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模倣事件  作者: 初心者
6/10

6話


                   6


 貴島さんが殺された。ボールペンで、幾度と無く身体を突かれ続けたようだ。およそ正気とは思えない。上半身にまるで無数に蟻の巣穴を作ったかのようなその様は、とても悲惨な死に姿だった。

 警察がすぐに封鎖をして、現場検証を行っている。その間に僕たち三人は一旦朝顔の間に集められ、釣鐘さんの事情聴取を受けた。

「今回もやはり、障子戸の鍵は閉められていました。そして、室内から指紋は検出されず、バルコニーから下に降りたという形跡も見当たりません。ただ今回は、鍵は籠の中では無く、玄関口に転がっていました。しかも、キーホルダーの外された状態で、です。外されたキーホルダーは室内で発見されているのが確認されました。これはつまり、犯人が貴島薊さんを殺害後、キーホルダーを外し、外から鍵を掛けてドアの下からそれを戻したと考えられます。四葩さんの事件の時に比べ、何故このように犯行手口が雑になったのかはまだわかりません。しかし正直に申しまして、私は皆さんの中に犯人がいると考えています。そこで、三人にお話しを伺わせてもらいます」

 僕たち三人の中の誰かが犯人であると、そう断定した釣鐘さんが聞いてきたのはただ一つ。昨夜から今朝にかけてのアリバイだけだった。昨夜の七時半には、夕食を運んだ仲居さんが、存命していた貴島さんの姿を確認しているらしい。因って、厳密には昨日の夜七時半から翌朝八時に掛けてのアリバイを確認された。それについては、僕が内湯を使うために一度だけ部屋を出た事を除けば、全員が一様に『ずっと自分の客室に居た』と答えた。当然ながら釣鐘さんは信じた様子は無く、軽く首を振っていた。

「午後になれば別室に移動して頂きますのでご了承ください。また部屋の外にでてもらうのも構いませんが、旅館からは外出しないようお願いします。それでは」

 言って、釣鐘さんはさっさと部屋から出て行った。おそらく、現場検証に参加しに行ったのだろう。

 部屋には三人が残された。胡坐を掻いて座っている苧環さんは今回、自分の目で現場を目撃したため僕に何かを尋ねることは無かった。本物の死体を見てしまったからか、落ち着きなくしきりに右の親指の爪を噛んでいる。柘榴さんも今度ばかりは平常心では居られないようで、口を閉ざしたまま部屋の隅で立ち尽くしていた。二人とも、その身体を小刻みに震わせている。関係者が立て続けに二人の殺された事で、次は自分の番かと恐怖しているのかもしれない。

「俺は、俺が犯人でないことは自分で分かっている。だったら、あんたら二人の内、どっちかが親父や薊を殺した犯人だ。殺人者と一緒に居るのは気分が悪い」

 柘榴さんが僕たちを卑下するような目をして、忌々しそうに言った。それを聞いて怒りを露わにしたのは苧環さんだった。

「おい。そりゃあどういう意味だ。俺があの二人を殺したとでも言いたいのかよ」

「耳が悪いのか。別にアンタだけを限定したわけじゃないだろう。それなのにそこまで怒るなんて信じられないな。もしかして、本当にアンタが犯人で、図星を突かれて焦ってるのを誤魔化してるのか」

 挑発するように柘榴さんは言った。それを聞いて、苧環さんはさらに顔を赤くしていた。勿論、柘榴さんの物言いにも盛大に問題がある。だがそれ以上に、苧環さんは発言の内容が気に入らない様子だった。自分は簡単に人の事を犯人にしたくせに、いざ逆になるとまったく許せないようだ。僕も犯人にされる不愉快さは経験したので分からなくはないが、それでもその調本人が苧環さんであるため、少しも同情は出来なかった。ただ、このままでは手を挙げてしまいそうな勢いだ。実際、苧環さんは半分以上腰を浮かせている。考えたいこともあり出来るだけ面倒事を増やしたくなかった僕は、取り敢えずその原因となる人物を宥めることにした。

「苧環さん落ち着いて。ほら。変にムキになってると、余計に疑惑が増える。ミステリーでは、無駄に吠える奴が犯人ってパターンがあるって、自分で言ってたじゃないですか」

 昨日の自らの発言を持ちだされた手前、苧環さんも渋々と大人しくなり、浮かせていた腰を畳の上に下ろした。

「親父を殺してくれたことには感謝するが、殺人者なんかと旅行に来てたなんて、今考えるとぞっとする」

 そんな台詞を残して、柘榴さんは部屋を出て行った。横を通り過ぎた時、身体がまだ震えているのに気付いた。身震いは治まってはいないみたいだ。

 煙草に火を点けた苧環さんが汚い言葉で柘榴さんの事を罵っていが、それも長くは無かった。黙って煙草を吸っているので、昨日からの探偵の真似事を続け、事件の推理をしているのかもしれない。苧環さんもやはり、煙草を挟んだ右手は震え続けていた。

 重たい沈黙が流れていた。けれど静かな環境は、今の僕には有り難かった。これで思考に集中できる。

 僕は二人とは違い、恐怖よりも怒りめいたものを感じていた。昨日までは、苧環さんの探偵気取りを内心で馬鹿にして、そして事件について素人が推理をすべきでないと思っていた。それなのに、今は不思議と、貴島さんを殺した犯人を判明させたい気持ちで一杯になっていたのだ。自分でもその心境の変化には驚きつつ、僕は仰向けに寝転がって、笹杢の天井を眺めながら事件について考えた。

 正面から争うことなく胸を一突きするなんて、顔見知り以外に出来る芸当じゃない。また、ただ室内に鍵を入れるだけならば可能かもしれないが、玄関口にある下駄箱の上の籠に戻すには、僕が考えた方法でなければ難しいはずだ。幾つかの疑問はあるものの、四葩さんを殺したのは、貴島さん以外には考えられない。僕の推理が当たっているならば、四葩さん殺しを行った貴島さんを殺害した、別の犯人が存在することになる。では、貴島さんは果たして誰に殺されたのか。

 部屋も荒らされた様子だった。密室トリックだって、一切成立していないような雑なものだ。例えば、四葩さんの殺人事件に乗じて、その犯人に罪を擦り付けられると考えた物取りが、実はまったく無関係の殺人事件を起こした。そして密室だったというのだけを知っていて、形だけでも真似ようとあんな不細工な工作をした。しかしその物取りは奇しくも、罪を擦り付ける予定だった貴島さんを手に掛けてしまったというのはどうだろう。

 事実は小説よりも奇なりなんて言葉があるくらいだ。それも、決して在り得ない事ではないのだろう。だが、そんな笑い話にもならない偶然が起こるなんて、僕にはやはり思えなかった。貴島さんの事件にも、きっと何かある。雑な密室工作もどきには、何か意味があるはずだ。

 そこで、僕は別の可能性を模索していた。貴島さんが死の状況は、四葩さんの時とは違って部屋は荒れていたが、室内に鍵が残ったまま施錠されていたという部分は同じだ。となれば、犯人は同一人物なのかもしれない。もしそうならば僕の推理は間違っていたという事になる。四葩さんを殺したのは貴島さんではなかった。僕がまったく気が付いていないだけで、怪しまれず正面から刺し殺し、尚且つ鍵を室内に戻す方法、あるいは室外から鍵を用いずに施錠する方法が別にあるのだろうか。

 しばらく思考を続けていると、ある前提条件を変えるだけで、両方の事件について犯行が可能になる人物が浮き彫りになる事に気が付いた。それはこの華里の従業員。さらに言えば、仲居さんだ。

 釣鐘さんは、合鍵は旅館側で管理されていて、不正に持ち出された形跡はないと言っていた。僕は警察の発言ということで、微塵も疑う事無く、無条件でそれを信じていた。だが、それが間違っている可能性だってあるかもしれない。旅館側が管理をしていたということは、逆に言えば、仲居さんなら怪しまれずに合鍵を持ちだすのが容易いのではないか。合鍵さえ使用出来るなら、事件の真相は一変する。

 仲居さんを犯人だと仮定する。合鍵を持った犯人は、四葩さんの部屋を尋ねる。理由は何でも良いだろうが、事件の状況に照らし合わせるなら、お茶を淹れて持ってきたというのが妥当か。居間で寛いでいた四葩さんの浴衣に、わざとそのお茶を零す。そして着替えのために浴衣を脱ごうと、帯の方へ視線を逸らした瞬間、隠し持っていたナイフで心臓を一突きにする。お茶で濡れた浴衣や畳は、四葩さんの血液でカモフラージュした。後は何事も無かったかのように部屋を出て、合鍵で施錠をするだけでいい。問題は返り血だが、これもある条件さえ合えば誤魔化せるかもしれない。その条件とは、着物の裏地が表地と同じ色をしているということだ。もし裏地が表地と同じ色をしているならば、着物を裏返しで着てから犯行に及べばいい。華里の着物は、無地で水色の地味なものである。柄が無いので、例え裏返しに着ていたとしても、色さえ同じなら見慣れていない僕たちでは表裏を見抜くことは不可能だし、不審に思うこともないだろう。ナイフを突き立てた後で着付けをやり直せば、返り血で汚れた部分を内側に隠すことができる。着付けに掛かる時間だって、普段から慣れている仲居さんならものの十分くらいで済ませられるはずだ。

 そして貴島さんの殺害。これは荒れている部屋と、凶器もボールペンであった事から、四葩さんと違い突発的な犯行であると判断できる。もしかすると犯人は、貴島さんに真相を突き止められた事を知り、咄嗟の殺害に至ったのかもしれない。この場合も、厄介なのは返り血だ。計画外だった急な殺人であれば、事前に着物を裏返しにしてはいなかっただろう。だが、着物の場合はその下に、長襦袢や肌襦袢などの下着を着ているはずだ。四葩さんの時には不信感を持たれて行えないが、既に犯人とバレている状況では脱衣など関係ない。襦袢姿にさえなっておけば、上から着物を着る事によって返り血を隠すことが出来るはずだ。密室工作もどきは、敢えて別の人間が犯人であると印象付けたかった故の行為だろう。

 この推理が仮に正しいとするならば、犯人として可能性の高くなるのは、貴島さんの担当かあるいは四葩さんの担当をしていた仲居さんだ。しかし、着物を確認させてもらうのは難しい。それをするためには僕の考えを説明する必要があるが、疑いを持っている相手の手伝いなどする気が起きるはずはなく、何か口実を付けて拒否されるだろう。それにもし犯人にそうとは知らず直接確認してしまえば、証拠を処分される恐れもある。第一、合鍵を持ちだせるとか着物の表と裏が同じというのは、この推理を成立させるための都合のいい仮定でしかない。けれど、一パーセントでも疑惑があるのなら、確認してみる価値はあるはずだ。

 協力者として、僕の頭に五十鈴さんの姿が浮かんだ。

 部屋を出て、ロビーへと降りた。番頭――金子さんに五十鈴さんの居場所について尋ねたようと思ったのだ。だが、それは無理なようだった。五十鈴さんの姿こそ無かったが、何人もの従業員がロビーへと招集され、延々と鳴り続ける電話の対応や、受付に押し掛けている宿泊客の対応に手一杯のようだった。そういえば、今日は貴島さんの部屋の近くに野次馬が集まってはいなかった。

 どうやら二日続けて殺人事件が起こった事で、好奇心よりも恐怖が勝ったらしい。宿泊客は料金の返還や別の旅館の手配など、一斉に様々な要望を出しているようだった。電話もおそらくはマスコミからの問い合わせか、そうでなければ予約をキャンセルしたいという内容だろう。五十鈴さんを含めこの場に居ない従業員も、事態を少しでも収束させるため世話しなくこの旅館内を動き回っているに違いない。現在の旅館の状況に、五十鈴さんはきっと胸を痛めているだろう。

 宿泊客の騒ぎは、昨日はそう長い間は続かなかった。今日はそれよりは大分長引くはずだが、それでも時間さえ経てば、今日中にある程度は落ち着くはずである。僕はその時が来るまで待つことにした。

 部屋に戻り、苧環さんと二人、特に行動するでもなく過ごしていると、願っても無い事に五十鈴さんがやって来た。

「大変遅くなって申し訳ありません」

 部屋に入るなり、五十鈴さんが頭を下げた。僕は、朝食のお盆が座卓の上に残されたままになっているのに気が付いた。時間を確認すると、時刻は十時二十二分だった。どうやら、片付けに来るのが遅れたことに対して謝罪をしているようだ。あまりにも済まなさそうにしていたので、僕の方も五十鈴さんに申し訳ない気持ちになった。

 五十鈴さんは僕の顔を見ると、一瞬だけ口を開くも何も言わずにすぐ閉じて、伏し目がちに視線を下げた。僕の事を心配してくれているのだろうが、なんと声を掛ければよいのか分からないといった、そんな様子だ。けれど、僕はその気遣いだけで有り難かった。せっかく向こうからやって来てくれたので、僕は目的を果たすために五十鈴さんに話し掛けた。

「五十鈴さん。忙しくて大変だとは思うんですけど、少し時間をもらうことって出来ますか? 少し聞きたいことがあるんです」

 五十鈴さんは、僕の方から話し掛けられた事を些か驚いたように目を丸くした。

「あ、はい。後三十分程すれば、少しくらいなら大丈夫だと思います」

「それじゃあ、一階のラウンジで待ってるので、手が空いたらそこまで来てもらってもいいですか?」

「わかりました」

「ありがとうございます」

 僕は五十鈴さんに礼を述べた。会話を終えた後、五十鈴さんは寝室の布団を仕舞い、座卓のお盆を持って部屋を出ていった。

 昨日のように苧環さんに茶化されるかと思ったが、今日は何も言わずに黙って煙草を吸っていた。そこまでの余裕が無いのかもしれない。

 時間は大分早いが僕はラウンジに降りて、適当なソファに腰掛けて五十鈴さんを待った。

 驚いた事に、先ほど見たばかりのロビーの人集りは随分と少なくなっていた。対処には結構な時間を要すると思っていたので、これは予想外だ。電話は今なおかなりの頻度で鳴り響いていたので、取り急ぎ押しかけて来た宿泊客への対応を行い、それをあらかた終えたのかもしれない。駆り出されている従業員も電話対応用の少人数だけになっており、そのほとんどが本来の業務に戻っているのだろう。

 時間はさして気にならなかった。気が付けば時刻は十一時を回っており、仕事をひと段落終えたらしい五十鈴さんがやって来た。額にしっとりと汗をかいている。もしかすると、暇を作る為に、普段以上に仕事を頑張って終わらせてくれたのかもしれない。五十鈴さんに対して、僕は再び申し訳なく思った。

「すみません、お待たせしました」

「いえいえ、僕の方こそ急にすみません」

 五十鈴さんは僕の目の前のソファに腰かけた。

 五十鈴さんの同僚を疑うという事に、自己嫌悪に陥る程の罪悪感や後ろめたさが在ったが、僕は話を切り出した。

「ちょっと変な事を聞いても良いですか?」

「何ですか?」

「先に言っておきます。もし不快にさせたらすみません。それと、答えたくなかったら答えなくても構いません」

「わかりました」

 神妙な顔をして頷いた五十鈴さんに、僕はまず自身の推理を語った。華里の仲居さんならば、怪しまれずに合鍵を持ちだして四葩さんを殺せるのでないか。着物の裏地の色が同じなら、逆に着ておけば殺害後に返り血を裏側にして隠せるのではないか。それが貴島さんにバレて、彼女の犯行に至ったのではないか。貴島さんの時は急な殺人だったので、襦袢の方に返り血が付いているのでないか。それらの可能性を全て話したうえで、僕は五十鈴さんに尋ねた。

「だから、合鍵を怪しまれずに使用できる人間はいないか。そして、仲居さんが着ている着物の裏地はどうなっているのか、教えてもらいたいんです」

 五十鈴さんはしばらく口を開かず、悲しそうな表情を浮かべていた。無理もない。五十鈴さんからすればそれは、犯人だと疑惑を持っていると宣言されたも同義であるし、そう捉えられても仕方がない。僕は、罵倒されて頬を引っ叩かれるくらいは覚悟していた。いや、それ以上の事をされても、文句の一つさえ言う資格はない。それくらい酷い事を聞いているという自覚があったからだ。けれど、五十鈴さんはそんな事はしなかった。代わりに、ゆっくりと僕に問いかけてきた。

「……それに答えるまえに、私も幾つか質問していいですか?」

「はい」

「警察でもないのに、どうして犯人を突き止めたいんですか?」

「今回の事件の犯人――正確に言えば貴島さんを殺した犯人が、許せないんです。どうしてそんな気持ちになっているのかは、自分でも不思議なんですけど」

「そうなんですね。じゃあもう一つだけ。東雲さんは、私を犯人だと疑っているんですか?」

 五十鈴さんの目が、少し潤んでいるように見えた。心の中に芽生えていた自己嫌悪が、さらに大きくなっていた。

「僕は、仲居さんの誰かが犯人かもしれないと考えています。そんな僕の言葉なんて信じられないかもしれないですけど、五十鈴さんが犯人だとは、微塵も思っていません」

 五十鈴さんは四葩さんの事件の犯人を、殺したいと言った程に許せないでいた。それは五十鈴さんの本心であったはずだ。それに、まだ出会って三日しか経っていないが、五十鈴さんはとても優しい人であることは分かる。そんな彼女が、殺人を犯しているはずがない。結局は僕の主観でしかない拙い根拠だが、それでも犯人では無いという自信があったからこそ、僕は五十鈴さんになら協力をしてもらえるかもしれないと、そう思ったのである。

 僕の答えを聞いて、五十鈴さんは軽く微笑んだ。

「わかりました。東雲さんを信じます」

 そう言葉で、僕は何だか救われたような心地になった。それから五十鈴さんは徐に立ち上がると、帯を外して着物を脱ぎ、その裏側を見せてくれた。瞬間、僕は自身の推理がまったくの見当違いであることを知った。仲居さんが着ている着物を裏側は、表のそれと異なっていたのだ。

「着物の背中に当たる部分には、普通は胴裏といって白や薄桜色の布があるんです。見て分かるように、華里の着物は白い布が使われていて、もし裏返しで着ていれば一目で分かると思います。それと、合鍵については女将と番頭が管理をしていて、仲居の一存で勝手に持ち出すことはできません」

 丁寧に説明をしてくれた五十鈴さんに、僕はすぐさま頭を下げた。

「本当にごめんなさい」

 幾ら謝っても謝り足りないが、今の僕に出来るのはこんな事くらいだ。

 しかし五十鈴さんは、あまりにも失礼な行いをした僕をあっさりと許してくれた。

「全然大丈夫です。東雲さんの気持ちは理解できますから。好きな人が誰かに殺されたってなったら、どんなことをしても犯人を捕まえたいって思いますよね」

 言葉の意味が理解出来ずに呆気に取られていた僕を気にすることなく、五十鈴さんは先を続けた。

「どうして犯人の事が許せないのか不思議だって言っていましたけど、簡単です。東雲さんは、貴島さんの事が好きだったんですよ」

 五十鈴さんが、子どもを諭すように優しい口調で言った。

 ……ああ、そうだ。僕は、貴島さんが好きだった。ただ、もう慣れてしまったと目を背けていただけだ。それを、本心ではどこかで気が付いていた。だから、同族嫌悪のように苧環さんの事を嫌い、貴島さんと正反対のような考えを持っていた四葩さんの事を好きになれなかった。貴島さんが殺人者だと思った時に目の前が真っ暗になったのも、すぐに警察に報告したくなかったのも、四葩さんの事件の時には無かった怒りを急に感じたのも、犯人を捕まえたいと考えているのも、全部、僕が彼女に好意を持っていたからだ。

 五十鈴さんは寂しそうな笑みを浮かべた後、無言で一礼をして離れていった。僕は呆としたまま、しばらく動く事が出来なかった。

 華里の仲居さんの誰かが犯人であるという線は消えた。となればやはり、四葩さんを殺したのは貴島さんである可能性が限りなく高い。その事実は悲しかったが それでも精神的にどこか楽になっていたのは、自身の気持ちに整理を付けることが出来たからだ。整形や殺人を犯した可能性などの事も含めても、どうやら僕は、貴島さんを嫌いになるのは難しいようだ。それほどまでに、僕は彼女に骨抜きにされていたという事なのだろう。僕が目を背けていた本心を教えてくれた五十鈴さんに、感謝しなければならない。

 ソファから立ち上がり二階の部屋に向かうと、玄関口に釣鐘さんが立っていた。奥の貴島さんの部屋を見ると、大きなマスクを付けた鑑識官が頻繁に部屋の出入りをしていた。現場検証はまだ続いているようだ。僕に気が付いて振り返った釣鐘さんの表情はこれまでと大差なかったが、僕にはどこか怪訝そうにしていると感じられた。

「これまた丁度良かった。実は、皆さんに少しお聞きしたい事が出来ました。取り敢えず、室内にどうぞ」

 現場検証が続いているにも関わらず新たな聴取が行われることを怪訝に感じながら、促されるまま部屋に入り、畳の上に腰を降ろした。苧環さんは相変わらず煙草をふかしている。灰皿には相当数の吸い殻が溜まっていた。

 釣鐘さんは立ったままで、僕たちに質問をした。

「二人にお聞きしますが、殺された女性のお名前は、貴島薊で間違いないですか?」

「……はい、間違いないです」

 意図の不明な聴取に首をかしげながら、僕は答えた。顔が潰されたり全身を焼かれたりしたわけじゃない。見間違うはずもなく、あれは貴島さんだった。

「では『髙城(たかじょう)麻美(あさみ)』というお名前に心当たりはありますか?」

 再び、よく分からない質問をされた。僕は「いいえ」と首を横に振った。

 しかし、苧環さんはその名前を聞いて、顔を青ざめていた。やっと治まっていた震えが、先ほどよりも悪化して再発していた。どうやら僕と違い、聞き覚えのある名前らしい。

「そちらの方は、どうやら心当たりがあるようですね」

 言われて、苧環さんが項垂れるように俯いた。

「高城麻美という女性について、詳しく教えてください」

「……それは、八年ほど前に、あの弁護士先生の息子――大岩桐柘榴に強姦されて、そして俺が記事を書いた女です。柘榴が警察に逮捕されて刑事裁判になった後、弁護士先生はウチの出版社に小金と、当時高校生だったその女の、主に男性を中心とした交友関係のリストを渡してきた。それは学校や塾の同級生だったり、さして疚しい関係があるわけでもない、ただの男友達とかのリストだった。だが、俺は会社の指示で……リストを元にその女が男遊びをしてるみたいな中傷記事を書いた。精神的に追い詰めて、裁判を起こした事を後悔させる為だ。弁護士先生の思惑通り……その女は裁判途中で、被害届を取り下げた。同時に、家族揃ってどこかに引っ越したと聞きました……その後の事は、何も知りません」

 時折言葉を詰まらせながら、苧環さんは語った。それは昨日僕にも喋っていた、あの不愉快な話である。その被害に遭った女性が『高城麻美』というらしい。

 ここでそんな女性の名前が出てくるという事は、答えは想像に難くない。だが、苧環さんはまだ理解が追い付いていないらしく、苦虫を噛み潰したような表情をして釣鐘さんに問い掛けた。

「どうして急にその名前が出てくるんだ?」

 釣鐘さんが、一呼吸を置いて、そして答えた。

「財布から彼女の保険証が発見され、貴島薊というのが偽名であると判明しました。彼女の本名は、髙城麻美です」


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