9話
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「この度はご協力ありがとうございました。後は大岩桐柘榴を自白させるだけです。苧環さんのおかげで、事件の早期解決を図ることができました」
帰り際のロビーで、釣鐘さんが敬礼をしながら苧環さんに礼を述べていた。もし本当に鼻が伸びるなら、天狗やピノキオのように高くしているであろう苧環さんは、満面を笑みを浮かべてその賛辞を受け取っていた。
僕はそこから少し離れた場所で、五十鈴さんと二人、話をしていた。
「五十鈴さん。今回は、本当にすみませんでした。なんてお詫びをすればいいか」
「いえ、東雲さんの所為じゃないですから、気にしないでください」
「でも……」
煮え切らない僕の言葉を、五十鈴さんが遮った。
「確かに事件の事で、この旅館もこれから色々大変ですけど、それでも頑張って働いていけばきっと大丈夫です。だから、本当に気にしないでください」
「そう言ってもらえるだけで、何だが気が楽になります」
「お客様に満足してお帰り頂くのが、仲居の努めですから」
言って、五十鈴さんは笑った。僕も、釣られるように微笑んだ。五十鈴さんの笑顔が、胸に刺さって痛かった。
「そういえば、苧環様の推理の前に聞いてきたことですけど、調べたら東雲さんの言う通りでした。どこでも予約が取れる状態で、部屋の指定や、どこに誰が宿泊するかという部屋割りをしたのは貴島さんです」
「……やっぱりそうですか」
五十鈴さんの答えを聞いて、僕は目を伏せた。そんな僕を見兼ねたのか、五十鈴さんが言った。
「もし良かったら、またこの旅館に来て、私に会いに来てください」
「……ええ、ぜひそうさせてもらいます。それじゃあ、色々とありがとうございました」
五十鈴さんに頭を下げ、僕は悲しい事件のあった旅館を後にして、送迎車へと乗り込んだ。
僕の二つ前の席に座った苧環さんは、これからの事を考えているのか、上機嫌に鼻歌を奏でていた。
――苧環さんは結局、事件の真相には到達出来なかったようだ。両腕に爪痕のような傷はあったが、貴島さんの爪の間からは、柘榴さんの皮膚片が発見されることはないだろう。そして柘榴さんは、証拠不十分で警察に起訴されることはないはずだ。
山道を下る送迎車に揺られながら、僕は今回の事件について思いを馳せた。
華里で起こった今回の殺人事件。苧環さんが披露した推理は、刑事である釣鐘さんにさえ受け入れられていた。けれど、それは真実ではない。
四葩さんを殺したのは、貴島さんである。それは間違いない。その時に使用したトリックも、苧環さんの推理したもので当たっている。だか、その後の貴島さんの殺人事件。あれはおそらく、まったくの見当外れだ。
だが、それも仕方ないのだろう。僕の推理が真実ならば、苧環さんは、貴島さんの事件の真犯人によって、そのように推理することを誘導されたのだから。それに気が付くことが出来なかった苧環さんは、まんまと真犯人の手の上で転がされたのだ。
そうすると、貴島さんの事件の犯人は誰なのか。
――あの事件の犯人は、何を隠そう貴島さん本人である。つまり、貴島さんの死は自殺だったのだ。
それは、今回の事件に幾つかの大きな疑問点を類推する事により想像できる。
今回の事件に置いての疑問点とは何か。それは次の七点――旅館での殺人という状況、密室トリックそのもの、貴島さんの事件そのもの、五人の部屋割り、僕というイレギュラーの存在、保険証、そして殺す順番である。
まず、どうして貴島さんは旅館などという場所を、殺人事件を起こす舞台に選んだのか。もし旅館内で人殺しが起これば、そこの従業員と宿泊客が無条件で容疑者になってしまうのである。顔見知りなどが居る場合は、特に容疑を掛けられることだろう。実際、僕たちがそうだった。だから警察に捕まりたくないのであれば、旅館なんて場所じゃなくて、そこらの道路で通り魔を装って殺すのが最善策なのだ。旅館での殺人なんて普通、突発的な殺し以外は起こり得ない。だが貴島さんは計画的に今回の事件を起こしたはずであり、四葩さんの殺人事件が突発的なものであったとは考えられない。
次に、四葩さんの犯行時に用いられた密室トリック。これも、それ自体が不可解である。
貴島さんが密室なんてものを作り出したのは何故か。しかも、あんなちゃちなトリックで。そもそも現実の殺人事件において、自殺か事故のように見える殺し方以外で密室を作るメリットなど何も無い。密室殺人という不可能犯罪的な状況というのは裏を返せば、その方法がバレてしまった時点ですぐに、それを実行可能な人物が犯人と断定されてしまうという事だからだ。あのトリックでは、苧環さんにヒントとなる小説もあったことから、そうなる危険性がとても高かった。それならば寧ろ、後ろから不意に刺し殺し、密室など作らずに全ての鍵を開け放ち、誰でも簡単に殺すことが出来たと、そのような状況のままにしておく方がずっと有益なのである。
容疑者が限りなく限定される孤島や旅館での殺人に、事件が起こった部屋は密室だったなどの推理小説的な状況というのは、あくまでも虚構だから成立するのである。そんなことを現実世界で行うのは、犯人にとっては不利益しか生みださない。
それに、五人の部屋割りもそうだ。華里では、四葩さんだけが三階で、他の全員が二階というように部屋を割り当てられていた。密室を作るのは不自然だというのは、先にも述べた通りだ。殺害後は指紋だけ拭き取り、誰でも殺人が出来たという状況のまま部屋は放置して、部屋の下に当たる地面に不自然な足跡を付けておけばいい。二階からなら十分に飛び降りが可能な高さなので、それだけで物取りや外部のように犯行を見せかけて捜査を攪乱できるはずだからだ。つまり、今回の貴島さんのように計画的に事件を犯す場合、その対象となる四葩さんは二階に宿泊させるように部屋を割り当てるのが自然だ。少なくとも僕があの旅館で計画的に殺人を犯すなら、きっとそうするはずである。だが実際では最初の被害者である四葩さんが、飛び降りてまで難しいという三階に部屋が配置されていた。勿論、予約状況や空き部屋などの問題で、こちらの意志ではどうにもならない偶然の可能性もある。だから僕は、先ほど五十鈴さんに確認したのだ。そうしたらやはり、まだどの部屋でも予約が取れるような段階で既に、宿泊する部屋の指名や誰がどこに泊まるかという部屋割りまで、全て貴島さんに因って指定されていた。つまり今回の部屋の割り当ては、計画殺人を行う上での貴島さんの意志が反映されて然るべきなのだ。では、どういった意図を持って今回のような部屋割りにしたのか。
次いで、貴島さんの事件。苧環さんは、殺したことに混乱してそれが不自然だと感じなかったと結論付けたが、本当にそうなのか。何も知らなかったならまだしも、柘榴さんは四葩さんの殺害の状況を知っている。鍵が籠の中にある事も承知していたはずだ。それなのに、そもそも密室という状況にすらならないあの手法に違和感を持たなかったのは、それこそ不自然である。また、貴島さんの殺され方。あれもよくよく考えると変だ。凶器にボールペンなんて使ったのは何故か。そして、どうして急所を刺していないのか。ボールペンというのは確かに力を籠めれば人の皮膚を突き破るのかもしれないが、それならば狙うのは眼球や首などの急所の方が良い。身体なんて、何度も突き刺さなければ致命傷を与えるのに時間が掛かる。現に、貴島さんの死体にはそれこそ幾つもの孔が穿たれていた。幾ら突発的殺人とはいえ、あまりにも非効率過ぎる。
それから、僕というイレギュラーな存在。貴島さんが今回の事件を起こした動機は、勿論復讐だ。ならば、もし旅館の中で三人とも殺して復讐を果たすつもりだったなら、僕は居ない方が良かった。苧環さんと同室であることは、殺人を犯す上で都合が悪いからだ。大体、取材という仕事の観点から考えて、僕という存在は本当に必要だったのか? 四葩さんに取材をして翌日までに簡単な概要を纏めるというのがただの口実なら、貴島さんと苧環さんの二人で十分だったはずだ。だが、僕はわざわざ前日に代役として呼ばれた。最初に同行する予定だった日野さんが無理になったから、代わりとして僕に殺人の罪を擦り付けるつもりだったのかもしれない。だがやはりこれも、苧環さんと同室である以上、アリバイが証明される確率が極端に高くなるので考え難い。今回の事件は、貴島さんによって計画されたものである。それならば、僕という存在にも何か重要な意味があったはずなのだ。
そして保険証。貴島さんは復讐のために『高城麻美』という存在を隠して、偽名を使って復讐対象に近づいていた。それなのに、保険証を肌身離さず持っているのはおかしい。殺人事件が起きれば警察が呼ばれるのは至極当然だ。今回はたまたま、財布の中身までは荷物検査の対象にならなかったが、一歩間違えば偽名が判明してしまう可能性が高いのである。そんな危険なものを、計画犯罪に手を染めようとしている貴島さんがどうして自宅に残してこなかったのか。
最後に、殺す順番。貴島さんが最も恨んでいたのは、自分を強姦した張本人である柘榴さんだったはずだ。殺人事件が重なれば重なるほど、警戒心は強くなる。三人を殺すとして、その三番目となれば、そう易々とは殺させてくれないだろう。となれば、限りなく無防備な状態である時に、最も恨んでいる相手を殺害するのが自然だ。つまり、もし殺人という手段で復讐を果たすつもりだった場合、順当に考えれば最初に殺すのは柘榴さんのはずである。けれど貴島さんが最初に殺したのは、何故か四葩さんだった。
少し思考を飛躍させつつ、これら七つの疑問点を総合的に考えると、貴島さんの思惑が見えてくる。
旅館での殺人も密室を作りだすことも、本来であればメリットなど何一つない。けれど貴島さんは、敢えてそれを行った。まるで、推理小説に出てくる殺人事件みたいに。ここで、ある一つの思惑が見える。そう――この事件は、推理小説の模倣だったのだ。模倣ならば、そこにはどんな意味があるのか。貴島さんおそらく、現実ではまず出くわすことがないであろう、推理小説に出てくるような殺人事件の現場を演出したかった。だからこそ、限りなく密室に近づけるために飛び降りさえ不可能な三階の部屋に四葩さんを宿泊させ、そこで密室殺人を行った。そうすることによって、ミステリーに嵌っている苧環さんに密室殺人というその状況に興味を持ってもらう。そして、それこそ名探偵のように事件の推理をして、誰よりも早く事件を解き明かしてもらいたかったのだ。
それでは、どうして苧環さんに名探偵になってもらいたかったのだろうか。ここで繰り返すが、今回の事件を起こした動機は、八年前の強姦事件の復讐。それを基に、僕は推理を飛躍させてみた。四葩さんを殺し、その推理を苧環さんにさせるように仕向けることによって貴島さんは、残りの復讐対象に、殺人以外の何らかの報復を試みたのではないか。『死』でさえ、復讐としては生温い。自分と同じように、相手のこれから先の人生を滅茶苦茶にすることで、自ら死んでしまいたいと、心の底から願うような状況に相手を追い込みたい。今朝の貴島さんが死んでいたあの事件も、そんな復讐計画の一端なのではないか。そう考えると、一気に思考が開けてきた。
四葩さんを最初に殺したのは、言わずもがな殺人による復讐。そして四葩さんを殺すことはそのまま直接、柘榴さんを貶めることに繋がる。親さえ辟易する金使いの荒い柘榴さんは、膨大な遺産を手にした所ですぐに使い果たしてしまうだろう。彼には、そこから自力で再起する能力はないはずだ。となれば、その後の人生が悲惨なのは火を見るよりも明らかである。つまり柘榴さんは直接その手に掛けなくとも、四葩さんさえ殺せば死よりも悲惨な復讐を果たせるということだ。だから、殺す順番は四葩さんが最初だった。
そして苧環さん。彼への復讐もまた、殺人では無かった。柘榴さんの逮捕が冤罪だと仮定する。その場合、苧環さんはどうなるか。名探偵だと思った人物は一転、もう少しで無実の人間を冤罪に陥れかけた戦犯に早変わりだ。これが世間に広まれば、苧環さんは一生、後ろ指をさされて生きていかなくてはならない。それだけでなく、柘榴さんは自分でも言っていたように、警察から解放された後は苧環さんを起訴するはずだ。その裁判に負ければ、一社会人では相当な負担になる慰謝料を払う羽目になるだろう。こうすれば殺さずして、苧環さんへの報復も果たすことが出来る。
これを成立させるためには、ある仕掛けが必要だった。それが『貴島さんの事件』と『保険証』と『四葩さん殺害の密室トリック』だ。
貴島さんの、ボールペンで何度も身体を貫かれているという殺され方。帯での首絞めならまだしも、あれを見て真っ先に思うのは、誰かが貴島さんを殺したということだ。あれが自殺だなんて、普通は夢にも思わない。だからこそ、やる意味があった。殺人だと思われなければ、冤罪を作り出すことが出来ない。そしてあの、雑な密室トリックもどき。あれ自体には、そこまで大きな意味は無かったはずだ。あれは外から鍵を掛けて、それを中に戻した誰かがいると思い込ませるアクセントに使用しただけだろう。柘榴さんを犯人という推理をすれば、後はどのようなこじつけであれ、相手が納得するような説明をすればどうでも良かったに違いない。
では、苧環さんにどうやって、四葩さんの殺害を自分だと思わせるか。そして、どうやって柘榴さんに自分を犯人だと思わせるか。これを誘導させるためのアイテムが、保険証だ。敢えて本名の記載された保険証を財布に忍ばせ、それを見つけた警察の口から自分の正体を明かさせた。貴島さんの正体を知れば、苧環さんは必ず、自分が復讐のために動いて四葩さん殺しを実行し、それを察知した柘榴さんに返り討ちにされたと推理するのを確信していたのだろう。
ここで、四葩さん殺害に用いたあの密室トリックが重要になってくる。苧環さんに名探偵の如く事件を解決してもらうためには、そのトリックが複雑且つ難解過ぎては駄目だ。
彼でも解き明かせる程度の、簡単なトリックでなければ意味が無い。そこで、あんなちゃちなトリックを使い、そしてわざわざヒントになるようなトリックが使われていた小説を苧環さんに誕生日プレゼントして渡していた。そうすれば、簡単な切欠で四葩さん殺害の真相を暴くはずだと考えたのだ。
そして四葩さんの事件のトリックが暴けたのなら、返り血などの問題にも目を付けるはず。そこから自分を殺害するには、ある程度に深い関係でなければ難しいということに気付いてくれるだろうと思ったはずだ。苧環さんが自分と柘榴さんの関係を疑うように昼食へ誘ったのも、その仕掛けの一つである。斯くして貴島さんの思惑通り、苧環さんは先ほどの推理を披露した。
けれど、あの推理はある一つの条件が満たせなければ、全てが瓦解する。それは柘榴さんの両腕にあった傷だ。誰も気付いていなかったが、両腕の傷について貴島さんの爪から柘榴さんの皮膚片や血液が検出されなかった場合、すべてが状況証拠に成り下がる。つまり柘榴さんが罪を自供しない限り、決定的な証拠がないのだ。柘榴さんの性格上、犯してもいない殺人の罪など認めることはないだろう。そうなれば柘榴さんは証拠不十分で不起訴処分になるにはずだと、貴島さんはそう踏んだのだ。
さらに、貴島さんの復讐対象は人物だけでは無かったはずだ。四葩さんの手先となってセカンドレイプに加担した葉陽社。それにも、貴島さんは復讐したいと考えたのだろう。
アルバイトは復讐を実行した殺人犯。その事件を解決したはずの名探偵は、セカンドレイプの記事を書いた元ライター。加えて、披露した推理の一部は的外れであり、危うく冤罪を起こし掛けた。そんなことになれば、風評被害からすぐに経営は立ちいかなくなり、倒産に追い込まれるろう。これで葉陽社への復讐も完了だ。
つまり貴島さんは、推理小説を模倣したような事件を起こし、自分の死すら演出した。それによって、四葩さんを除く他の三つの復讐対象に、殺人ではない復讐を成功させる。これが、貴島さんの真の計画だったのだ。
では、僕の存在は何のために必要だったのか。それはおそらく次の理由だ。
苧環さんに道化として探偵を演じてもらう場合、警察に疑われるのは非常に厄介である。そのため、同居人としてアリバイを証明する人物が欲しかった。当然それだけでなく、他にもある三つの役割があった
第一に、貴島さんと一緒に四葩さんの死体を発見する役割。もし貴島さんが一人で四葩さんの部屋に行けば、すぐに警察に疑われ、任意同行を求められる危険性があった。そしてそれが的中すれば、今朝の事件を起こすことができなくなる。そこで、自分以外にももう一人、確実に鍵が掛かっていたと証明する人物が必要だった。ここで苧環さんを使えなかったのは、万が一にもすぐにトリックを見破られるわけにはいかなかったからだろう。今朝の事件を起こすためには、少なくとも一日以上の時間が必要だったのだ。また四葩さん一人だけを三階の部屋に割り当てたのも、同じ階に柘榴さんや苧環さんがいれば、異変に気付いて近づいてくる危険性があったからだろう。人数が増える程、最後に部屋に入ってトリックを行使するのは難しくなる。それを防ぐために、自分が誘った人物以外誰も来ないように、四葩さんだけを三階においた。
第二に、苧環さんがしっかりと探偵をしていて、そして貴島さんと柘榴さんの関係を勘ぐっているかを確認する役割。苧環さんが探偵としてやる気を出し、尚且つ自分と柘榴さんが男女の関係であると疑ってもらえないと、その後の計画に支障が出る。かといって、自分からそれを苧環さんに確かめるのは不自然だ。そこで僕を同室にして間に挟む事により、苧環さんが自分の想い通りに動いているかを確かめたかった。
最後に、柘榴さんと貴島さんの関係を証言する役割。探偵役である苧環さんの推理を、より強固なモノにするような証言をさせるために、昨日、貴島さんはあんな事を話したのだ。
それらの役割を与えるためには、本来は不必要を思われる第三者の存在が要ったのだ。
貴島さんや柘榴さんの話などを加味すると、事件の本当の真相はおそらくこうだ。
貴島さんは、六年前に整形をして顔を変えた。そして偽名を使って葉陽社にアルバイトとして潜入した。苧環さんが自分に好意を持った事を知った貴島さんは、彼が推理小説に嵌るようにさりげなく誘導した。きっとその時から、今回の事件の大まかなビジョンは見えていたのだろう。そして二年前、貴島さんは柘榴さんに接触をした。そこから四葩さん近づき、半年前にとうとう彼をこの旅館に連れてくることを約束させた。柘榴さんが四葩さんの監視下にあることは知っていたはずなので、何もしなくても彼が付属されることは想定済みだったに違いない。旅館を予約するに当たって、敢えて一つだけ三階に部屋を取り、そこに四葩さんを宿泊させた。その部屋で苧環さんも推理した方法で四葩さんを殺害し、密室を作りあげた。もし僕が鍵を掛けなければ、貴島さんが自ら合鍵で施錠していたことだろう。この状況に、すっかりと自称ミステリーマニアになっていた苧環さんは興奮し、事件について捜査を始めた。そんな苧環さんに、貴島さんは柘榴さんとの仲を匂わすような行動を取って、その関係に疑いを持たせる。自分の思惑通りに事が進んでいるか、その情報を貴島さんは僕から聞きだした。貴島さんの意図しないところで、柘榴さんとの関係を勝手に疑っていたのは僥倖だったはずだ。順調に事が進行している事を確信した貴島さんは、最後の仕上げに入った。まず柘榴さんの部屋に向かい、一夜を共にする振りをして、爪で両腕に傷をつけた。柘榴さんが寝入った後、こっそりと自分の部屋に戻る。爪の間に証拠が残って警察に検出されるのを防ぐために両手を入念に洗い込んで、それから貴島さんは部屋が荒れたように見える工作をした。物取りなどの無関係者が犯人であるという可能性を消去するため、四葩さんの密室を模倣したと思えるように部屋中の鍵を閉め、本鍵のキーホルダーを外し、玄関口においた。それから指紋を全て拭き取り、そして、ボールペンで自分の身体を滅多刺しにした。浴衣の帯で首を絞めなかったのは、より殺人であるかのように見せるためだ。ただ、浴衣の帯は別の事に用いた。それは、ボールペンの指紋対策である。ボールペンに指紋が残らないようにするため、持ち手には帯を添えていたはずだ。そうすればボールペンに指紋は付着しないし、衣類なら自分の血で汚れていても違和感を持たれる可能性は低い。苧環さんは殺されたとしか思えない状況から判断して、柘榴さんが犯人であるという、仮初めの真相を解き明かした。いや、解かされたのだ。
こうすることによって、貴島さんは全ての対象に復讐することが出来る。四葩さんは言わずもがな、もう二度と目を覚ますことがない。柘榴さんは四葩さんの金を食いつぶし、自滅していく。苧環さんは事件を解いた名探偵として一時の名声を得るだろう。だが、柘榴さんが不起訴になれば、冤罪を生みかけた戦犯として手の平を返した世間から盛大に叩かれ、柘榴さんにも相当な金を払う羽目になる。葉陽社も、アルバイトが話題の弁護士先生を殺した殺人者であり、その正体は過去に強姦事件でセカンドレイプの被害にあった女子高生。そしてその記事を書いた元ライターは、見当外れの推理で冤罪を生みかけた現カメラマンの社員である。この風評が世間に広まれば、倒産は免れないだろう。マスコミの影響力の強さは誰しもが知るところだ。やってやれない事はないはずである。過去に葉陽社にされたように、今度は貴島さんがマスコミの力を利用するのだ。
その復讐を為すために、貴島さんは現実世界で虚構を模倣した事件を起こした。そして推理小説のように、探偵、被害者、犯人、都合の良い段三者を作り上げた。それは荒唐無稽のようであるが、可能性としては決して在り得ないことではないはずだ。
勿論これは、現状ではただの僕の予想――いや、妄想と言っていい。だが、時が経てば苧環さんの推理と僕の推理、どちらが正しかったか分かるだろう。
薊の花言葉の一つは『復讐』。きっと貴島さんは、偽名として使う名前に、自らの決意を込めたのだろう。
送迎車の窓から外を眺めた。周囲は紅色に染まっている。その犯人である夕焼けの朱色の光が、やけに目に痛んだ。