歌舞伎の弾左衛門の支配からの脱出はそう簡単じゃないかも
俺は猿若勘三郎と向かい合って座り、先ほどまで考えていたことを話していた。
「そういえば、勘三郎。江戸では昔、金剛大夫が勧進能を行った際に、伊達政宗と揉めたことがあったらしいな」
俺が少し記憶を探るように目を細めて話すと、勘三郎は興味深そうに眉を上げ、身を乗り出した。
「伊達政宗公と……ですか?」
「ああ。寛永七年のことだ。浅草で勧進能が行われたんだが、その出来に政宗公が満足されなかったらしい」
俺は当時の話を思い出しながら、指先で卓を軽く叩く。
「それで、政宗公が『何にてももう一番を所望する』とおっしゃったところ、金剛大夫が断ったそうだ」
「断った?」
勘三郎は驚いたように目を見開き、思わず聞き返した。
「ああ。勧進能ってのは、最後に祝言能を残して、それまでに囃子方やワキ、狂言などは自分の役目を終えれば帰ってしまうことが多かったらしい。だから金剛大夫としては、もう一番やれと言われても、そもそも必要な人間が残っていなかったわけだ」
「なるほど……」
勘三郎は顎に手を当て、舞台を思い浮かべるように考え込んだ。
「だが、政宗公にしてみれば、それは事情とは別の話だったのだろうな」
「ああ。かなり腹を立てたらしい」
俺が苦笑しながら肩をすくめると、勘三郎も苦い顔を浮かべた。
「それで、どうなったので?」
「足軽に金剛大夫たちを殺せと命じたそうだ」
「殺す……ですか」
勘三郎の顔から笑みが消えた。驚きと困惑が入り混じった表情のまま、俺をじっと見つめている。
「しかも、その場を警護していた目付の花房勘右衛門も、政宗公の怒りはもっともだとして、同心に金剛大夫たちを捕らえて連れ出せと命じたらしい」
俺が淡々と続けると、勘三郎は小さく息を吐き、膝の上で両手を組んだ。
「それは……恐ろしい話ですね」
「結局、金剛大夫が折れて、帰った役者たちを呼び戻して、もう一番を演じたらしいけどな」
俺はそう言ってから、少しだけ遠くを見るように視線を外した。
「こういう話を知ると、昔から能役者ってのは、かなり強い後ろ盾を持っていたんだと思う」
「……それは、私たちにも無関係な話ではありませんね」
勘三郎がこちらへ視線を戻し、少し真剣な顔で答える。
「ああ。猿楽は昔から将軍や大名に贔屓されてきた。だからこそ、一部の役者が自分たちは特別な存在だと思ってしまうこともあったんだろう」
俺がそう言うと、勘三郎は困ったように眉を下げ、それから自嘲するように小さく笑った。
「耳の痛い話ですな。私どもも、贔屓してくださる方がいるからこそ、舞台を続けていられるわけですから」
「まあ、そこはお前たちだけを責めるつもりはない。権力者に目を掛けてもらえば、自分が強くなったように錯覚する人間なんて、どこにでもいるからな」
俺が苦笑すると、勘三郎も肩の力を抜いた。
「ですが、だからこそ気をつけねばならぬ、ということですね」
「そういうことだ」
俺は頷きながら、話を本題へと戻す。
「吉原の中で芝居をやる分には、俺たちの手の届く範囲だ。だが、浅草や品川まで芝居を広げるとなると話が変わってくる」
俺が少し声を落とすと、勘三郎の表情もすぐに引き締まった。
「弾左衛門、ですか」
「ああ」
短く答えた俺は、腕を組んで勘三郎を見つめた。
「これまで吉原の中では、ある程度こちらのやり方で進めてこられた。だが、場所が変われば、あちらが自分たちの権限だと考えている部分に触れる可能性がある」
勘三郎は黙ったまま考え込み、やがて指先で膝を軽く叩いた。
「そうなれば、芝居そのものよりも、誰がどこまで口を出せるのかという話になりそうですな」
「俺もそう思う」
俺は頷き、少しだけ前へ身を乗り出す。
「だから、真正面から弾左衛門と喧嘩するつもりはない」
「……では、どうなさるおつもりで?」
勘三郎が首を傾げながら尋ねる。
「喧嘩するんじゃなくて、線引きをする」
「線引き……?」
「ああ。弾左衛門の権限が及ぶ部分まで、すべて取り上げようとする必要はない。向こうの権限についてはこちらも認める。その代わり、芝居の内容や役者の扱い、客の受け入れ方、興行そのものについては、こちらの判断でやらせてもらう」
俺が手を軽く広げながら説明すると、勘三郎は目を細め、言葉の意味を噛み締めるようにゆっくり頷いた。
「つまり、相手の顔を潰さずに、こちらが守るべきところだけは守る、と」
「そういうことだ」
俺は口元に薄く笑みを浮かべた。
「弾左衛門の権限を全部否定すれば、向こうも意地になる。だが、最初から『ここまではそちらの領分です。しかし、ここから先は芝居をする側の領分です』と話をつけておけば、少なくとも争う理由は減る」
勘三郎はしばらく黙り込んでいたが、やがて納得したように頷いた。
「それなら、私どもとしても動きやすうございます」
「だろ?」
俺が少し笑って問いかけると、勘三郎も柔らかな笑みを返した。
「ええ。ただ、そう簡単に話がつく相手かどうかは、また別の問題ですが」
「そこは俺も分かってる」
俺は苦笑しながら頭を掻いた。
「だからこそ、先に考えておくんだ。何か起きてから慌てて対応するより、最初から境目を決めておいた方がいい」
勘三郎はその言葉に静かに頷き、今度は迷いのない目で俺を見た。
「では、私も考えておきましょう。芝居を続けるために、どこまで譲れて、どこからは譲れぬのか」
「ああ。それを一緒に決めよう」
俺がそう言うと、勘三郎も力強く頷いた。
芝居を広げるというのは、舞台を増やせば済む話ではない。
誰が何を決めるのか。
誰がどこまで口を出せるのか。
そして、相手の立場を潰さずに、こちらの自由をどう守るのか。
これから先、吉原の外へ出ていくためには、そういう面倒な話まで考えなければならないらしい。




