弁当忘れても傘忘れるな
それはある六月、部活が終わった後の出来事。
「ああ、雨」
ぽつり、呟いたのは独り言。
いつの間にか降り出した雨は、いつの間にか勢いを強め、今は激しい雨が地面を叩く。
深くため息をついて、鞄の中から折り畳み傘を取り出した。
『弁当忘れても傘忘れるな』
それはお母さんの口癖。
お母さんの出身地でよく言われていた格言らしい。
こんな時に、しかもお母さんの出身地から遠く離れたこの場所で、この言葉が役に立つなんて思わなかったけれど。
「何、お前、それしか持ってねーの?」
後ろから聞こえた声に振り返れば、同級生の野球部員。
どうやら屋内での練習メニューが終わったらしく、彼以外の野球部員も数人、下駄箱の辺りにいるのが見えた。
「まさかここまでの天気になるとは思っていなくてね。大きい傘は忘れたよ」
「バッカだなぁ。天気予報ってものをちゃんと見ろよ」
「あれは外れることも多いもの」
「当たることもあるぞ」
数歩、私の方へ近づいてきた彼は、私の横で空を見上げて、わざとらしく肩をすくめた。
「しっかし、梅雨ってんなぁ」
「梅雨ってるって、何その斬新な動詞」
「梅雨りすぎてやべーなぁ。これ、そろそろグラウンドも海になるんじゃね?」
「なったら大事件だよ」
折り畳み傘を広げながらそんな話をしていたら、不意に。
「お前って、家までどのくらいかかる?」
「ん、歩いて三十分くらいじゃないかな」
いつもは自転車で十分もかからずに来るのだけど。
それがどうかしたかと思いながら彼の方を向くと、彼は私の方を向いて、私の手から折り畳み傘を奪った。
「え、ちょ、何」
「こんな小さい傘で三十分とか、無理だろ。びっしょぬれになるぜ?」
「そうは言っても仕方あるまい。それしかないんだから」
取り返そうと手を伸ばしたら、ひょいと折り畳み傘を遠ざけられる。
その代わりに。
「せめてこのくらいの大きさじゃねーと、三十分は厳しいって」
そう言いながら、彼は自分の傘を私に差し出した。
きょとんと彼の顔を見つめていたら、彼は照れ臭そうに視線を逸らしながら、押し付けるように傘を手渡してきた。
「いや、君の傘を借りるわけにはいかないよ。君がびしょ濡れになるよ」
「心配いらねーよ、俺の家までここから五分もかからねーから」
「いや、だからって」
「いいから!」
半ば強引に私に傘を押し付けた彼は、私の折り畳み傘を広げて、一歩、玄関から外へと歩き出した。
「あっ、ちょっと」
呼び止めようとしたけれど、彼はやや速足で歩き始めてしまった。
彼の背中と手元の傘を交互に見ていると、不意に彼が歩みを止めて、こちらを振り返る。
「……明日までなら、利息なしで貸してやる」
傘の利息って何。
そんなことも思ったけれど、私は無意識にこくこくと頷いていた。
つかつかと遠ざかっていく彼の後姿を見送って、手元の傘を広げる。
黒い、男の子っぽい、シンプルにもほどがある傘。
何故か、それを思うだけでも、顔が緩んで戻らなかった。
『弁当忘れても傘忘れるな』
お母さんの格言を思い出す。
うん、確かに。
明日は、お弁当を忘れたとしても、彼の傘だけは忘れずに持ってこなければ。