大小神祇組に対しての水戸の若様の怒りと町奴の助力
さて、俺が佐々木累を雇った翌日だが、奴ら大小神祇組の嫌がらせはまだ続いた。
「ひゃっはー、犬ころがー逃げろ逃げろー」
奴らが複数の野犬を追い回して来たかと思うと、俺の店の前でその野犬を斬り殺し、そのまま立ち去っていったのだ。
「あーはっはっは」
それに気がついた佐々木累がやつらを追いかけようとする。
「貴様ら!」
しかし俺はそれを止めた。
「いや、追いかけないほうがいい。
待ち伏せの可能性もあるかもしれないしあんたを店から引き離そうとしてるのかもしれない」
「む……そうだな」
そう言いながら佐々木累は歯噛みしている。
おそらく剣の腕で言えばボンボンの旗本奴の連中より佐々木累のほうが上だろう。
しかし、奴らの主な目的はうちの店に対する嫌がらせな気がする。
誰かから頼まれたのか、ただ単にあいつらの不満のはけ口として俺の店を狙ってるだけなのかはわからないがな。
俺はため息を吐きながら一匹ずつ斬り殺された犬の死体を運んで裏手に埋めた。
「そう恨めしい目で見ないでくれ。
俺だってお前さん達が斬り殺される状況が良いとは思ってないんだ」
そういっても現状では帯刀を許可された武家に対して、非人でしか無い俺が直接的にできることはないんだがな。
しかしそんなことをしている途中で、美人楼の予約していた奥女中から連絡を受けたのか、編笠をかぶった水戸の若様が付き人を従えてやってきた。
そして、斬り殺された犬の血溜まりなどを見た後、俺に静かに言った。
「これは水戸藩や私に対しての嫌がらせでもあると考えてよいのかね?」
こりゃ大分お怒りなようだな。
「そうですね……彼らは公方の尻持と称しているそうなので俺にはなんとも言えませんが」
ちなみに現代のキャバクラやガールズバー、風俗や芸能プロダクションなどのバックのヤクザをケツ持ちというのはこれが語源だぜ。
「ほう、彼らはそう言っているのかね」
「はあ、俺が直接聞いたわけではないんですがそういう噂ですな。
ですので幡随院長兵衛が彼らに殺されてもお咎めなしなんだとか」
「くっくっく、そうかそうか……のう三河屋、このような輩を相手するなら用心棒が必要であろう」
俺は頷いた。
「へえ、昨日連中と揉め事になったときに、間に入ってくれた侍に用心棒を頼んでますが
一人ではちょっと不安ですな。
あ、あちらがその用心棒です」
俺は佐々木累を水戸の若様に紹介する。
「私は下総国古河藩藩主土井利勝に仕えた佐々木武太夫の娘の累と申します、どうかお見知りおきを」
「うむ、なかなかに腕の立つおなごのようだが一人では心許なかろう」
俺は頷いた。
「そうですな、数を頼みに来られると辛いものがあるのは確かだと思います」
佐々木累も悔しげに言う
「あの程度の連中一対一であれば負けることはないと思いますが……」
水戸の若様が言った。
「うむ、ならば私の方からも何人か人をまわそう」
「そいつはありがたいです」
あいつらのような旗本奴という存在が出てきたのは時代の変化によるもので、要は平和な時代に対応できない連中なんだがそれも仕方ないところはある。
ある意味では平安時代から武士はずっと戦い続けてきたからだ。
無論、鎌倉幕府ができた後はそれなりに平和でも有ったんだが、承久の乱や元寇も有ったし、細々とした領地争いや水争い、家督争いはたえることがなかった。
鎌倉幕府が滅ぶと南北朝での争い、室町幕府内での内乱、応仁の乱から続く戦国の時代となって、天下統一に一番近かった織田信長が本能寺で死ぬと、織田家の家中は分裂しそこから飛び出た豊臣秀吉が死んだ後も関ヶ原の戦いが有った。
おそらく徳川家康の死が5年早ければ、大阪の豊臣家の滅亡もなく再び戦乱の時代に戻った可能性も高かったし、そうなれば真田、黒田、伊達、毛利、島津、上杉と云った大名などもどう動くかわからなかったろう。
そして紀伊藩主の徳川頼宣などは慶長19年(1614年)の大坂冬の陣に参加しているし、寛永14年(1628年)の島原・天草の乱では松平信綱や水野勝成は乱の鎮圧に参加していたし、水野勝成は徳川家光から松平信綱、戸田氏鉄と同格の相談役になることを命じられてもいた。
島原・天草の乱はキリシタンに対する弾圧のように云われているが、実際は小西行長・加藤忠広の改易により大量に発生していた浪人も乱に多数参加していた。
要するについ30年ほど前までは槍働きの機会もあったし現役の幕臣にもそれに参加したものも居たわけだ。
しかし、実際には豊臣秀吉の小田原征伐から奥羽仕置の完了による天下統一で東日本の武家の戦場働きの機会は関が原と大阪の陣以外は殆どなくなっていて、大阪の陣で豊臣家を滅ぼす元和偃武によって実質的に戦国時代は終了した。
このような平和な状況で旗本奴になるのは、若党、中間、小者といった武家の奉公人が多かった。
1610年頃に現れた初期の旗本奴の大鳥逸平とその仲間たちは正統な武士身分ではなく、武家に雇われて、槍持ち、草履取りなどの雑用をこなす足軽身分の者たちで、もともとその生活は貧しく不安定だったが、彼らの多くは合戦の際に足軽として戦場で働きつつ、機をみて略奪行為を行って暴力的な生活を謳歌していたが、関が原の戦いと大阪の陣が終了すると、江戸近辺では武士やその奉公人には出番が殆どなくなってしまった。
そうした時代の移り変わりに対応できず、反社会的で刹那的な生き方をしていたのが旗本奴なわけだが、明暦の大火で武家が困窮し商人が大儲けするようになると水野十郎左衛門やそれに加担した武蔵国高坂藩の藩主の加賀爪直澄のような連中が「公方の尻持」つまり「将軍の後ろ楯」であると自称して、同じ旗本・御家人階級の若者がこれに加入して勢力を増大させたわけだ。
「全く困ったもんだよなぁ」
この時代は血の穢れを嫌うから、犬を斬り殺してそのまま放置するという嫌がらせはかなり効果的だ。
実際今日の予約客は飛んじまった。
そんなことを考えていたら俺に声をかけるやつが居た。
「おい、おめえさん、旗本奴共の嫌がらせに困ってるようだな。
俺達が力を貸そうか?」
俺が声の方を見ると、そこに居たのは派手な身なりをしたガラの悪い連中。
「お、おう、そいつはありがたいが、お前さん達は何もんだ?」
そいつは任侠ものっぽい名乗りを上げた。
「知らざあ名乗ってございやしょう。
俺は唐犬組の頭目、唐犬権兵衛だ。
旗本奴の首領水野十郎左衛門は俺達の敵でもあるんよ」
「なるほど、そいつは助かるな」
こいつらは町奴と呼ばれる連中だな。
町奴の頭目の多くは口入れ屋で、口入屋は現代風に言うなら派遣会社みたいなものかね。
この頃は海の埋め立てや溜池の造成などの土木や建築、港湾の荷役、参勤交代の大名行列などの人員の臨時雇用など現代の日雇いでもありそうな人員斡旋があって、ガラの悪い連中も多かったからそういった連中をまとめ上げられるような腕っ節と器量も必要だった。
だから彼らは大勢の人員を抱えていて、武家や寺社が行う公共事業への人の派遣を行った。
口入れ屋は義理人情に厚く、約束を重んじ、節操を尊び、頼まれれば命を捨てても顧みざる気概をもつことを誇りとしたと云われている、まあ、町奴全員がそうだとも思わんが、町奴はのちの町火消の前身でもある。
そのほかに町家の用心棒、喧嘩の仲裁などの役割も果たしたが、浅草の遊里や芝居町を徘徊する無頼の一面も持っていた。
まあ彼らは旗本奴に対する町人たちが自衛のために生み出した存在ではあるんだが、無論高潔な存在でもない。
「無論もらうもんは貰うがな」
俺はその言葉に頷いた。
「ああ、そりゃタダ働きというわけにいかんだろう」
さらなる出費は痛いが、しかたねえな。
佐々木累に加えて水戸の若様のところの侍に町奴も協力してくれりゃ、なんとかなるかね。




