正月のカピタン江戸参府に一枚噛ませてもらおうか
さて、江戸時代の日本には基本的に外国人は上陸できなかったと思われているが、実はオランダの商館長などは一年に一度、将軍へ挨拶をするために江戸参府を行っていたりする。
カピタンというのは英語のキャプテンのことで、軍隊だと大佐だったりするが要するに小さな組織の長を表すわけだ。
基本的にこの時代の東洋の貿易というのは朝貢という形態をとっていて、出島が長崎にあったときは北風が吹きはじめて、交易商船が南方へ戻り出島の商売が暇になった後、江戸へ歩いてきて、将軍に対する謁見の挨拶と献上物の呈上を行って、江戸幕府側はそれに対して継続した貿易の許可をすると共に「被下物」の授与をもって返礼としたが、基本的には献上された品よりも被下物のほうが高価なものであったりする。
朝貢貿易というのは貢物を献上する側がされる側に従う代わりに、献上品よりも価値のあるものを与えられることで、軍事的な行動を起こさせないのが目的なので、おそらく西洋の人間から見ればとても奇妙なものだと思うだろう。
だが、中華帝国では北方の遊牧民族などに物品を与えれば掠奪をやめるので、それにより多大な軍事費がかからなくなるという合理的な理由があったりもする。
もっとも、中華帝国では往々にして交易所の交換レートが異民族側に不利になりすぎて、それの解消のために遊牧民が武力蜂起したりするので、中央と地方で思惑が噛み合わないちぐはぐな状態だったりはするのであるが。
日本の貿易形態も日本側がオランダ、その他には朝鮮・琉球に朝貢を許すという形態をとっているのは、幕府の権威を高めるためだが、それには当然多額のカネがかかる。
なので寛永10年(1633年)~寛政元年(1789年) までは毎年1回だったものが、寛政2年(1790年)~嘉永3年(1850年)は4年に1回と改定され嘉永3年以降は廃止されていたりする。
もっともこれはナポレオン戦争によるオランダ本国のフランスへの併合とイギリスのフェートン号事件などが絡んでくるんだけど。
当初はオランダのみが通商を許されていることに対するお礼やインド等の珍しい品を献上するという名目もあったが、ポルトガルやスペインなどの侵略的ヨーロッパ諸国の動向や、キリスト教宣教師の潜入を防ぐための情報の入手が本来の主目的で、その他イングランド、フランスなどの欧州諸外国の情報もオランダから江戸幕府が独占して入手するという意味合いがあったので、幕末こそ重要だったはずなんだけどな。
オランダ側も貿易継続のため、積極的に情報入手と提供に応じ、その内容は幕閣首脳や長崎奉行など少数の独占だったが、結局は関係者から流出して幕末にはかなり情報が流布していたらしい。
そして、実際に長崎から江戸へのルートだが、長崎から小倉までは安全のために陸路、そこから大坂まで瀬戸内海は海路でそこからはまた陸路になり、一旦京都へ向かい京都からは東海道をてくてく歩いて江戸まで歩き、江戸では薬種問屋でもある長崎屋源右衛門の定宿に逗留した。
長崎から江戸までが30日、江戸の滞在が30日、江戸から長崎へ戻るのが30日ほどで合わせて3ヶ月ほどの期間に及ぶのが通例。
江戸滞在時には建前上は幕府は滞在中のオランダ商館員たちに対し、外部の人間との面会を原則として禁じていたが、実際としては意外に日本人が訪れることが許されていて、平賀源内、前野良沢、杉田玄白、中川淳庵、最上徳内、高橋景保など有名な人物が訪れていたりもする。
むしろオランダ人の商館員たちはあまりの来訪者の多さに悩まされもしたが、基本的に外出がほとんど許されなかった彼らにとっては、江戸の外部の人間と接触できる貴重な場の1つでもあった。
オランダ商館の一員としてこの商家に滞在し、積極的に日本の知識を吸収していった人物には、有名なケンペル、シュンベリー、シーボルトらがいる。
ちなみに出島には”傾城之外、女入事”とあったように、出島には遊女以外の女性の出入りは固く禁じられており、オランダ人が妻子を連れてくることも固く禁じられていた。
なのでオランダ人たちは江戸参府時も日本の役人の目を盗んで芸者を呼んで遊んでいたりする。
俺は寺社奉行所や町奉行所へ心付けを届けつつ、オランダ人の江戸参府時に女っ気がまったくないことによる、オランダ人の暴発による風紀の乱れを防ぐためにも、慣れない土地での生活の疲れをいやすためにも、吉原の遊女により歓待したり、万国食堂で食べてもらったり、花鳥茶屋でのんびりしていってもらったらどうかと奏上したのだ。
その結果として、その提案は受け入れられた。
オランダ人たちが江戸にやってくるのは年を越した来年の15日くらいのはずなので、それまでに色々と歓迎の準備をしておかなくてはな。




