので、江戸においては寺子屋という呼び方は一般的でないのだな。
習う生徒の数も10人程度から100人ほどまで様々。
人数が多い場所では師匠の手も回らないので、年上の子が年下の子に文字の読み書きを教えたり、持ってきたおもちゃで一緒に遊んだり、顔に墨を塗りあったりして、好き勝手やったりしている場所もある。
あんがい子供たちはこの手習い所が大好きで朝は友だちを迎えに行って一緒に仲良く通学したりもする。
関東にはかつては兵学を学ぶ足利学校があり、現在でも足利学校は武士にとっての最高学府でもあるし手習い所の師匠の養成学校でも有った。
また武断政治から文治政治への移行期である、現在の幕府の方針は儒学を推奨し道徳や礼儀によって社会秩序を守ろうとする方向に切り替えたため武士の間でも学問は盛んになった。
そのため諸藩は藩校を作ることになるのだがその創設時期は様々で幕末までない場所もあれば岡山藩のようにすでに藩校がある場所もある。
また、藩校は武士のみだが下級武士から町人、農民まで幅広く受け入れた郷学校や、朱子学などの高度で専門的な教育を受けられる私塾もあった。
ちなみに手習いや芸事の師匠にも免許のような資格はない。
だから、医者と同じでなろうと思えば誰でもなれた。
が、最終的には評判が悪ければ人が来なくなることにはかわりはないな。
まあ、それはおいておいて本来であれば手習い所の師匠たちは、学びにやってくる子供たちの親の職業や本人の将来の希望を考えたうえで、それぞれにあったカリキュラムを作る個別教育を行っているのだが、俺の手習い所は生徒は女性専門でここに来る生徒は大名や幕府の奥女中になりたいと言うものがほとんどだ。
そしてここでは読み書き算盤や手紙の書き方とともに衣服の裁縫や礼儀作法、三味線、琴、踊りなどの芸事も全て教える。
普通の手習い所はあくまでも教養のみを教えるところだが、ここはそれに加えて実際に大名や旗本を接待している太夫が芸事や礼儀なども教えるというところが、女たちに注目されているようだ。
この時代では良い家に嫁入りしようとすると、武家奉公への女中としての働きが履歴として必須だったんだ。
そしてその際の採用条件として、面接による教養の試験と三味線、琴、茶道、生花、浄瑠璃等の実技試験に合格しなければ採用されなかった。
大奥の採用試験では豆腐を賽の目に切る試験が有ったりもするのが面白いよな。
なぜ女中として働くのにそういった芸事が必要だったかと言うと、武家屋敷では殿様やその来客に芸を披露する必要があるからだな。
だから裕福な家も貧乏な家も女の子供には必死になって芸事を身に着けさせた。
まあ何れにせよ武家奉公をするために娘達を母親はひたすら練習させて面接を受けさせたわけさ。
とは言え、大奥や武家屋敷に女中として召し抱えられる為の条件の1番は「縁故」だったりするんだがな、まあ、桜だって大名の馴染みは持ってるし、三河屋自体が幕府や親藩の殿様連中がよく来る店なんでそういった縁故目当ての女たちも多いのかもしれん。
この当時存在した人生ゲームのような”娘出世双六”でも最初はひたすらひたすら芸事を習い、やがて武家屋敷に奉公して、最後は結婚で上がりなんだが女はむしろ、男と違って玉の輿が狙えるという考え方もあったわけさ。
「まあ、その分ちょっとたかいがな」
この時代手習いの師匠は善意で行うものときっかり営業で行う場合があった。
善意なのは主に金に余裕のあるお寺の住職や村の篤志家、土地在住の儒学者や浪人など。
こんな場合は村人が持ち回り当番で食事や生活の世話をしたりしていたので、穀物や野菜など付け届けの贈り物として送るだけの場合もある。
武士などは教養を金で売るなどというのは卑しき考えであるとしていたからあくまでも金のために教えるのではないとしていた。
そうでない場合でも基本的には払える額で良いというのがこの時代における手習い所の基本で授業料ははっきり決まっていない。
しかし入門のときには束脩という入門のための手付金が必要で、裕福であれば金一分(おおよそ25000円)、それなりであれば金一朱(おおよそ6250円)、金がなければ200文(おおよそ5000円)。
それとは別に授業料は年に5回納めその1回分は親の財力により金1分(おおよそ25000円)、金2朱(12500円)、金1朱(6250円)、銭200文(5000円)という感じだった。
そのほかに、冬には手を温めるための炭代として銭200文(5000円)を10月に支払ったり、盆暮には居中元や御歳暮として冬は餅、夏ならそうめんなどの品物を贈るのが慣例だ。
さらに勉強で使用する紙や墨、筆などの消耗品も自腹。
まあ、これは俺のところでは黒板と白墨をかすがな。
で、だが俺のところでは基本的には金で払えるものにかぎった。
そうでないとわざわざ住み込みで習ってる連中がかわいそうだし、安い金額の生徒も取るとなると授業だけでは食っていけないからな。
この時代の手習いなり芸事の師匠はだいたい兼業なのでなんとかなるんだが、できれば専業でやれるようにしたいものだ。
そして犬猫屋敷だが、生類憐れみの令で江戸市内での犬猫などを斬り殺して鍋にして食べることを禁止したため、野犬や野良猫は増えていた。
早速それらを捕まえて、オスメスはしっかり分けて飼育する。
そして徐々に躾を行い、躾がちゃんと出来てるオスはなるべく去勢しないが、躾が難しいものは去勢し、人を襲う習慣がついているものは殺して、三味線の皮の材料や鷹狩り用の鷹の餌にした。
「まあ、これで無駄に殺されて食われる犬猫なんかが減ってくれるといいな」
そして、その嗅覚を活かした銃器探知犬や麻薬探知犬。
地震などの時の災害救助犬や犯人追跡が行える警察犬。
身体的に障害がある人間を補助できる盲導犬、聴導犬、介助犬などに育て上げ犬が人間の生活の役に建つということを知らしめたいものだ。
まあ、猫もねずみ取りに役に立つしな。




