猿若座が吉原音楽堂を使っての公演を始めたぜ
さて、合同避難訓練を行ったこともあって、同じ町の子供達は、晴れた日は外で鬼ごっこなどをして一緒に遊ぶことが多くなった。
そして雨の日などは、家の中でおままごとや人形遊びをしたりしている。
おままごとや人形遊びというのは一種のロールプレイングゲームのようなもので、実際に大人が客人を迎えるときの挨拶や食事の振る舞い方を真似して、それを覚えていくのだな。
そんな子供達の様子を眺めているうちに、町の中で少しずつ人と人とのつながりが増えていることを実感していた。
そして、そんな日々が続く中で、猿若座が吉原音楽堂を使っての公演を始めた。
評判はなかなか良いらしい。
ただ、ここまで来るのには少々時間がかかった。
この時代の芝居小屋と吉原音楽堂では造りも使い方もまるで違うし、猿若座の側にも、新しい舞台に合わせた準備や稽古が必要だったからだ。
それにもう一つ、俺が弾左衛門と芝居の興行について、ちょっと揉めたことも大きい。
「おい、吉原の惣名主さんよ。あんまり勝手されちゃあ困るぜ」
弾左衛門は眉間に皺を寄せ、腕を組んだまま俺を睨んでいた。
「そう言われてもなぁ。吉原の中で芝居をやらせるくらいいいんじゃねえのか?」
俺が肩をすくめて返すと、弾左衛門は呆れたように鼻を鳴らした。
「そういうわけにゃいかねえのよ、これがな」
「何がそんなに問題なんだ?」
俺が首を傾げると、弾左衛門は組んでいた腕を解き、指を一本立てる。
「猿楽だよ。そこを忘れてもらっちゃ困る」
「猿楽?」
「ああ。座頭、舞々、猿楽、陰陽師、壁塗、土鍋師、鋳物師、猿曳、放下師、それに傀儡師や獅子舞……昔から俺の家が面倒を見ることになっている連中がいる。猿楽の座だって、その中の一つだ」
弾左衛門はそこまで言うと、今度は俺の顔をまっすぐ見据えた。
「その猿楽の者を、俺に何の断りもなく吉原へ入れて芝居をさせるんじゃあ、こっちの立つ瀬がねえ」
「なるほどな」
俺は腕を組み、少し考える。
弾左衛門が言っているのは、単純に吉原で芝居をすることが気に入らないという話ではないらしい。
誰が芸能者を差配し、誰に興行の話を通すのか。
つまり、興行に絡む権利や縄張りの問題というわけだ。
「だが、少なくとも吉原の中のことに関しては、おまえさんに口出しする権利はないはずなんだがな」
そう言うと、弾左衛門は片方の眉を上げ、少し苦い顔をした。
「だが、猿楽の座は俺の管理するところだ」
「そこなんだよなぁ……」
俺は頭を掻いた。
「おまえさんの言う由緒ってのは、源頼朝公から許された二十八座ってやつだろ?」
「ほう」
弾左衛門が目を細める。
「そこまで知ってるのか」
「まあな」
俺が頷くと、弾左衛門は少し警戒したような表情を浮かべた。
「二十八座っていうなら、座頭、舞々、猿楽、陰陽師、壁塗、土鍋師、鋳物師、辻目暗、非人、猿曳、弦差、石切、土器師、放下師、笠縫、渡守、山守、青屋、坪立、筆結、墨師、関守、獅子舞、蓑作り、傀儡師……それから傾城屋、鉢扣、鐘打、だったな」
「随分とすらすら出てくるじゃねえか」
弾左衛門が思わず苦笑する。
「俺だって調べるくらいはするさ。俺自身にも関係するからな。それに、こういう権利を守るなら、根拠をちゃんと示せるように理論武装しておくのは大事だろ」
俺がそう言うと、弾左衛門は呆れたように目を細めた。
「理論武装ねえ……」
「まあ、要するに、相手に『俺には権利がある』と言われたときに、『こっちにも権利がある』だけで済ませちゃ駄目ってことだ。どこに根拠があるのか、今の制度ではどうなっているのか、そこまで押さえておかないとな」
俺は肩をすくめた。
「そうじゃなきゃ、声の大きいほうが勝つだけだからな」
弾左衛門はしばらく俺を見ていたが、やがて小さく息を吐いて苦笑した。
「……なるほどな。お前さんが何でそこまで調べてやがるのか、少し分かったぜ」
俺も笑ったが、そこで少し表情を引き締めた。
「ただな、俺が気になってるのは、その由緒そのものなんだ」
「由緒そのもの?」
「ああ。『源頼朝公から許された二十八座』って話、本当に頼朝公の時代からずっと今と同じ形で続いてきたのか?」
俺の言葉を聞いた弾左衛門は、さすがに笑みを消した。
「……何が言いたい?」
「いや、別におまえさんの家の由緒を馬鹿にしてるわけじゃない」
俺は両手を軽く上げてみせる。
「ただ、戦国の頃まで関東で大きな力を持っていたのは、小田原近在の山王原の太郎左衛門のほうだったはずだろ?」
弾左衛門はしばらく黙って俺を見ていた。
「鎌倉の由比ヶ浜あたりで力を持っていたおまえさんの家が、その頃から関東一円を全部押さえていたわけじゃない。後北条氏の世には、小田原太郎左衛門が後北条氏から受けた証文を根拠に、関東の者たちを支配する権利を主張していたはずだ」
「……続けろ」
弾左衛門が低い声で促す。
「後北条氏が滅びた天正十八年、1590年になって家康公が関東へ入った。そのとき太郎左衛門は、これまで通りの権利を認めてくれって証文を出した。だが家康公はその証文を取り上げて、代わりにおまえさんの家に権利を与えた。そういう筋書きだろ?」
「……」
「だったらさ」
俺は苦笑しながら肩をすくめた。
「『鎌倉の頃からずっと関東一円を支配してきた』という話とは、少し辻褄が合わないんじゃねえか?」
弾左衛門は腕を組み直し、しばらく考え込んだ。
「お前さんは、俺の家の由緒にケチをつけてえのか?」
「そうじゃないって」
俺は困ったように笑った。
「むしろ、おまえさんの家が今どういう扱いを受けているかは分かってる。だからこそ、過去の由緒と今の権利は分けて考えたほうがいいんじゃないかと思ってるだけだ」
弾左衛門は少しだけ目を伏せ、それから小さく息を吐いた。
「……まあ、昔から何もかも今と同じだったとは、俺も言わねえよ」
「だろ?」
俺が笑うと、弾左衛門も渋い顔ながら口元を緩めた。
「だが、今の幕府が俺の家を長吏頭として扱っている。それも事実だ」
「ああ。そこは否定しない」
俺は頷いた。
「だから、おまえさんのところの権利まで全部無視するつもりはない。ただ、だからといって吉原の中で芝居をすることまで、いちいちおまえさんの許しが必要なのかって話だ」
「だが、猿楽の座は俺の管轄だ」
「そこも分かってるって」
俺は苦笑しながら手を振った。
「それに、ちょっと聞きたいんだが……陰陽師ってのはどうなんだ?」
「陰陽師?」
弾左衛門が怪訝そうに眉を上げる。
「二十八座の中には陰陽師も入ってるよな。だったら陰陽師も、おまえさんの支配するところってことになるのか?」
「いや、そこは話が違う」
弾左衛門は首を横に振った。
「陰陽師のことまで俺がどうこうできるわけじゃねえ。あれは京の土御門殿のほうが筋だ」
「ほら、やっぱりそうだろ?」
俺は思わず身を乗り出した。
「土御門家といえば安倍晴明の子孫で、陰陽道を預かる家だ。そんな相手を差し置いて、おまえさんが二十八座に名前があるからって、陰陽師まで『俺のところだ』とは言えないよな?」
「だから、そう言ってるじゃねえか」
弾左衛門は苦笑しながら肩をすくめた。
「……なるほどな」
俺は腕を組んで頷いた。
「じゃあ、二十八座ってのは、『そこに名前がある者は全部、おまえさんが自由に差配できる』っていう話じゃないわけだ」
「そういう単純な話じゃねえよ」
弾左衛門が少しむっとした顔で答える。
「俺の家が関わる職分には、それぞれに昔からの由緒や決まりがある。全部が全部、同じように扱えるわけじゃねえ」
「だったら話は早い」
俺はにやりと笑った。
「猿楽についても、どこまでが本当におまえさんの権限なのか、そこをはっきりさせればいい。少なくとも、二十八座に名前があるってだけで吉原の芝居まで全部止められる、って話にはならねえだろ?」
「お前さん、屁理屈をこねてるようで、妙に筋が通ってやがるな」
弾左衛門は苦笑しながら頭を掻いた。
「それに二十八座の中に傾城屋も入ってるだろ?」
「それがどうした?」
弾左衛門が怪訝そうに眉を寄せる。
「傾城屋、つまり遊郭については、もう話が別になってるだろ。公許遊郭として吉原が認められて、そこは俺たちが扱っている。今の吉原の中の遊女や傾城屋について、おまえさんのところに何かを差配してもらってるわけじゃねえ」
俺がそう言うと、弾左衛門は一瞬言葉に詰まり、それから渋い顔で鼻を鳴らした。
「……確かに、それについてはそうだな」
「だろ?」
俺は少し笑いながら、弾左衛門の目を見る。
「だったら、二十八座に名前があるからって、それだけで今の吉原で全部のことに口を出せるってわけじゃないはずだ。すでにおまえさんの権限とは切り離されて、こっちで扱ってるものだってあるんだからな」
「だが、猿楽の座は俺の管轄だ」
「そこは認めるって」
俺は頷いた。
「ただな、猿若座そのものまで、おまえさんの配下って話じゃねえだろ?」
弾左衛門は少し黙ってから、ゆっくりと頷いた。
「……まあ、猿若座そのものを俺が勝手に差配できるわけじゃねえな」
「だろ?」
俺は身を乗り出して続ける。
「猿若座は幕府から興行を許されている座なんだから、おまえさんが『猿楽の者だから俺のところだ』と言って、座そのものを勝手に動かせる話でもないはずだ」
「……そういうことになるな」
「だったら、猿若座が吉原で芝居をすることについて、おまえさんが口を出せる根拠がどこまであるのか、そこは分けて考えなきゃならねえ」
弾左衛門は腕を組んだまま、黙って俺の顔を見つめている。
「だからこそ、猿楽のことも一度きちんと整理しようじゃねえか。おまえさんの権利があるなら、その範囲をはっきりさせる。吉原で芝居をすることまで止められるのか、それとも猿若座そのものには及ばず、興行に関する一部だけおまえさんの権限が及ぶのか。それを決めればいい」
「……なるほどな」
弾左衛門は腕を組み直し、しばらく考えたあと、小さく頷いた。
「俺とお前さんだけで言い争っていても、いつまでも終わらねえってことか」
「そういうことだ」
結局のところ、俺と弾左衛門だけで話していても埒が明かなかった。
そこで俺たちは、幕府の勘定頭に判断を仰ぐことにした。
その結果、吉原音楽堂で猿若座が芝居を興行することについては問題なしという裁定が下り、ようやく公演を続けられることになった。
「やれやれ、勘定頭様が認めてくれて良かったぜ」
俺が胸を撫で下ろすと、弾左衛門も苦笑しながら肩をすくめた。
「ああ。これで、お前さんが勝手に始めた芝居だと、後から揉めずに済むわけだ」
「そういうことだ」
俺が笑うと、弾左衛門は少しだけ表情を和らげた。
「まあ、客が入ってるのを見るとな。止めろとも言いづれえ」
こうして、ようやく猿若座による吉原音楽堂での興行が始まった。
猿若座の興行には水戸の若様なども顔を見せていた。
武士だけではなく、町人たちも普通に音楽堂へやってきて、芝居を楽しんでいる。
やっぱり、娯楽というのは大事だと思う。
身分も立場も違う人間が同じ舞台を見て、一緒になって笑ったり、驚いたりする。
そういう場所が町の中に増えていくことも、吉原をただ遊女に会いに来る場所ではなく、人が遊びに来る町へ変えていくためには必要なんだろうな。
ちなみに俺には、この後の歴史もある程度分かっている。
後世の史料では、弾左衛門の家の由緒がさらに詳しく書き残され、その中には源頼朝から授けられたという証文も出てくる。
だが、それらはこの時代から百年以上も後に整理されたものだ。
今ここで俺がそれを持ち出しても、弾左衛門本人からすれば知ったことじゃないだろう。
だから俺は、そのことを口には出さなかった。




