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模倣事件  作者: 初心者
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4話


                   4


 死体を発見した後は混乱していたが、取り敢えず室内のものに触れないように気を付けて、五十鈴さんと貴島さんを連れて部屋を出て行った。現場を荒らしてはならないという心理が強く働いたのだろう、五十鈴さんの持っていた合鍵でしっかりと鍵は掛けておいた。それから地に足がついていない状態のまま三人でロビーまで降り、番頭さんに兎に角警察へ通報するように頼んだ。それから数人の仲居さんや番頭さんの手で、僕たちはラウンジのソファに座らせてもらった。誰もが事態がちゃんと呑み込めずに混乱していたが、望まずも第一発見者になってしまった五十鈴さんも貴島さんも僕も、誰も上手く説明をすることが出来ず、唯々警察の到着を待つばかりだった。

 感覚が狂ってしまって、あれからどれくらいの時間が経ったか分からなかった。大きなサイレンを鳴らしながら警察がやってくるまでの時間が、丸一日のようにも一瞬のようにも感じた。

 サイレンの音や警察官の登場で、ロビーには宿泊客が野次馬のように集まり一気にざわついていたが、そんなはどうでも良く思えるほど、僕の心理状態に余裕は無かった。

 紺色の制服を着た数名の中に、一人だけパリッとした半袖の白シャツにスラックス姿の刑事さんが居た。その人が真っ先に僕たちに近寄ってきて、警察手帳を開いた。

「私は華森北警察署捜査一課所属で、警部補の釣鐘(つりがね)草二(そうじ)といいます。ご心労の多い所申し訳ありませんが、お話を聞かせていただけますか?」

 刑事さんが優しい声で丁寧に言った。おそらく余程青ざめて酷い顔をしていたのだろう。そのスーツの刑事さんは誰に尋ねるでもなく、一目で僕たち三人が死体の第一発見者であることを見抜いていた。横を見ると、鍵を開けてくれた五十鈴さんは震えており、貴島さんも暗い顔で俯いたきりだった。ここは唯一の男である僕が頑張らねばと何とか気を奮い立たせ、死体を発見した経緯について話した。

「今日は仕事で、十時から薔薇の間に宿泊している大岩桐先生に取材をする予定だったんです。そのための機材の準備が早めに終わったので、事前の挨拶をするために、こちらの貴島さんと一緒に薔薇の間に行きました。けれどノックしても電話を掛けても反応が無かったので、少し心配になりました。ドアノブを回してはみたのですが部屋に鍵が掛かっていたので、貴島さんが合鍵を借りてくると言って受付に向かいました。それから少しして、合鍵を持った仲居の五十鈴さんと貴島さんが来て、鍵を開けてもらって部屋に入りました。そうしたら、心臓の辺りにナイフが刺さっていて酷い血を流している先生を見つけました。その後の事は混乱していてはっきりとはしないのですが、現場を荒らしては駄目だと思い、部屋を出て鍵を掛けました。それから、このロビーまで降りてきて、番頭さんに警察へ電話をかけてもらったんです」

「そうですか。現場の保存は助かります。ありがとうございました。ちなみに、死体を発見した時の時間はお分かりになりますか?」

「断定は出来ないですけど、先生の部屋に行ったのが九時を少し過ぎたくらいでした。それから貴島さんが五十鈴さんを連れてくるまで、十分くらい間があったはずです。なので、実際に部屋に入ったのは、九時二十分前後だと思います」

 喋っていると四葩さんの部屋での出来事が思い出されて気持ち悪くなったが、しかし同時に少しずつ落ち着きを取り戻すことも出来た。

 目の前の釣鐘という刑事が白髪混じりの短髪で、口元に端正な髭を蓄えており、少し釣り目で、痩せ型中背の四十代程に見える男性であるという程度の認識は出来るようになっていた。

「お仕事とおっしゃっていましたが、他に関係者の方は居られますか?」

「二階の、僕が泊まっている『朝顔の間』という部屋に、男性社員が一人。それから、同じ階、廊下を挟んで南側の最初の部屋――『睡蓮の間』に、亡くなった大岩桐先生の息子さんが泊まっています」

 釣鐘さんが何やら指示を出し、数名の制服警官を連れて去っていった。大岩桐先生の部屋には合鍵で施錠をしたので、現場検証のために警察が五十鈴さんからその合鍵を拝借していた。僕たちはここでの待機を命じられ、自分の部屋に帰る事は許されなかった。

 それからすぐに、制服警官に連れられて苧環さんと柘榴さんがロビーへと降りてきた。寝起きだったのか、柘榴さんは浴衣姿のままだった。一か所にかためられるように、二人も僕たちの向かいのソファに座らされていた。

 実際に四葩さんの死体姿を見ていないからか、二人は特に苛立った様子は無かった。苧環さんは煙草をふかし、息子の柘榴さんに至っては自分の父親が死んだというのに、何事も無かったかのように携帯ゲームで遊んでいた。本来なら嫌悪されるであろうその二人の図太さが、けれど今の僕には羨ましくもあった。

 貴島さんは落ち着きなく足を組み替え、五十鈴さんも頻繁に溜め息を吐いていた。僕は二人に比べればまだマシだったが、それでも動揺が無いと言えば嘘になる。

「おい、葉月。お前。弁護士先生の殺害現場を見たのか?」

 紫煙を吐き出しながら、苧環さんが興味津津という風に口を開いた。僕と違いミステリー好きのため、現在の状況に恐怖よりも喜びの方が強く、興奮しているのかもしれない。

 本当は無視をしたかったが、しかし苧環さんの性格から、ここでそれをすれば面倒な展開になる事は明白だ。まったくと言って良い程に気分は乗らずに億劫だったが、僕は苧環さんの相手をすることにした。

「ええ、見ましたよ。それがどうしたんですか?」

 精神的疲労から、語気にまで気を付ける事は出来なかった。それでも苧環さんは好奇心の方が強いらしく、それに気を留めたりはしなかった。

「その時の状況、俺にも詳しく教えろよ」

「さっき警察には話しました。どうして苧環さんがそんな事を知りたがるんですか?」

「いいから教えろって。気になるんだよ」

 やはり苧環さんは、事件について特段の関心があるようだ。

 ふと柘榴さんの方へと目を遣った。やはり事件への興味は持ってはいなさそうだったが、幾ら柘榴さんがそうだからと言って、肉親がすぐ傍に居る状態で話す内容ではない。もしかしたら彼だって、内心ではショックを受けているのかもしれないのだ。

「今聞くようなことじゃないでしょう。柘榴さんだっているんですよ」

 その言葉に、今までゲームばかりしてこちらを見向きもしなかった柘榴さんが、初めてその手を止めて反応を示した。

「もしかしてあんた、親父が死んで俺が塞ぎ込んでるとでも思ってたのか。それで気遣っているつもりなら、悪いが大きなお世話だ。俺の事をいっつも見下して監視してやがったあんな糞親父、死んでくれて清々してるよ。おかげでアイツの遺産も俺のものだしな。相続税を払っても数千万以上の金が舞い込んでくるんで、今日は祝杯を挙げたい気分さ」

 ほくそ笑むように柘榴さんは口元を緩め、再び携帯ゲームで遊び始めた。先ほどの僕の考えは、まったくの勘違いだったようだ。信じられない事だが、柘榴さんは本当に、血が繋がっているはずの父親の死に全く動じていない。およそ通常の精神構造をしているとは思えなかった。

 野生動物の中には、食糧として我が子を食べてしまう種類も存在しているらしい。親子の立場は逆になるが、柘榴さんにとっては先の言葉通りできっと、父親の死は自分に大金が入るという利益にしか感じられないのだろう。四葩さんが、自身の息子を限りなく動物的と語っていた理由が分かった気がした。

「ほら、息子さんだってそう言ってるんだ。もったいぶらずに話せよ」

 貴島さんは相変わらず俯いていた。五十鈴さんは、理解不能という目で柘榴さんと苧環さんを見ていた。僕は四葩さんとの会話もあり、世の中にはそういう人間もいるだろうとあまり深く考えず、早々に諦めて話をすることにした。

 四葩さんの客室を訪れたが反応が無く、鍵も掛かっていたので合鍵を持ってきてもらった。それから五十鈴さん、僕、貴島さんと部屋に入ると、四葩さんの死体を見つけた。その後、すぐに客室から出て鍵を掛け、ロビー降りて警察に通報してもらったと、それらの事実を簡潔に説明した。それを聞いた苧環さんは、顎に左手を添えて何やら考え事をしていた。

 しばらくして、釣鐘さんがロビーへと戻ってきた。

「お手数ですが、今から皆様にお話を聞かせていただきます。ここでは少し騒がしいので、場所を変えましょう」

 僕たちは内湯とは反対側の、一階の北側にある小宴会場へと誘導された。売店の向こうの長い廊下を少し歩いた先に、三つある宴会場の襖が西側に隣接している。手前から小宴会場、中宴会場、大宴会場が並んでいる。小宴会場には『梅』という名札が上部の壁に取り付けられていたので、おそらくは大宴会場から松竹梅の順で名付けられているのだろうと、そんなどうでもいい事の推察で気分を紛らわした。

 小宴会場に腰を降ろすと、釣鐘さんが早速口を開いた

「本日、大岩桐四葩さんの死体が発見されました。場所は彼が宿泊していた三階の『薔薇の間』です。遺書のようなものは発見されておらず、また部屋の指紋を全て死体の状況から警察では他殺だと判断しております」

 警察の判断には納得だ。四葩さんは、自殺を全ての権利を放棄した愚か者の行いと嫌悪していたのだ。だから遺書の有無など関係なく、あの人が自殺をするなんて事は在り得ない。

「聞いた話だと、弁護士先生が越されたのを見つけた時、部屋には鍵が掛かっていたそうじゃないですか。なら話は簡単だ。弁護士先生の部屋の鍵を持っている奴が犯人でしょう。だから犯人を捕まえたいなら、今すぐこの旅館に居る全員の荷物検査でもして、鍵を探すのが手っ取り早いはずですよ」

 釣鐘さんに向かって、苧環さんが言った。

 確かに、あの部屋には鍵が掛かっていた。他殺であるならば、四葩さんの部屋の鍵を奪った相手が自然と犯人になる。苧環さんのその意見がもっともだったが、釣鐘さんは少し言い淀んでから答えた。

「それが『薔薇の間』の本鍵は室内に残されたままでした」

 言われて、僕はあの部屋を出て行く時の事を思い出した。そうだ。あの時、ロビーの下駄箱と部屋の鍵は間違いなく部屋の中にあった。客室の下駄箱の上にある籠の中に鍵が入っているのを、僕は見ている。

 この旅館の客室の玄関扉には、オートロックの類の機能は付いていない。さらに、扉と床にはほんの少しの隙間が空いていて鍵単体なら通せそうなものの、それはキーホルダーの付いた鍵を室内に戻せるほどでもない。よって、外の廊下から部屋の中に鍵に戻すなんてことは出来ないのだ。下駄箱の上の籠に鍵を入れるなんて、猶更不可能である。他に手があるとするならば、それこそ合鍵を使用するくらいだ。だが、それも釣鐘さんの次の言葉によって否定された。

「加えて、先ほど仰って頂いたように、死体発見時に扉には鍵が掛かっていたそうです。また、室内の障子戸も全て施錠がされておりましたので、外からの侵入は出来ません。したがって、合鍵以外で大岩桐四葩さんの部屋に入室する術は無いと思われます。しかし合鍵は常に旅館の方が管理しており、不当に持ちだされた形跡はありませんでした」

「つまり、密室殺人って事か?」

 苧環さんはどこか興奮した様子だった。密室殺人という、ミステリーの定番のキーワードが琴線に触れたのだろう。

「そうですね。室内から全ての鍵を掛けた後、三階の高さから飛び降りて逃げるというのは無理だと思います。幾ら地面がコンクリートでないとはいえ、大怪我は免れないでしょうから。それに第一、あの玄関扉はまだしも、障子戸の捻締錠を外側から掛けるというのはあまり現実的ではありません。それでも念のため、宿泊客の中に急な大怪我を負った者が居ない事。そしてバルコニーの柵や地面を調べた結果、ロープのようなものを使用して窓から降下したり、上部から何かが落下したような形跡が無かった事は確認済です。犯人はおそらく、大岩桐四葩さんを殺害した後、何らかの方法を用いて施錠をした。あるいは外から鍵を使って施錠した跡で、それを室内に戻したと考えられます。お恥ずかしながらその方法は目下不明なのですが、それを明らかにするためにも、皆さまにはこれから事情聴取にご協力頂きたいと思います」

 釣鐘さんの言葉から察するに、彼は僕たちの事を容疑者だと考えているのだろう。望まずも第一発見者となってしまった五十鈴さんはただ不運でしかないが、僕たち四人の場合は、あの現場では仕方がない。室内が物色されたような様子は無かったので、物取りの仕業とは考えにくい。加えて、四葩さんは正面からナイフを刺されたようだった。これは、顔見知りでなければ難しいだろう。俄かに信じたくはないが、つまり僕たちの中に犯人が存在している可能性は極めて高いのである。いや、僕たちの誰かが殺人犯であると断定してしまっても差し支えない程かもしれない。僕は昨日初めて会ったという事も、警察にとってはきっと関係が無いのだ。その理解は出来るが、やはり容疑者として指を折られているのは、まったく気持ちの良いものではなかった。

「それでは、まずは五十鈴蘭夏さん。今朝のアリバイを教えてください」

 最初に指名されたのは五十鈴さんだった。死体を見てしまった事に加え、警察から犯人の候補者としても見られていることにさらに恐怖したのだろう、五十鈴さんは中々口を開けないようだった。それでも何とか絞り出した声は震えていて、今にも消え入りそうだった。

「……今朝は、六時からずっと仕事をしていました。敷地内の清掃をしてから……、お客様の御膳の準備と提供。その後は、内線でご連絡頂いたお客様の御膳やお布団の片づけをしながら……手が空いたらその都度、小休止を取っていました。合鍵の要請に貴島様が来られた時も、偶然私の手が空いていましたので、金子さん――番頭さんから合鍵を預かり、大岩桐様のお部屋に向かいました。そしたら、あんな事に……」

 話をしている間、五十鈴さんはずっと右手で着物の左袖を握って震えていた。情けないことに僕は気の利いた一言も言えず、あの番頭さん名前は金子というのかなんて、やはりそんなくだらない事を考えて腹に渦巻く気持ち悪さを誤魔化すことしか出来なかった。

 釣鐘さんによって、次は貴島さんが指名された。

「私は、今朝は六時半頃に起きてから、自分の部屋で仕事の準備をしていました。朝食は取らない主義なので、昨日の内に断って、その代わりに室内露天風呂に入っていました。その後、八時頃に一度、仕事のスケジュール確認のために隣の東雲君と苧環さんの部屋を訪ねました。それからはまた自分の部屋でゆっくりと過ごして、九時過ぎに東雲君と大岩桐先生の部屋に挨拶に伺いました。ですが、鍵が掛かっていて、携帯にも出ていただけなかったので、何かトラブルがあったのかと心配になり一階ロビーの受付に合鍵を頼みに行きました。後は、そちらの仲居さん――五十鈴さん、でしたか。と一緒でした」

 俯いきながらも、貴島さんは凛とした声で答えていた。警察の取り調べにも狼狽えないその精神力は凄いと思った。

 貴島さんの後は僕だった。

「五時半に目が覚めた後はずっと、部屋の中で過ごしました。朝食を食べた後は、貴島さんと打ち合わせ。その次に、室内でカメラのチェックなどをしていました。カメラチェックが終わった後ですぐ、大岩桐先生の部屋に付いていきました。貴島さんが合鍵の要請に行っている間は、部屋の前でずっと待っていました」

「ありがとうございます。それでは次に……苧環亮さん。お願いします」

「俺もずっと部屋に居ましたよ。八時過ぎまで寝ていて、起こされてからも部屋で飯を食ったりとゆっくりしてました。俺の場合は同室なんで、そこのバイトの葉月に確認してもらえればアリバイは確定するはずです。なあ、葉月?」

 苧環さんはとても不遜な態度をしていた。ずっと居間に居た僕が、苧環さんは室外に出ていない事を確認している。自分にはそういった完璧なアリバイがあるからこそ、あそこまで自信を持っていられるのだろう。逆に僕は、苧環さんよりも先に目が覚めているため、アリバイ証明という点では不確かになってしまう。

「ええ……そうですね」

 僕は気乗りせずに答えた。一瞬「僕は散歩で外に出ていて、本当に苧環さんが部屋にいたかどうかわからない」みたいな証言をしてやろうかと考えたが、そんな虚言は自分の首を絞めるだけになると判断してすぐに却下した。

 そして、五人目の柘榴さんの番になった。

「俺も前の四人とほとんど一緒だよ。朝飯も食わずにずっと寝て、目が覚めた後はひたすらゲームをしてた。何時に起きたのかは覚えてない」

 死体を見て恐怖している僕たちや何故か楽しそうな苧環さんとは違い、柘榴さんは相変わらず感情の無いように淡々としていた。

「わかりました。それでは、第一発見者の三人に質問です。あまり思い出したくはないかもしれませんが、大岩桐四葩さんの部屋に入った死体を見付けたとき、何か違和感や変わった点はありませんでしたか。どのような些細な事でも構いません」

 釣鐘さんはそんな事を聞いてきたが、あの場で変わったことと言えば、何を隠そう四葩さんの死体だ。あれ以上におかしなものなんて、あの部屋のどこにも存在しない。

 結局、五十鈴さんも貴島さんも僕も「わかりません」としか答えられなかった。

 大体の事情聴取を終えて客室に帰るのを許されたのは、正午過ぎのことだった。けれど、警察から解放されたという訳ではなかった。僕たちは警察官の付き添いのもと部屋に戻り、そのまま荷物検査をされる運びとなった。

 小宴会場の外に出ると、今までいなかったはずの女性警官が二名待機していた。おそらく貴島さんと五十鈴さんのために、取り調べの最中に召集しておいたのだろう。

「すっかりと容疑者になっちゃったね」

 揃って階段を上る途中、擦れるような声で貴島さんが言った。横目で貴島さんの様子を窺う。やはり暗い顔はしていたものの、少しは血の気も戻っているように見えた。それは五十鈴さんも同様だった。死体発見から多少の時間が経過したことで、幾分か落ち着きを取り戻せたのだろう。僕自身も、最初の頃よりは気持ち大分静まってきていた。

「大丈夫ですよ。知ってます? 警察の事件の検挙率って三割くらいですけど、殺人事件に限っては九割を超えるそうですよ。だから、犯人もきっとすぐに捕まりますよ」

 今まで気の利いた事が言えなかったので、今回は頑張ってそんな台詞を口にしてみた。それがただの気休めであることは貴島さんもわかっているだろう。それでもあの御社の時のように、小さくではあるが、僕の言葉に笑ってくれた。

 部屋に戻った側から、荷物検査を担当する警察官に「何も触れないように」と指示を受けた。当然逆らう事はせず、僕も苧環さんも素直にクッションに腰を降ろして動かないようにした。警察官はまず、クローゼットや寝室、そして居間の隅々と室内の全てを確認した。それから僕たちの鞄をひっくり返し、入念に調べ始めた。鞄そのものに細工をして凶器を隠せるようになっていないかという事まで、警察官は細かくチェックしていた。唯一調べられなかったのは財布の中身くらいだ。

 警察官は十五分ほど荷物検査をしていたが、特に何かを追及するという事は無かった。つまり、警察に不審と判断されるものは何も無かったということだ。

「ご協力ありがとうございました」

 警察官は散乱させた荷物は整理してくれること無く、やる事を終えればあっさりと退室していった。居間には二人分の着替えや日用品や娯楽品、それから仕事道具が散らかっていたが、倦怠感から片付けをする気にはなれずにいた。

 もし僕たちの中に犯人がいるとするならば、一体誰が四葩さんを殺害したのだろうか。苧環さんは部屋からは一歩も出ていないはずだから、可能性として残るのは貴島さんと柘榴さんだ。となれば、遺産相続で大金が舞い込んでくる柘榴さんの方が犯人である可能性は高いはずだ。だが、そう思わせておいて、実は貴島さんが殺したという事も有り得るかもしれない。

 いや、まだ僕たちの誰かが犯人だと確定したわけじゃない。それこそ、まったくの第三者の線だって、完全に消えてはいないのだ。よって、こんな思考は無意味だ。事件の捜査と犯人の逮捕は、警察の仕事である。今日明日というわけにはいかないかもしれないが、遠からず警察が事件の全容を暴き出してくれるだろう。ただの高校生である僕が考えるようなことじゃない。無駄に考えれば、先のように疑心暗鬼に陥って、柘榴さんや貴島さんを殺人者と思い込んでしまう。だが、苧環さんは僕とは逆の気持ちを持っていたようだった。

「密室殺人か。面白くなってきたな」

 荷物検査をした警察官が部屋を出ていくなり、苧環さんはそんな不謹慎な事を口走った。その様子は、まるで新しい玩具を手に入れた子供のようだった。

「殺人事件ですよ。僕は一つも面白くは無いです」

 思わずそう答えると、苧環さんはどうしてこの状況を楽しめていないのか、それが理解できないといった様子だった。

「だからだよ。まさか現実でこんな事件に出くわせるなんて思っても見なかった」

 苧環さんは、僕があまり好きじゃない、悪戯を考えた子供のようなにやけ面を浮かべていた。

「葉月。俺はこの事件を捜査することに決めたぞ。もし警察よりも先に事件を解決できれば俺も一躍名探偵だ。それに、新聞記者としてもこんな美味しいネタを逃す手はない。話題の裁判を担当している有名弁護士先生の殺人事件の独占スクープだ。葉陽社始まって以来の特ダネだから、雑誌だって驚くくらいに売れるぞ。もし名探偵に慣れなくても、そうすれば飛び級の出世だって夢じゃない」

 環さんがこれまでにないくらいにやる気に満ちているのだけは分かったが、熱く語ったその思考は、僕には一つも理解できなかった。それに、素人がやる気になったところで、警察を出し抜けるとは思えない。だが、今の苧環さんはどうせ聞く耳を持たないだろうと思い、僕は何も言わなかった。

「現状での容疑者はたったの四人だ。少し知恵を働かせれば犯人を見破るのだってそう不可能じゃないはずだ」

 今まさに推理をしているのか、ロビーに集められた時のように顎に左手を添えて考え事をしている。それにしても、苧環さんが貴島さんもしっかりと容疑者と考えていることには、少なからず驚いた。苧環さんなら、無条件で彼女を犯人から除外すると思ったからだ。どうやら本気で推理小説に登場する探偵の真似事をするつもりらしい。そんな苧環さんを無視して、僕は気分を変えるために障子戸を開けて窓の外を眺めた。

 外は昨日と同じように快晴だった。雲の無い青空に君臨する太陽の光を反射させ、川や木々がきらきらと輝いている。その向こうに、都会に成りきれていない小さな街並みが覗いた。それは本来、心を浄化させるような、とても素晴らしい眺めなのだろう。実際、僕も一日前はこの景色に見惚れていた一人なのだ。けれど今はそういった作用を起こしてくれることは無く、ただ『窓から見える景色』という思いしか芽生えなかった。色は認識出来ているのに、まるでモノクロのように見える。

 しばらくして、静寂に包まれたままだった室内に苧環さんの声が響いた。

「葉月。一つ確認するが、お前はずっと部屋の前で待ってたんだよな?」

 正直に言えば苧環さんの相手をする気分ではなかったが、無視をして癇癪を起されるのも面倒だったので、僕は仕方なく返事をした。

「ええ、そうですよ。それがどうかしましたか?」

「例えば、例えばだ。名札を交換するっていうのはどうだ?」

 いきなりの質問に僕は戸惑った。だが苧環さんはそんなことを気にすることは無く、僕の返答を待たずに勝手に先を続けた。

「犯人は弁護士先生を殺した後、鍵は掛けずに『薔薇の間』の名札と反対側に位置する部屋の名札を入れ替えた。貴島とお前が『薔薇の間』だと思っていた部屋は、実は反対側の部屋だったんだ。それで合鍵の要請で受付に行っている間に、入れ替えていた名札を元に戻す。そして本物の『薔薇の間』に入り、死体を発見する。つまり、鍵なんて始めから掛かっていなかったんだ。合鍵を鍵穴に差し込んだから、開けたつもりになっていただけなんだよ」

 得意げに苧環さんは語った。反対の客室に宿泊客が泊まっている可能性や、階段を挟んで北と南を間違えなかった場合の事が考慮されていないので、その推理はあまりにも強引だと思うのだが、異議を申し立てたい部分はそこじゃない。

「それだと、貴島さんに取り残されて一人でずっと部屋の前にいた僕が犯人って事になりませんか?」

「まだ仮説でしかないが、もしこれが可能だった場合は、自然と犯人が確定しちまうな」

 苧環さんはまるでそうであって欲しいかのような笑顔だった。もしかすると、この人は、自分の名誉のためにどうにかして僕の事を犯人に仕立て上げようとしているのではないだろうか。まさか。兎にも角にも、やってもいない殺人で警察のお縄を頂戴するのは御免被りたい。僕は冤罪を快く受け入れる程、自分の人生を捨ててはいないのだ。

「僕は亡くなった四葩さんとは昨日初めて顔を合わせたんですよ。だから動機が無いって事で、犯人からはもう外れているでしょう」

 警察からも容疑者の一人と考えられているのは確かだが、四葩さんの殺害において清廉潔白なのは間違いがないので、僕はそんな反論をしてみた。すると苧環さんは街頭演説をしている政治家のように、大仰な身振りを含みながら熱弁を振るってきた。

「何を甘いことを言ってるんだ。犯人の断定だけに着目するなら、動機なんて実を言えばそこまで重要な要素じゃない。動機ってのは大抵、犯人を確定させた後の追い詰める時に使用するのがほとんどだ。下手したら『動機は分からないけどこのトリックを実行可能なのがそいつだけだから犯人だ』みたいなミステリーだってあるんだぞ。そういう場合、動機は犯人が後から勝手に自供してくれる。だから動機が無いってだけで犯人から除外されると思ったら大間違いだ。まず大切なのは、密室状態でも犯行可能な方法があるかどうか、そして誰ならばそれが可能かどうかを模索することだ」

 一応は自称ミステリーマニアなので、その動機についての持論も正しい部分はあるのだろう。現実の世の中では、肩がぶつかったとか誰でも良いから殺してみたかったとか、その程度の信じられない理由で殺人に発展する場合だってある。それらを鑑みれば、確かに動機なんてものは後付けでも良いのかもしれない。けれど初心者の僕からしても苧環さんのそれは、なんだか真のミステリーマニアに嫌悪と敵意を込めて盛大に非難されそうな意見だったと思うが、果たしてどうだろう。

「苧環さんが探偵をしたいなら、勝手にすればいいです。この際、僕に迷惑が掛からないなら止めやしません。でも、僕を犯人とするような推理には賛同しかねます。はっきり言っておきますけど、僕は絶対に犯人じゃないですからね」

「まあまあ、そう怒るな。変にムキになってると、余計に疑惑が増すぞ。ミステリーでも、無駄に吠える奴が犯人ってパターンもあるからな」

 その言い分に、僕は大きく溜め息を吐いた。もういい。諦めよう。呆れと怒りという感情のおかげで先ほどまでの憂鬱が幾分か無くなったので、それをプラス思考に捉える事にした。それに冷静に考えると、少し調べれば僕が犯人で無い事はすぐに判明するはずだ。苧環さんの言う通り、ムキになるようなことじゃない。

「わかりました。苧環さんの好きにしてください」

「ああ、言われなくても好きにするさ」

 勢い良く立ち上がり、苧環さんは部屋を出ていった。自分の推理が正しいかどうか、確認をしにいったのだろう。

 旅行先の旅館で、広い部屋の中で一人ゆっくりとした時間を過ごせているというのに、やはり気分は落ち込んだままだった。先の事件現場のことが、不意にフラッシュバックした。

 ここと同じ綺麗な部屋の中で、殺されていた四葩さんの死体。その、見開いた両目。だらしなく開いた口。苦悶に満ちた表情。半分脱げていた浴衣から覗く、胸に突き立てられた、鈍色に輝くナイフ。白い肌の上で、川のように流れた紅血。そこから垂れ落ちた血液で、赤黒く染まった畳。

 自然死でも病死でも自殺でも、そして事故死でも無く、誰かに殺された四葩さんの姿が、頭の中に巣食っていて離れない。頭を振って忘れようと意識をすればするほど、それは鮮明に思い出された。

 込み上がってくる気持ち悪さに何とか耐えていると、苧環さんが室内へと戻ってきた。随分と早い帰還だ。不快そうに口元を歪めていたので、自分の推理が間違っている事がわかったのだろう。

「まあ一発目で完璧に解決なんて展開もつまらないだろ。最初は少し見当違いな推理をするのもある種のお約束みたいなもんだ」

 聞いてもいないのに、苧環さんは自ずからそんな言葉を口にした。それが負け惜しみであることは自覚しているような、バツの悪い表情を浮かべた。自分なりに自信のあったトリックが間違いだった事に動揺しているのか、前回は無言で行っていた推理が今は独り言を呟きながらになっていた。

「名札の入れ替えが出来ない以上、弁護士先生は間違いなく鍵の掛かった部屋の中で死んでいたってことか。なら、殺して部屋を出て行った後で鍵を室内に戻したのか? でもキーホルダーが邪魔で外から中には入れられない。それじゃあ、キーホルダーだけを外して、糸のようなもの使って外から鍵だけを戻し、上手くキーホルダーの二重リングに通す? いや、金具を広げる必要があるんだから、糸なんかで出来るわけない」

 苧環さんは的外れな推理をしては自らそれを否定するという、ソクラテス式問答法を対話せずに行うという器用な真似をしていた。しばらくそんな状態が続いたかと思いきや、苧環さんが軽く笑顔を浮かべた。再び何かを思いついたようだ。おもむろに腰を上げた苧環さんは、警察官によって散らかされた小説を一冊拾い上げた。そしてそれを手にしたまま扉の方へ向かい、栞として使用する紐を輪状にして、鍵のサムターンに引っかけた。どうやら糸のようなものを使って鍵を掛けられるか試しているようだ。二十分程サムターンと格闘していたが、どうやらというかやっぱりというか、その試みは失敗したらしい。

 残念ながら苧環さんには、今朝に無断で拝借して読んだ推理小説の名探偵のような洗練された叡智も鋭い洞察力も持ち合わせてはいないようだ。それでも苧環さんは、めげずに次の推理に移行していた。

 というかそもそも、苧環さんは本当に先の二つの推理が正しいと思ったのか、甚だ疑問だ。もしかして、僕も容疑者の一人と考えているため、敢えて的外れな推理をして反応を伺っているのだろうか?

 そんな折、貴島さんが「お邪魔します」と部屋を訪ねてきた。

「あまり食事って気分じゃないかもしれないですけど、良かったら気分転換を兼ねてみんなで外にご飯を食べに行きませんか? 美味しいモノでお腹が一杯になれば少しは気分も晴れるかもしれませんし」

 今回の企画発案者ということで、きっと責任を感じているのだろう。その思いから、僕たちを少しでも元気づけようとそんな提案をしてきているのかもしれない。

 苧環さんはすぐに賛成するかと思いきや、恰好を付けたいのか少し渋った様子を見せていた。しかしそれも長くは続かず、結局貴島さんとの食事という目の前の誘惑に陥落していた。

「貴島がそう言うなら仕方ない」

 最後はそんな強がりを口にしていた。

 気を使ってもらっているのは有り難いことなのだが、正直、今はあまり食欲が無かった。それに加え、先ほどから苧環さんの視線による無言の圧力もひどい。目は口ほどに物を言うという諺を、身を以て体感していた。

「せっかく誘ってもらったのにすみませんが、僕は遠慮しておきます。こちらの事は気にせずに、どうぞお二人で行ってきてください」

 面倒事を貴島さん一人に押し付けるようで気が引けたが、僕は食事を断った。

 貴島さんは残念そうな、反対に苧環さんは愉快そうな表情を浮かべながら、二人で部屋を出て行った。

 一人残ったのは良いものの、室内を片付けるのはまだ億劫だったので、今朝と同様に苧環さんの持参した小説を勝手に借りる事にした。貴島さんと二人きりにしてあげたのだから、これくらいはしてもかまわないだろう。

 特に選びもせず適当に手にとった小説を開き、ページを捲っていく。どうやらそれは全十編の短編集だったようで、キリの良いところで読むのを止められやすく、都合が良かった。内容は今朝に読んだのと同じように、凄腕の名探偵がその推理力を持って謎を解き明かし、事件を解決するというものだった。

 短編集は死体の入れ替えという殺人事件のものもあれば、居なくなったペットの行方を探し当てるというほのぼのとしてお気軽なものもあった。四編を読み終えたところで時間を確認すると、既に四十分が経過していた。ただの昼食だけならあと十分かそこらで戻ってくるだろうと考え、そこで小説を閉じ、元にあった場所へと戻しておいた。

「はあ」

 溜め息を吐きながら、クッションに座った状態のまま軽く伸びをした。先ほど読んだ小説を読んだ影響だろうか、ふと事件について考えている自分が居た。

 どうして犯人は密室状況を作りだすという、そんな手の込んだ真似のしたのか。そして、何故こんな場所で四葩さんを殺したのか。それこそ、本当に推理小説みたいだ。その手の自称マニアである苧環さんが夢中になるのも、わからなくはない。そこには何かしらの意図があるのだろうか。その答えは、けれど幾ら考えても分かることは無かった。

 不毛な考えを打ち切って、それからはスマートフォンを弄って時間を過ごした。相変わらず回線は悪かったが、やはり文明の利器というのは素晴らしく、ネットサーフィンなどで適当に操作していれば、小説と同様に簡単に暇を潰せた。面白画像をまとめたサイトを映した液晶画面を見ながら、某知恵袋や某掲示板に事件の詳細や先ほど浮かんだ疑問を書き込めば、どこぞの名探偵が解答を教えてくれるかもしれないなんて、そんな馬鹿げたことを思った。

 一人になって五十分が経った頃、食事を終えた苧環さんが戻ってきた。

「有り得ない!」

 扉を荒々しく開閉して居間に入ってくるなり、苧環さんはそんな言葉を吐いた。見ると、その顔には怒りのようなものが滲み出ていた。貴島さんとの食事で何かあったのかもしれない。

 そこまでの関心が無かったのでこのまま放っておこうかと考えていたのだが、不平不満を誰かにぶつけたいのか、苧環さんは一人怒鳴った。

「貴島の奴、やっぱりあの息子とデキてやがる。まさかそんな奴とは思わなかった!」

 よくわからないが、その言葉から察するに、どうやら貴島さんと柘榴さんが恋人関係にあると思っているようだ。あまりにも脈絡が無さ過ぎるが、苧環さんの怒りは本物だったので、ちょっとだけ興味が湧いてきた。

「少し落ち着いてください。一体何があったんですか?」

 頭に血が上りすぎている事を自分でも自覚したのが、僕の言い分を聞き入れ、苧環さんは怒鳴るのを止めた。それからどすっと腰を降ろして、事の顛末を話し始めた。文句混じりの説明は実に十分以上に及んだ。内容を簡潔に言えばこうだった。

 実は貴島さんは柘榴さんにも声を掛けており、結局三人で食事をする運びになった。その席で、貴島さんは柘榴さんの隣に座った。柘榴さんは貴島さんの事を下の名前で呼び捨てにし、貴島さんの方も柘榴さんの嗜好を熟知していて、本人に聞かずして好みの飲み物を注文したりおかずに使う調味料を渡したりと、甲斐甲斐しく世話をしていたそうだ。

 まさかその程度の事で二人の関係を疑うなんて、いい年をした四十のおじさんの思考とは思えなかった。

「この取材旅行の打診に行っている時にご飯を一緒にする機会があって、たまたま憶えていただけかもしれませんよ。貴島さんはその辺りの気遣いというか接待というか、そういうのが上手ですからね。だいたい、貴島さんか柘榴さんのどちらかがそう言ってたんですか?」

「いいや。けど、あれは絶対にそうだ。お前はさっき来なかったから見てなくて分からないだけだ。それに、俺は決定的な場面を見てるんだよ」

「決定的な場面って、何ですか?」

「実は昨日の風呂上りの後、昼間のリベンジに一緒に飲もうと思って、そのための酒やらつまみを売店で買ったんだ。それを持って階段を上っている途中で、浴衣姿の貴島がタオルで髪を拭きながら、階段の前を横切って自分の部屋へと戻って行くのを見たんだよ。内湯は一階だし、室内には風呂もある。それなのに風呂上りのような状態で、階段を横切って部屋に戻るなんておかしいだろう。その時に思ったんだ。もしかしてさっきまであの息子の部屋にしけこんでたんじゃないかってな」

 昨夜のやけ酒はそれでだったのか。好意を持っている貴島さんをしっかりと容疑者に含めているのも、それが理由なのだろう。

 苧環さんの話を聞く限りでは、貴島さんが柘榴さんの部屋に行っていた可能性も否定できない。それどころか、寧ろその線が濃厚かもしれない。だが、決定的な場面と言うには程遠い現場だ。それに、両親でもないのに貴島さんの恋愛事情に口を出すのはお門違いである。

 失礼ながら、確かに貴島さんと柘榴さんは釣り合っていないとは思う。だが、柘榴さんには『四葩さんの財産』という魅力がある。あるいはそんなこと関係なく、貴島さんはああいった人が趣味なのかもしれない。親の脛ばかりを齧っているダメ人間であることが、逆に母性本能を擽るということもあるだろう。だから、二人が付き合っているというのも、可能性は零ではない。僕自身、前者でも後者でも、交際が事実ならショックを受けないと言えば嘘になる。しかしそれが貴島さんの意志ならば、諦めて受け入れるしかない。

 それに、本人は既にその気だったのかもしれないが、別に苧環さんは貴島さんと付き合っていたわけではないので、そこまで憤るのもおかしな話だ。そしてそもそも、本人に確認をしていない以上、それは苧環さんが勝手に想像しているだけで、本当に二人が交際しているのかは不明なままだ。にも関わらず苧環さんはそれがもう決定事項であり、まるで彼女の振られた彼氏といった様子で、この場に居ない貴島さんと柘榴さんに罵詈雑言を浴びせていた。愛の反対は無関心ではなく憎しみということなのか。

 僕はどうでも良くなって、この短絡的な先輩を冷ややかな目で見ていた。前から分かってはいたことだが、苧環さんは名探偵を目指している割には論理的な思考は苦手であることを、僕は再確認した。

 数時間前まで熱中していた探偵の真似事など頭から完全に消え去っており、苧環さんは怒りに震えていた。そんな先輩が腹いせで絡んでくる前に、この場から避難した方が良さそうだ。

 部屋の外に出ると、二階から三階にかけての踊り場にまで人集りが出来ていた。殺人事件の現場を間近で見る機会など、人生に置いて一度有るか無いかだろう。それ故に、誰しもが好奇心をそそられたり怖いもの見たさだったりで、ここまで足を運んでいるに違いない。実際に現場を見てしまった身としては、あんなのものは好き好んで観覧するものではないと思うが、野次馬の人たちにはまだ理解できないはずだ。それに僕ももし無関係の第三者だったら、同じようにしていただろう。ロビーにも数名の宿泊客が押し寄せていた。殺人事件が起こったのに対して文句を言っているようだ。その脇を通り過ぎる時に、事件の関係者である僕の顔を見たある夫婦が、ひそひそと話をしている事に気が付いた。何かよからぬ噂をしているだと分かったが、僕はそれを無視した。怒鳴り散らした所で、何ら意味を為さない。

 特に目的地は定めていなかったが、とりあえず山頂に向かうことにした。神様は信じていないが、それでも神頼みをすれば少しは気休めになるかもしれないと思ったからだ。

 外の暑さも山道を上る辛さも、今日はさして気にならなかった。木々の匂いも感じなかった。視覚だけでなく、その他のあらゆる感覚が全て麻痺をしてしまったみたいだ。

 そういえば古い実験で、目隠しをした相手にメスを当てて、そこに水を垂らすと、本当に血が失われていると感じて死んでしまうといったのがある。その他にも、催眠術を掛けた相手に焼け火箸と嘘を吐いて金属製の箸を当てると、本当に水ぶくれを起こしたというのも聞いたことがある。先の現象とは逆になるが、小学生の時に山登りが苦でなかったように、何かを感じるというのはやはり精神面によって大きく変動するらしい。つまり心頭を滅却すれば火もまた涼しという諺は真実ということだ。その心頭滅却を自在に操れれば、きっとこの心労からも逃れられるだろう。だが、僕がその境地に達する日は、おそらく永遠に来ることはない。

 御社に辿り着くと、今回も一名の先客が居た。着物姿にお団子ヘアーの女性が、賽銭箱の前でしゃがみこんでいる。

「五十鈴さん……ですか?」

 呼びかけると、その女性は顔だけでゆっくりと振り向いた。やはり五十鈴さんだった。

「東雲さん。どうしてここに?」

 立ち上がった五十鈴さんは目を丸くしていた。僕の来訪がそんなにも意外だったのだろうか。いや、きっと偶然出くわした事に少し驚いているだけだ。

「部屋に閉じこもっていても気分が沈むだけなんで、気分転換を兼ねて犯人逮捕の神頼みをしに来たんです。五十鈴さんは?」

「私も同じです。女将さんに休憩を頂いて、気晴らしの散歩と御社様に犯人が近く逮捕されるようにとお願い事をしていました」

「そうだったんですね。それじゃあ、本当に僕と同じだ」

 出来る限り明るく振る舞って、五十鈴さんの横に並んだ。事件の事を考えているのだろうか、五十鈴さんは目を伏せるように俯いた。小宴会場では出来なかったので、今回は何か気の利いた事を言えないか考えていると、先に五十鈴さんが口を開いた。

「あの……、こんな所でまで言う事じゃないのは分かってるんですけど、事件の事で東雲さんに聞きたいことがあるんです。いいですか?」

 正直、気分転換に来た場所でまで、事件についての話はしたくないという気持ちもあった。だが五十鈴さんも同じようであり、そのうえで問いたい事があるようなので、僕はそれを了承した。

「ええ、いいですよ。何ですか?」

「釣鐘っていう刑事さんに、大岩桐様のお部屋に入った時に違和感が無かったか、聞かれましたよね。その時、貴島様や東雲さんがわからないって仰ったので、私もつい同じように答えんですけど、実は違和感はあったんです。それで、東雲さんは本当に違和感が無かったのかお聞きしたくて」

「違和感、ですか? 僕は本当に何も心当たりが無かったんです。五十鈴さんは、一体どこがおかしいと感じたんですか?」

 五十鈴さんは、どこか言い難そうに恐る恐る返事をした。

「それが、よくわからないんです。ただ、後になって少し落ち着いてみると、あのお部屋は何かが変だったなって、そう思ったんです。自分でもどうしてそう思うのか分からないし、上手く説明できなくて」

 どうやら、五十鈴さん自身も、何に違和感があったのかを把握は出来てはいないらしい。

 違和感ならそれこそ沢山在るが、四葩さんの部屋の状況自体には、本当に違和感は無かった。だからもう一度、冷静に四葩さんの死体を見つけた時の事を思い出してみた。五十鈴さんに言われたからどうか、僕にもあの部屋の状況は何かがおかしかったように思えてきた。それでもやはり、その正体を掴むことは出来なかった。

「すみません。やっぱり僕には、変だと思う部分はわからないです」

 その返答に、五十鈴さんは残念そうに表情を曇らせた。自信の持てていない考えだったからこそ、僕に否定をされて気を落としてしまったのかもしれない。

「そう……ですか。こちらこそ、急に変な事を聞いてすみません。きっと、混乱してしまっているだけですね。本当は思い出したくもないのに、気づけば事件の事ばかり考えてしまっていて。それで表情も暗くなって、お客様にもちゃんとした接客ができないし。これでは仲居として失格ですね」

「あんな事の後じゃあ、暗い顔になるのも接客がぎこちなくなるのも仕方ないですよ」

「そうかもしれないですね。でも、それはお客様には関係の無い事です。お客様は大切な余暇を華里で過ごすために、わざわざ遠方から足を選んで下さっています。そして私たち仲居の仕事は、そんなお客様に充実した余暇を過ごして頂けるように尽力することです。それなのに、表情が沈んでいる仲居のまったく行き届いていない接客があったら、お客様には満足なんてしてもらえませんから」

 僕は正直、こんな時くらいは仕事も休んで、自分の事を一番に考えれば良いと思う。好き嫌いな部分もあるが、実際僕は先輩である苧環さんに気を使ったり出来ずに、無視をしたりキツイ口調をしてしまっている。そんな僕とは違い宿泊客の事を第一に考えているのは、五十鈴さんの仲居としてのプロ意識なのだろう。けれど、次の言葉には耳を疑った。

「こんな事を言ったら東雲さんに嫌われてしまうかもしれませんけど、だから私、犯人の事はとても怖いですけど、それ以上に憎いんです。それこそ、殺してしまいたいくらいに」

 穏やかな発言では無かった。旅館で穏やかな笑顔を見せていた五十鈴さんの口から『殺したい』なんて言葉が出てくるなんて、俄かには信じられなかった。

「殺したいなんて台詞、五十鈴さんには似合わないですよ」

 出来るだけ平常心を装いながら、僕は冗談めかして言った。しかし、五十鈴さんのそれは、紛れもない本心のようだった。

「物騒ですよね。でも私、本当に犯人が忌まわしくて。さっき言ったように、お客様は大切な余暇を満喫させたくて、そのために数ある旅館の中から華里を選んで宿泊して下さったんです。それなのに殺人事件なんて起きて。これじゃあ、楽しむなんて到底出来ません。それどころか『この旅館には殺人者が泊まっているかもしれない』っていう、普段なら絶対にしなくていい余計な不安まで与えてしまうんです。その所為で、お客様の余暇の全てが台無しになってしまう。現に、予定を早めてチェックアウトするお客様や、事態の詳しい説明を求めてくる方が大勢いらっしゃいます。それが、本当に許せないんです」

 そこまで思い詰めてしまうほど、五十鈴さんはきっと旅館の在り方というのに誇りを持っているのだろう。そしてそれ故に、五十鈴さんの中の様々な感情が、宿泊客の安息を阻害する犯人への憎しみに転嫁されてしまったかもしれない。

「そこまでお客の事を思えるなんて、すごいですね」

 それは、素直に口から出た言葉だった。途端、五十鈴さんは我に返り、照れたように首を振った。

「そんな、全然すごくなんて無いですよ。そもそも、こんな話をお客様である東雲さんにしてしまうなんて、それこそ仲居失格です」

「いえ、そんなことないです。すごいですよ。僕が仲居だとしても、絶対に五十鈴さんのようには思えない。宿泊客の事なんか少しも考えずに、ただ自分の不運を嘆いて自暴自棄になるのが関の山です。今だって本音を言えば、このまま無事に帰れれば犯人の逮捕なんてどうでもいいと思ってるような、身勝手な人間ですから」

「私は、東雲さんはそんな人じゃないと思います。それに、不運を嘆くのは私も同じです。日頃の行いは決して悪くないって信じていたんですけど、案外そうでもなかったのかもしれません」

「もし日頃の行いが関係してるなら、多分五十鈴さんじゃなくて俺の所為ですよ。大学で代返とか平気だし。それに高校の頃から試験前になったら授業のノートを友だちに借りて、勉強なんて全然せずにほとんど一夜漬けのその場しのぎでテストを乗り切ってばかり。いつもそんなことをしてるから、罰が当たったんです。五十鈴さんは、それに巻き込まれちゃっただけですよ。本当にすみません」

「もしそうだったら、東雲さんにはいつか責任を取ってもらいます」

 僕の冗談に五十鈴さんは、うっすらとだが微笑んだ。それは僕に気を使っているだけかもしれないけれど、それでも少しは元気が出たのだと思いたかった。

「そういえば、五十鈴さんはどうして仲居になろうと思ったんですか?」

 事件の事ばかりでは、せっかく笑顔を見せてくれた五十鈴さんが再び気が滅入ってくるかもしれないと思ったので、僕は話題を変えることにした。

「接客が好きだからっていうのもあるんですけど、一番の理由は私が小学生の時に出会った仲居さんの影響ですね」

「小学生の時から、仲居になりたいと思ってたんですか?」

「はい。私が小学二年の時、夏休みに家族旅行をしたんです。それで宿泊したのがとある旅館だったんですけど、そこで二日目に高熱を出してしまって。両親は勿論ですが、私たち家族の部屋を担当してくれた仲居さんも、色々と仕事がある中で、合間を見つけては部屋を訪れて本当に私たち家族を気遣ってくれたんです。幸い大した事も無く、翌日になって熱は下がりました。その時も、まるで我が子のように喜んでくれて。おかげで、両親も私も、旅行自体はちょっと予定が狂ってしまったんですけど、とても満足した気分で旅行を終える事ができたんです。その時に、私もこんな人に優しい中居さんになりたいなって、そう思ったんです」

 五十鈴さんは、少し頬を赤らめていた。こういう事を誰かに言うのは、恥ずかしいのかもしれない。自分から降った話だが、もう少し気楽な話題を選ぶべきだった。昨日の貴島さんの時といい、僕にはこういう能力が欠如しているようだ。

「そうだったんですね。だったら、五十鈴さんはもう十分に理想の仲居になれてると、僕は思いますよ」

「ふふ。東雲さんは、やっぱり身勝手な人間ではないですよ。さっきも、それから今も、冗談を言ったり褒めたりして私を和ませようとしてくれていますから。おかげさまで元気が出てきました、ありがとうございます」

 言われて、今度は僕が恥ずかしくなってしまった。だが、五十鈴さんが多少でも気が楽になったのなら、それに越したことは無い。

 暫しの静寂が流れた。

 それを、僕のスマートフォンの着信が遮った。こんな場所でも電波は届くんだなと感心しながら、スラックスのポケットからスマートフォンを取り出して液晶を見ると、貴島薊と名前が表示されていた。

 五十鈴さんに軽く断りを入れてから、僕は電話に出た。

「はい、東雲です」

「もしもし、貴島です。突然なんだけど、ちょっと話したいことがあるの。今どこに居るのかな?」

「今は山頂の御社の所です。話したい事って何ですか?」

「そうなんだ。だったら、電話ではちょっと長くなるかもしれないから、もし旅館に帰ってきたら私の部屋に来てもらってもいい?」

「良いですよ。わかりました」

「ありがとう。それじゃあお願いね」

 それで通話は終わった。話したい事とは一体何だろうか。昔見た刑事モノのドラマにあった、そうやって会いに行った先で本人が殺されていたという不吉なシーンを不意に思い出してしまった。頭を振ってその記憶を一蹴し、五十鈴さんに帰還を促した。

「そろそろ戻りましょうか」

「そうですね」

 二人並んで山道を下った。道中も、必要以上に事件の事に触れないように注意しながら、適当な雑談を交わした。結局神頼みはしなかったが、五十鈴さんのおかげで多少なりとも元気を取り戻すことが出来た。坂道を通る風が、涼しくて気持ちよかった。

 旅館のロビーで仲居の仕事に戻る五十鈴さんと別れた。受付に押し掛けていた宿泊客は、もう居なくなっていた。二階へと上がると、踊り場まで溢れていた野次馬の姿も、今はすっかりと無くなっている。この一時間足らずの間で、満足をしたか飽きてしまったのだろう。

『朝顔の間』を通り過ぎ、約束通り貴島さんの泊まっている客室である『天竺葵の間』の扉をノックした。間もなく扉が開き、貴島さんが姿を出した。貴島さんが無事に生きていた事を、胸の中で静かに安心した。

「突然ごめんね。どうぞあがって」

 言われるがまま部屋へと足を踏み入れた。室内の造りは、やはり僕たちの部屋と大差なかった。座卓の上には今日のインタビューで使用する予定だったはずの、仕事道具であるICレコーダーやボールペンなどが転がっていた。僕はそんな座卓を挟まずに、貴島さんと向かい合って座った。

「話って何ですか?」

「あ、うん。実は苧環さんなんだけど、暴走していないか心配で。あの人、ミステリーに嵌っているでしょ。だから、勝手に事件の捜査とか始めて、警察に迷惑をかけるような事をしないか不安なの。それをさっきの昼食の時に聞こうかと思ったんだけど、中々機会がなくて」

「それなんですけど……もう手遅れです。まだ警察に迷惑をかける所まではいってないと思うんですけど、事件は俺が解くんだって感じで、かなり意気込んでます」

 僕は苦笑いをして答えた。同様に、貴島さんも失笑していた。そんな貴島さんから、僕はもう一つ質問を受けた。

「あと一個だけ聞きたいんだけど、苧環さん、何でか食事中から急に不機嫌になってたみたいで。それで、部屋に帰ってから東雲君に何か言ってなかったかなと思って」

「ああ……、その事ですか」

 僕は怒髪天を衝いていた苧環さんの姿を思い出した。

「やっぱり何か聞いてるんだ。私、何か気に障るようなことでもしたのかな? 差し支え無かったら教えてもらいたいんだけど」

 柘榴さんとの交際を疑われているなんて貴島さんが気を悪くするかもしれなかったが、かといって変に隠してしまえばそれはそれで不安を助長させるだけだと思い、僕は正直に話すことにした。

「苧環さんは、どうやら貴島さんと柘榴さんが恋人関係にあると思ってるみたいなんです。さっきの食事の時に、柘榴さんも誘ってたんですよね。それで二人が親密そうに見えたり、昨日の夜、柘榴さんの部屋から風呂上りの貴島さんが出てきたと言い張ってました。貴島さん自身とっくに気付いているはずだから言いますけど、苧環さん、貴島さんの事が好きなんですよ。それで嫉妬というか焼き餅というか、そういうので怒ってるみたいで」

「あー、そうだったんだ」

 貴島さんは両手で口元を覆って、困惑したような仕草をしてみせた。

「昨日の夜も、見られてたんだね」

「もしかして、本当に付き合ってるんですか?」

 部屋で怒鳴り散らしていた苧環さんを白けた目で見ていた癖に、僕も思わず二人の関係性について質問をしてしまった。

「まさか。付き合ってなんてないわよ」

 苦笑するように言った後、貴島さんはまるで泣きそうな表情をして続けた。

「でも……、私が女性っていうのは利用した。親子仲は悪かったけど、息子の柘榴さんを介して、大岩桐先生へ接触したかったから」

 弱く、呟くような声だった。その言葉の意味するところは、すぐに理解出来た。何と声を掛ければ良いか分からずに返事にあぐねていると、貴島さんが僕に聞いてきた。

「昨日、私がダメな女性の部類に入るって言ったの、憶えてる?」

「はい。憶えてます」

「じゃあ、私が整形してるって噂は、聞いたことある?」

 まるで予期していなかった唐突な質問に面を食らいながら、僕は少し言い淀んで「はい」と小さく返事をした。

「あれね……本当なの。六年くらい前に、水商売をして必死に貯めたお金を手に美容形成外科に行って、顔にメスを入れたの。顔は整形してて、仕事に関しては身体を使うなんて、ダメな女性でしょ。有能なら、そんなことはせずにやっていけるもの」

 一転、貴島さんは明るい表情を見せた。それが作り笑いであることも、容易に理解が出来た。僕は何か言わなければという、使命感に似たようなものを感じていた。

「貴島さんが泊まっている客室の名前になってる、天竺葵の花言葉って知ってますか?」

 脈絡のない話に貴島さんは戸惑ったような顔をしていたが、僕はそれを無視した。

「花言葉って一つの花の中に色々あるんですけど、天竺葵の花言葉には『決意』っていうのがあるんです。貴島さん、やりたい事があるって言ってましたよね。そのやりたい事のために決意して頑張ってるなら、整形も身体を使った事も恥じることじゃないと、僕は思いますよ」

 それがどれほどの気休めになるかわからないけれど、出来るだけ笑顔で、僕は貴島さんに言った。

「ありがと。ところで、なんでそんな花言葉に詳しいの?」

「実家が花屋なんです」

「それ、嘘でしょ」

「嘘です」

「本当は?」

「自慢になるからあまり言いたくないんですけど、こう見えても僕、結構頭の出来が良くて、記憶力が高いんです。一度見聞きした事は滅多に忘れない性質でして、それで偶然憶えていただけですよ」

「あはは、確かに自慢だね。それは人には言わない方がいいよ」

 貴島さんは呆れたような笑いをみせた。しかしそれも束の間、表情はすぐに落ち込んだ。

「突然変なカミングアウトしてごめん。気を使わせちゃったね。それと……こんなことに巻き込んだのも、重ねてごめんなさい」

 最後の方が、まるで自分がこの事件の犯人であるような言い方に聞こえて、僕は動揺してしまった。それを悟られまいと、僕は素早く返答した。

「謝る必要なんてないですよ。大岩桐先生の事に関しては、そもそも貴島さんが悪いんじゃあないですし」

「うん。気分が塞ぎこむとダメだね。これじゃあ精神的に病んでる人みたい」

「殺人事件に巻き込まれて、疲れてるだけですよ。こういうときはゆっくりと休むのが吉です。というわけで僕が部屋にいたままじゃあお風呂にも入れないと思いますので、このあたりで失礼しますね」

 泣きそうな顔をしたまま貴島さんを残し、踵を返してこの場から離れた。慰めの一つも上手く出来ない自分の力不足を悔やみながら、僕も部屋へと戻った。

「情けないな」

 自嘲しながら室内に入ると、居間で苧環さんがふて寝をしていた。着ている服が捲れ上がり、丸く太った腹が出っ張っていた。灰皿には煙草の吸殻が大量に詰まっている。やはり寝像が悪く、蹴られたであろう座卓が斜めに傾いていた。警察の荷物検査と相まって、それは酷い有様だ。もし頭から血でも流して気絶していようものなら、例えそれが事故であっても、物取りの犯行と思われそうである。

――その時、僕は不意に、五十鈴さんが言っていた違和感の正体に気が付いた。

 ああ、そうか。あの部屋には争った形跡が少しも見当たらなかったにも関わらず、四葩さんの衣服は乱れていた。おそらくそれが、五十鈴さんの言っていた違和感の正体に違いない。

 浴衣が乱れていたということは、犯人と争ったかもしれないということだ。しかし実際には、部屋は少しも荒れていない。つまりあの部屋の中で、四葩さんの浴衣の乱れは不可解なのだ。

 犯人が四葩さんを殺した後に、わざわざ全てを元通りにした。これは考えづらい。ならば、浴衣の上からそのまま刺さずに、一旦着衣と乱すという一手間を加えた。だがこれも、凶器を手にしている相手が目の前にいれば、無抵抗で行えることはないだろう。となれば四葩さんは犯人とは争ってはおらず、けれど不審に思わずに着衣を乱す何かがあったということか。

 そこまで考えて頭を振った。僕は探偵でも何でもない、ただの大学生である。素人が探偵の真似事をしても疑心暗鬼になるだけなので、犯人の追及なんていうのは警察に任せておけばいいと、少し前に言い聞かせたばかりだ。知らないうちに、探偵気取りの苧環さんに感化されてしまっていたらしい。

 このままではさらに事件の推理を始めてしまいそうだったので、僕は部屋の片づけに手を付けることにした。もしそのままにしていても旅館側が掃除をしてくれるのだろうが、だからといって幾ら汚してもいいというわけではない。それに、流石に汚過ぎる。この部屋の汚さをみれば、それだけで五十鈴さんも気が滅入ってしまうはずだ。

 まず、散らかっている荷物を僕と苧環さんのもので分類する。着替えなどは簡単に畳んで、重ねておく。その際、何が悲しくておじさんの下着を畳んでいるのかを考え、事件とは違った気持ちの悪さを味わった。分類が完了した後は、鞄の中で荷崩れしないように順番に気を使いながら仕舞っていく。掃除を終えて気が付けば、陽が赤く染まり始めていた。

 七時半頃になって、昨日と同じように五十鈴さんが夕食を持って居間にやって来た。

「お待たせ致しました。本日の御夕飯でございます」

 その顔は、昨日のように穏やかな笑顔を浮かべていた。

「随分と顔色も良くなってきましたね」

「おかげ様で、何とか仕事に支障の出ない程度には回復出来ました。ご心配をお掛けしてすみません」

「いえいえ、とんでもない。それよりも、本当ならまだ休んでいた方がいいんんじゃないですか?」

「そうかもしれないですね。でも、じっとしているとまた塞ぎ込んでしまいそうになるので、忙しく働いている方が嫌な事を考えずに済んで気が楽なんです」

「そうですか。でも、くれぐれも無理はしないように気をつけてください」

「ありがとうございます。東雲さんこそ疲れている顔をしていますから、しっかりと食べて元気出してくださいね」

 二人分の御膳を並べ終えた後、五十鈴さんはゆっくりと部屋を出ていった。途端、黙って僕たちの会話を聞いていた苧環さんが、にやにやしながら話しかけてきた。

「お前も隅に置けないな。何時の間に口説いたんだ?」

「止めて下さい。別にそんなんじゃあないですよ」

「そうか。まあ、そういう事にしといてやるよ」

 聞く耳を持たず、苧環さんは勝手に決め付けてきた。貴島さんと柘榴さんの時といい、男女と見れば下種の勘繰りしかできないのかはわからない。ただ、これ以上の反論はおそらく無意味であり、しかも余計に苧環さんの誤解を助長させるだけになりそうだったので、黙って話を終わらせる事にした。苧環さんも必要以上に僕との会話を続ける気はないようで、興味は既に夕食へと移っていた。

「腹が減っては戦が出来ぬというし、推理の前にまずは腹拵えをしておかないとな」 

 そういって夕食へと箸を付けた苧環さんは、十分と掛からずにそれを完食した。一方で僕は、ようやく普段通りになってきてはいたものの、それでも食事を取る気にはなれなかった。せっかく調理をしてくれた板前さんや僕の身体を気遣ってくれた五十鈴さんには申し訳ないが、やはり食欲は湧かないのだ。

「お前は食べないのか?」

 お茶を啜りながら、苧環さんが言った。

「食欲が無いので、大丈夫です。もしよかったら僕の分もどうぞ」

 後半は冗談のつもりだったのだが、苧環さんはそれを真に受けて、本当に僕の分もぺろりと食べ切ってしまった。体型にも納得だ。碌に運動もせずにそれだけ食べていたら、それは太るに決まっている。

 夜の帳もすっかりと落ちて、あと一時間程で日付も変わろうとしていた。警察関係者も、現場の監視するための数名の制服警官を残して、この旅館からもう立ち去っていた。明日の朝にはまた警察がやって来てまた騒々しくなるだろうが、今は殺人事件が起こったとは思えないくらいに静かになっていた。

 今日も苧環さんは室内露天風呂、僕は内湯で風呂を終えた。

 頬杖をついて、居間から外を眺めていた。今宵も月は大きい。その月に照らされた山林と、その合間の向こうに見える街の微かな明かりが覗く夜景は、どこか幻想的で綺麗だった。

 苧環さんは煙草をふかしながら、推理小説の後半部分だけを読んでは次を手にするといった事を繰り返していた。もしかすると謎解き部分だけを見て、この密室事件の推理の参考にしているのかもしれない。

「最初の死体は実は精巧な人形で、警察が来る前に本物と入れ替えた。いや、手提げの旅行鞄にそんな大きさの荷物は入る訳無いから不可能だ」

 苧環さんが呟いた。その入れ替えトリックは、僕が勝手に拝借した短編集のトリックとほとんど同じだった。どうやら探偵になるという熱意を取り戻し、本当に過去に読んだ推理小説のトリックを参考にして思考するという、斬新な推理方法を取っているらしい。僕はふと、貴島さんの誕生日プレゼントだったという、今朝読んだ推理小説の事を思い出した。あの小説では、死んでいない相手を眠らせて死体と錯覚させ、後から本当に死体にしていた。つまり、本当は密室殺人では無かったのに、後からその事実を作り出したのだ。となれば苧環さんは、もしかすると次は『実は食事に睡眠薬を盛って眠らせていて、実際に殺したのは合鍵で部屋に入った後だった。ナイフを刺したのは真っ先に部屋に入った人物の五十鈴さんである』なんて推理をするかもしれない。

 そんなことを考えていると不意に、この事件の犯人について、ある不吉な可能性が思い浮かんだ。まさか。そんな馬鹿な事があるわけがない。しかしそう考えれば、四葩さんの衣服の乱れにも説明を付けることは出来る。

 苧環さんが、本日の推理を諦めて寝室に向かった。僕は愛想の一つも出来ずなかった。

 頭を振って、考えを忘れようと意識すればするほど、逆にそれは頭の中にこびり付いて離れなくなった。どうしてこんな考えを持ってしまったのだろう。ただの思い過ごしであって欲しいという気持ちと同時に、けれどそれが間違ってはいないという確信めいた想いもあった。

――四葩さんを殺したのは……貴島さんだ。

僕は、目の前が真っ暗になったような感覚を覚えていた。

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