ある長屋の女たちの一日・浅草吉原は今日も大賑わい
浅草はもともと寺社の門前町で辻芸人が芸をしたり、講釈師が辻講釈をしたり、寺や神社の境内で宮芝居が行われたりする雑然とした活気のある場所であった。
しかしここ最近は特に活気づいている、そしてその理由は新吉原の変化によるものだ。
浅草に移転した後の吉原は内からも外からも出入りについて女はかなり厳しく制限されていたが吉原惣名主が代替わりしてから外からの出入りはかなり自由になったし、一部の見世の遊女は結構自由に外に出ていたりもする。
そんな感じなので井戸端で服や野菜を洗っている町人の女などが井戸端会議で話し合った後、連れ立って吉原へ行こうとすることも増えてきた。
「ねえねえ、明日は吉原に歌劇を見に行かないかい?」
「ああ、それはいいねえ、みんなで行こうじゃないか」
「そりゃあいいね、たまには羽根を伸ばさないと」
江戸の町において町人の住む町人地は江戸城の東の日本橋のあたりを中心として北は秋葉原から南は新橋ぐらいまでの狭い地域だが、浅草吉原までいくとなるとやはりそれなりに移動に時間がかかり、しかも町人は駕籠や馬は基本使えないので徒歩か船での移動となる。
そうすると片道で一刻(約二時間)はかかるから浅草や吉原に芝居を見に行くのも一日がかりの楽しみであった。
芝居といえば寛永元年(1624年)に猿若勘三郎(初代中村勘三郎)が創設した猿若座の野郎歌舞伎ももちろんある。
猿若座は慶安4年(1651年)には堺町(現在の日本橋人形町)へ移転したばかりで、日本橋は町人街のど真ん中でも在る、元吉原は元々そこにあったが、明暦の大火で浅草に去年移転したばかりだ。
堺町にはその他人形浄瑠璃、説経芝居、講談芝居、見世物小屋、曲芸、水芸、手妻などを安い料金で楽しめる小屋もたくさん建ち並んでいた。
しかし、歌舞伎見物は、朝から日暮れまでに一日がかりしかも高い。
桟敷と呼ばれる席では2両(おおよそ20万円)ほどした。
土間の最前列で金一分一朱(おおよそ3万7千円)、後ろの方で1朱(おおよそ1万2千5百円)と決して安くなかった。
ちなみにその他の見世物は一芸辺り24文ぐらいが相場。
そして吉原歌劇は”女芝居”が唯一江戸で公認されている場所であり、最近できた万国食堂は珍しく安くて美味しいものを食べられると評判なのだ。
つまり、江戸唯一の女歌劇に加えて珍しくて美味いものを食えるというのが最近江戸の女をひきつけているのだ。
「それに子供の面倒も見てもらえるしね」
「これは本当にありがたいよ」
この時代だと6歳にもなれば朝から夕方まで手習い所で女は読み書き算盤の教養に加え歌、踊り、三味線、琴などの芸事を、男は読み書き算盤に日本の地理、国名、人名、書簡の作成法などを必死に習った上で武芸の腕も磨いた。
と言うか多くは母親が必死になって子供に習わせた、父親はそこまでやらせること無いんじゃないかなどとのんきだったりもするのだが。
これは子供の将来の稼ぎに直結する武家奉公に必要なことだからであって教育熱心な母親のもとに生まれた子供はそれこそ朝一番から日が沈むまで勉強漬けだった。
しかし、武家への奉公が叶えば将来はかなり安泰だった。
武家奉公の経歴があれば結婚にも相当有利になった。
21世紀現代で言えば大卒のようなものだし、武家というのは21世紀現代でいえば公務員のようなものだからだ。
商家が傾くことはよくあるが武家が傾くことはそうそうない。
逆に言えば5歳以下の子供は女が自分たちで面倒を見なければならないということだ。
そして子育ては母親の役目である。
無論、長屋住まいであれば店子同士は育児も協力するのは当然であるが、こういうときには預かってもらうのは難しい場合もある。
だが子供を預かってもらえるとあらば、その分気楽に出かけることが出来るというものでも在る。
「おっかあ、楽しみだね」
「ああ、楽しみだね」
そして江戸の治安は女子供だけで歩いても大丈夫な程度には良くなっている。
明暦の大火により江戸の町に武士が減ったことも大きいし、旗本奴が壊滅し生類憐れみの令が発布されて、むやみに動物を斬り殺せば罪となるようになったのも在る。
さて、浅草に来ればまずは浅草寺へのお参りだ。
とりあえず皆は山門である雷門で合掌一礼したあと門をくぐり、手水で手を清め、口を濯ぎ、境内に入り常香炉にお香を供え、手を使って自分の体や顔などに煙をかける。
常香炉の煙を浴びると病魔が出ていき、体の悪い所がよくなると言われ、頭に煙をかけると、頭がよくなるので子どもの頭に煙をかけている者もいる。
そして本堂に参り礼拝祈願する。
「どうかうちの娘が武家奉公が叶いますように」
「今年一年無病息災でありますように」
「どうか今年は火事がありませんように」
願うことは様々だが皆真剣に祈っているのは変わらない。
浅草寺での祈願が終わったら、裏道を抜けて吉原へ向かう。
番所で女切手を皆受け取ると帯に挟んで劇場へ向かう。
みな劇に興味がなさそうな子供は子供預かり所に預けた。
入り口でカネを払い劇場に入り暫し待つ。
本日の演目は木曽義仲の息子、清水義高と源頼朝の娘、大姫の話だ。
”昔々、平安の時代の終わり頃、木曽の義仲と鎌倉の頼朝は共に平家を倒すために立ち上がった源氏の頭領でありました。
そして義仲の息子義高は人質として鎌倉へ送られたのです。
それを迎え入れたのは頼朝の娘大姫。
そして義高と大姫は互いに一目惚れしてしまったのです。
しかし、互いは敵対する家同士、その恋はしてはならぬ相手にしてしまったものなのでした。
ある日の宴会の後、大姫は一人席を外して家の裏手でひとりごちたのです”
「ああ、義高様、あなたはなぜ木曽の家に生まれたのですか?
もし私を想うなら、あなたのお父さまをすてて、木曽の名前も捨ててくださいな。
もしそうなさらないなら、私への愛を誓って欲しいですわ。
そうすれば、私は鎌倉の家の人でなくなりましょう」
”それをたまたま聞いていた義高は自分の感情を抑えることができなかった”
「ああ、大姫、もしあなたが、木曽という名前が気に入らないのなら、もうぼくは木曽の名を捨ててしまおう」
”義高はそう答えたのです。
二人は朝方まで愛をささやきあいそして別れました。
義高は僧に相談をします。
そして僧は両家の仲が悪いことを悲しんでおり二人が結婚すれば両家が仲良くなるかもしれないと考えました
そして家を抜け出してきた大姫と義高は結婚の誓いをしたのです。
しかし、大姫の父頼朝は大姫の義高との結婚を認めず他のものと結婚させようとしました。
大姫は僧侶に相談をしました。
僧侶は大姫に飲むと1日後に体が冷たくなり、死んだように見え、2日後には目が覚める
薬を渡しました”
「これを飲めばよいのですね」
”大姫は家に帰ると躊躇することなく、それをのみました。
そして大姫は翌朝冷たい躯となって発見されたのです。
一方の義高には僧がよこした使いのものが大姫の葬式は偽装したもので、その死は演出された物にすぎず愛する大姫は助けを待っているのだと知らせていた”
「なんとそのような薬があったとは」
”義高が夜中に墓を掘り起こし棺を開けると愛しい人がその中に横たわっていた。
義高が接吻をすると大姫は目を覚ました”
「おお、愛しき姫よ。
もはや来後に我らの居場所はありませんここよりさりひっそりと暮らしましょう」
「はい、貴方様にどこまでもついて行きますわ」
”こうして二人は鎌倉をさりました。
そして互いに木曽と鎌倉という家を捨てほそぼそとしかし幸せに暮らしたのです”
「うう、二人が幸せで良かったねえ」
「ほんとにねえ」
劇を見ていた女は皆、涙を流して感激していた。
この時代では家で決めた結婚話に従って結婚するのが普通であれば、劇のような話はなかなかできないのだ。
女たちは劇場を出ると子供預かり所に向った。
そちらでも紙芝居が終わったところのようだ。
「お前たちいい子にしてたかい?」
「だいじょうぶだよおっかあ」
皆が揃えば万国食堂で昼飯だ。
「随分いろいろあるね」
「どれがいいかね?」
よくわからぬということで本日のおすすめを頼む一行。
「お待たせしました」
皿に山盛りで運ばれてきた五目あんかけを各自飯にかけて食べる。
「うーん、うまいねぇ」
「ここの飯を食うと江戸患いも治るらしいしねぇ」
皆でもりもり食べて勘定を払い見世を後にする。
その後は美人楼の蒸し風呂にたっぷり入り、皆で髪を手入れしてもらう。
「髪艶が断然違うねぇ」
「なんや肌もすべすべになったようなきがするねぇ」
こうして劇を楽しみ美味いものをくい、髪や肌の手入れを出来る場所ということで、町民や武家の女にも吉原は親しい場所となりつつあったのだ。




