2話
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バルコニーの向こうでは、沈みかけた夕焼けが木々の緑や川の青を朱に染めていた。秋の紅葉みたいな鮮明な赤色ではなかったが、それとは異なった赴きがありとても綺麗だった。そしてそれ以上に、その大元となっている夕焼けの、朱になった木々の隙間からより鮮やかな緋色を覗かせている様が、都会での夕日とは違って見えて新鮮だった。
そんな夕暮れ時、五十鈴さんが夕食を持って部屋にやって来た。すっかりと目が覚めていた苧環さんと僕の正面に豪勢な料理の乗ったお膳を置き、夕食のメニューについて簡単な説明をしてくれた。奥から手前に、向かって右上から海老と銀杏と鶏肉の入った茶碗蒸し。大根おろしとレモンが添えられた太刀魚の塩焼き。エリンギと三つ葉のお吸い物。中央から季節の果物のシャーベット。マグロ、サーモン、タイ、ホタテの刺身盛り。旬野菜の生ハム包み。左上から、六分割された小皿に胡瓜、人参、白菜、大根、牛蒡の漬物。南瓜と椎茸と里芋の煮付け。山菜の炊き込みご飯、と並んでいるらしい。
「明日の朝食は、何時頃にお運びいたしましょうか?」
「そうだな……それじゃあ七時半で頼む」
時間に不満があるわけではないのでいいのだが、やはり僕に意見を求めることなく苧環さんは勝手に決めた。ともすれば僕の事など眼中に入ってないみたいだ。
「承りました。それでは明日の朝食は七時三十分に御持ちさせて頂きますので、よろしくお願い致します。またお食事を終えた後は、内線で連絡くださればすぐにお片付けに伺いますので。それではごゆっくりお楽しみください」
五十鈴さんに軽く会釈をし、彼女が部屋から出て行くのを見送ってから、僕はそれらの食事に箸を付けた。
軽く塩を振っただけの生ハムでトマトやサヤインゲンを巻きつけた前菜はお手軽感があるものの、絶妙な塩加減が旬の野菜の味を際立たせ素材本来の味を堪能させてくれた。お吸い物は透き通った出汁から漂う香りが奥深くも、舌に無駄な雑味を残さないあっさりとした味わいをしている。お刺身は新鮮なものを使用しているのだろう、脂ののりが良く、どれも身が引き締まっていて噛むほどに味が広がっていく感覚を覚えた。太刀魚の皮はパリッとしているものの身は箸で簡単に切れるほどに柔らかく、風味を残しながらも少しの租借だけで口の中から消えてしまうほどだ。煮付けは少しからめな味付けをしているが、程よく舌を刺激してさらに食欲を増進させる効果を持っていた。シャキシャキとした漬物はどれもしっかりと味が漬かっていて美味しいながらも、ちゃんと口直しの役割を果たしている。山菜の炊き込みご飯はふっくら炊きあがったお米が材料の味をしっかりと内部に吸収してその味を増大させていた。デザートのシャーベットは梨から作られており、ひんやりとしていて爽快な舌触りがこの料理の集大成として胃袋を満足させてくれた。つまり、どれも美味しかった。
食べ終わった後は、五十鈴さんに言われた通り内線で連絡をして、空いたご膳の片付けをしてもらった。その際、寝室に布団も敷いてもらった。これでいつでも床に着く事が可能だ。
「それにしても、今回の取材は気が乗らないな」
居間でゆっくりしていると、煙草を吸っていた苧環さんがそんな事を言った。
「どうしたんですか急に?」
「だって、俺たちが作っているのは半分以上がゴシップ記事の二流雑誌だぞ。それを世間が話題にしている裁判だからって、ウチで真面目に扱うような内容じゃない。もし取り上げるなら、読者が喜びそうな、裁判関係者の噂話程度のゴシップネタにするべきなんだ。それなのに貴島はジャーナリズム精神が疼くのか、悪を成敗するみたいな感じで時事ネタの記事を書こうとする。けど、そんなものは一流の週刊誌にでも任せておけばいいんだ」
煙を吐き出しながら、苧環さんが愚痴をこぼした。
確かに、弁護士の糾弾記事というのはウチの出版物には似つかわしくないのは事実だ。自分のためになるような情報は薄い、本当に暇潰しのためだけのような芸能人の整形疑惑やら政治家のカツラ疑惑、それから嘘か本当かもわからないアイドルの裏事情に風俗情報などの記事が主流なのだから。
それでも苧環さんが言うように、貴島さんはウチの雑誌においてもしっかりと取材をし、不正や悪事を追及するような記事を書くことを努力している。以前本人から聞いたことがあるが、貴島さんは他人を蹴落とすような悪事を許せない性分らしく、そういった記事を載せて少しでも世間的な制裁を受けてもらいたいらしい。
そのように貴島さんは、四葩さんとは真逆の性質であるのだ。ただこれも、四葩さんから言わせればきっと、自己満足という利益追求の一環としてしか捉われないのだろう。明日のインタビューでは、きっと相当な意見の相違が発生するはずだ。
とはいえ今回に限っては、事前に本人のチェックが入るから過激に書けないと本人が口にしていた。それに、あれだけ自己利益の追求について語っていた四葩さんの事だ。自身で事前にチェックする以上、自分に不利益な記載はほとんど認めないはずである。それでは、貴島さんの望むような出来栄えにはなるはずもない。幾ら過去の裁判についても言及するとはいえ、今までに貴島さんが書いていたものとは程遠い、出来レースのような内容の記事になるのは目に見えている。
「それじゃあ、何で部長は今回の取材に許可なんて出したんですかね?」
「そりゃあ貴島の企画だからに決まってるだろ。しかも今回は特に熱心に部長を口説いたって噂だしな。俺だって幾ら旅館に泊まれるとはいえ、貴島から誘われなかったら来なかったよ。仕事とはいえ、虫唾の走る弁護士先生や、働きもしないで苦労の苦の字もしらないような息子に媚び諂うのも面倒だしな」
吐き捨てるように苧環さんが言った。その口調には憎しみや軽蔑のようなものがこもっているように感じたので、僕の知らないところで大岩桐親子と何か合ったのかもしれない。それとも、単なる偏屈か。
ちなみに、部長というのは僕のバイト先である葉陽社第一編集部の椿部長の事で、苧環さんと同様に貴島さんに鼻の下を伸ばしている社員の一人だ。貴島さんに色目を使われて簡単に説得された部長の姿を、僕は容易に想像できた。
「特に弁護士先生の方が気に入らないんだ。いっつも人を見下した態度を取りやがって。自分の事を何様だと思ってやがるってんだ」
「随分と断定的な言い方ですね。もしかして、大岩桐先生と面識があるんですか?」
「ああ……、昔は俺もカメラマンじゃなくてライターの方をやっていたんだ。その時にあの弁護士先生とは仕事をした事があってな」
どうやらただの僻みではなく、本当に四葩さんと過去に一悶着あったようだ。僕は興味が出てきたので、そこについて突っ込んでみた。
「昔はライターだったんですね。それよりも、大岩桐先生と仕事をしたって、どういうことですか?」
「今回同行している弁護士先生が悪徳弁護士なのはお前も知っているだろう」
「ええ、もちろん」
本当は今日初めて知った事実だが、話の腰を折ってはいけない。少し声が上擦ってしまったが、苧環さんは気にした様子もなく続きを話した。
「あの弁護士先生がやる裁判はいつも、世間でいう加害者の弁護だ。だからマスコミは基本味方になっちゃくれない。そこで目を付けたのが、ゴシップ記事なんかを中心にしている二流雑誌――つまりウチみたいな出版社だ。お前はバイトだし、過去の出版物の内容について細かく確認してないから知らないだろうが、弁護士先生は姑息な手で裁判相手の裏情報や弱みを掴んでは、小金を渡してウチにその情報に関する面白おかしい記事を書かせていた。『哀れな被害者が一転、知られざる裏の実態』ってな感じだ」
「仕事をしたって、そういう事ですか。けど、お金を渡してまでそんな記事を書かせるのに、どれほどの意味があるんですか?」
「所詮は読者の少ない二流雑誌のゴシップ記事と侮るなかれだ。そんなでも一度記事に出ると、誰かの目に留まりさえすれば、今の世の中では簡単に世間へと拡散していく。他人の悪事は善事よりも簡単に興味を引くから、その分だけ悪い噂話は好まれるし、無責任に他人を貶めてもネットならその匿名性も高い。インターネットやSNSの普及の弊害だな。それに、敢えて記事にするのは、裁判では追及する手段の一つとして案外使えたりするかららしい。相手も場末の週刊誌にまでチェックが行き届かないし、もし目聡く見付けても、噂話を真に受けて証拠も無しにゴシップ雑誌が勝手に騒いでいるだけだって思うことがほとんどみたいだ。それで高を括って知らぬ存ぜぬを通そうとしたところに、これまた姑息な手段で手に入れた証拠を突きつける。そうやって相手に対する裁判官の心証を悪くさせながら自分の有利に進めるって算段だ。まあ兎に角、そうやって自分が毛嫌いしているマスコミも、自分の思い通りに利用してたって事だ」
なるほど。確かに、四葩さんならそういうことも平気で行いそうだ。マスコミを嫌ってはいるが、その影響力は認めていた。それらを思い通りに動かして、自分に都合の良いように利用しているのだろう。四葩さんの言う、自己利益の追求というやつだ。
「かくいう俺も、それに関わっていた口でな。だが、八年くらい前に息子の起こした婦女暴行事件についての記事を書いたのが転機だった。いつものようにウチは弁護士先生から小金と情報を貰って、記事を書く事を依頼された。俺はそのまま会社の方針に従って、その事件の相手だった女子高生を貶めるような記事を書いたよ。そしたらさすがに世間の批判が強くてな、それを知ったあの弁護士先生は、もう少しまともに記事が書けないのかと俺の事を見下すような目で見てきたよ。以来、弁護士先生は葉陽社との関係は断ち切って別の出版社を利用するようになり、俺はカメラマンに格下げだ」
苧環さんは、苦虫を噛み潰すような表情で語った。過去の自分の行いを悔いているのか、それとも単に四葩から見下された事に腹を立てているのかは分からない。
一つだけ分かるのは、その話の内容が、僕にとってとても不愉快だった事だけだ。自分から突っ込んだ話だが、聞くべきでは無かった。
大体、マスコミが金と引き換えにその相手に都合の良い記事を書くというのは、非難されて然るべき行いである。貴島さんが正義の代弁者のような記事を書き続けて、そして今回の取材旅行を企画発案したのは、葉陽社への無言の抗議なのかもしれない。そして逆に、貴島さんでも過激な記事が書けないと知った葉陽社にとってこの旅行は、四葩さんへの接待。もう一度自分たちを利用して小金を恵んでくれと、無言でゴマを擦っているのかもしれない。
だが僕は所詮、会社の方針や仕事内容について口を出すべき立場にはない。四葩が言ったように、バイトであろうが何も言わずにその会社に属している時点で、経営方針に同意している事に等しいのだ。それが嫌ならば、組織から外れるか、何かしらの方法を以って異議を訴える他にない。
僕は会話を切り上げて、気を休ませることに集中した。苧環さんが居る状態で室内露天風呂を使う気分には慣れなかったので、内湯に行く準備をした。
「苧環さん。それじゃあ僕はお先に風呂に失礼します」
三本目の煙草に燻らせている先輩に報告だけして、僕は貴重品と着替えの浴衣やパンツ、それからタオルを持って部屋を出た。
内湯は一階の南側の端に設けられている。階段を降りて受付とラウンジを横切り、その先の少し細くなった廊下を進んだ。そこを抜けると、再び開けた場所に出る。そこには旅館お決まりの卓球台が二台置かれている遊技場で、今は片方が使用されていた。使用しているのは中の良さそうな一組の恋人だった。彼女との旅行なんて羨ましい限りだ。男女ともが浴衣姿なので、お風呂上がりの運動をしているのだろう。せっかくだから僕も風呂を上がった後に貴島さんを誘ってみようかという下心が生じたが、それは即座に却下した。これではまるで僕も、貴島さんに対して特別な感情を持っているみたいだ。頭を振って、急に浮かんだ変な思いを振り払った。
遊技場を抜けるとすぐに、向かって右手側に白字で『男湯』と書かれた紺色の暖簾が見えた。当然ながらその横は赤い暖簾に『女湯』と書かれているが、そこは一生足を踏み入れることの叶わない桃源郷だ。実はこの先が混浴であるというような幸福があればまた気分も違うのだが、現実はそんなに甘くない。
暖簾の先の脱衣所で脱いだ服を雑に入れた籠と手荷物を棚に仕舞い、早足で引き戸を開けて内湯へと入った。洗い場でシャンプーと石鹸を使ってしっかりと全身を洗ってから、温泉の張られた浴槽に浸かった。僕には少し熱く感じたが、数分も経てばすぐに慣れた。宿泊客のほとんどはあの室内に設けられたお風呂を使うだろうと思っていたが、内湯を利用している人は僕を含めて五名と思ったよりも多く居た。尤も僕はストレートなので、同性の裸など見ても何も感じないし嬉しくもない。
内湯は中からも景色が楽しめるように、壁の大部分がガラス張りになっていた。肩まで浸かった温泉の中から、雲の無い夏の夜空を観賞した。あと一週間くらいで満月になりそうな上弦の月は、僕が住んでいる街で見るよりも大きく映った。普段は見えづらいその周りで小さく煌いている数多くの星も、今日ははっきりと視界に捉えることが出来る。そんな上空を見て、僕は空をとても近く感じた。気が付くと、届くはずの無い月につい右手を伸ばしていた。指先に付いた水滴が、月明かりで光っているような気がした。それは徐々に落ちてきて、右腕から伝って私の顔に流れた。右頬が、少しだけ温かくなった。
旅館の先の頂上では、願いを叶えてくれるという御社がある。貴島さんも、叶えたい願いがあるらしくお参りをしていた。世の中には、そんな人々が大勢居るはずだ。そしてそういった想いが、大岩桐さんの言う利益の追求に繋がっていくのだろう。では、欲しいものをちゃんと自分の手に掴める人は、果たして世の中にどれくらい存在するのか。唐突に、そんな哲学的なことを考えてみた。けれど僕の拙い思考能力ではその答えなんて出せるもはず、気が付けば結構な時間浸かっていたようで、もうちょっとでのぼせかけていた。急いで浴槽から出ると、部屋から見た夕焼けのように自分の肌が真っ赤になっていた。おそらく顔も、相当に赤くなっているだろう。
「危なかったなあ」
独り言を呟きながら脱衣所で濡れた身体を拭き、浴衣に身を包んだ。使用したバスタオルは首にかけた。
遊戯室には、先ほどの恋人はもう居なくなっていた。無人の遊戯室を横切って、僕は売店へと向かった。レジ横にあるクーラボックスの中から、瓶の牛乳を購入した。売店の脇に設置されていたゴミ箱にビニールと紙キャップを捨て、小学校以来になるそれを腰に手を当てながら一気に飲み干した。こういったことをするのは初めてだが、やはり温泉の後は牛乳の一気飲みというのが日本の文化だ。
「葉月君、気持ちの良い飲みっぷりだね」
見ると、そこには僕と同様に浴衣姿をした貴島さんが、口を開けて笑っていた。微かに漂うシャンプーの甘い香りが鼻先を擽る。まだ微かに濡れている黒髪と浴衣から覗く火照った身体が、妙に色っぽかった。
「お風呂上がり? っていうか、顔も身体もすごく赤くなってるけど大丈夫? まさか火傷とかしてないよね?」
「あ、はい。大丈夫です。ちょっとのぼせかけただけで」
思わず緊張して早口になってしまったが、貴島さんはそんな僕の動揺を気にする様子は無かった。内心でほっとしながら、軽く深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。
「貴島さんもお風呂上りですか?」
「ちょっと時間は経ってるけど、一応はそうだよ。で、東雲君と同じように牛乳を買いにきたの。やっぱり温泉でゆっくりとした後は牛乳だよね」
「あ、じゃあ僕が奢りますよ。昼間の団子のお礼です」
返事を聞いてからでは笑顔で断られそうだったので、僕はさっさと目的のものを購入し、十分に冷えたそれを手渡した。
「気にしなくてもいいって言ったのに」
「今時古臭いかもしれないですけど、やっぱりああいう場面では年齢に関係なく男が奢るべきだと思ったもので。そうは言っても、お団子の半分以下の値段なんで結局格好はついてないんですけどね」
「恰好がついてないってことは無いけど、確かに少し古臭いかも。何だかサラリーマンのおじさんみたい。でも、せっかくだからお言葉に甘えさせてもらおうかな。ありがとう」
貴島さんは笑いながら、僕の牛乳を受け取ってくれた。ともすれば、僕よりも勢いよく一気飲みをした。
「んー、冷たくて美味しい。身体に染みるね」
「発言だけ聞くと、貴島さんの方がサラリーマンのおじさんみたいですね」
「私から先に言っといてなんだけど、それは地味に傷付くかも。大岩桐先生も居るし、セクハラで訴えるよ」
そんな冗談を言いながら舌先で唇を拭った仕草が無性に官能的に見えて、再び緊張してしまった。
それが天然なのか意図的なのかはわからないが、貴島さんはこのように、もしかすると自分に気があるのかもしれないと錯覚させるほど、男性に対してツボをつくのが上手い。恋愛経験は皆無ではないが決して豊富でもない僕などは恰好の餌食であり、実際、採用当初は勘違いする寸前だった。部長や苧環さんなどはもっと酷く、本心で好意と持たれていると考えている節さえある。貴島さんは女性への態度も悪くないのだが、そういった男性の扱いの上手な部分が、おそらくは同性から嫌われる要因でもあるのだろう。
四葩さんと昼間に話をした時、彼はマスコミから逃れてゆっくりしたいと答えていたが、実は貴島さんの色香に惑わされ、手の平で良いように転がされているだけかもしれない。
「それにしてもいい旅館ですね。日野さんが見つけたんですか?」
場を持たすために取り敢えずそんな事を言ってみた。
「ううん。ここを予約したのは私だよ。旅行が趣味で、暇があれば色々な場所に行ってるから、旅館には結構詳しいの。ここも以前、一度だけ利用したことがあってね。それで、今回に丁度いいと思って部屋を取ってもらったの」
「そうだったんですか。趣味も仕事に活かすなんて、出来る女性は違いますね」
「偶然よ、偶然。それと有能みたいに言ってくれるのは嬉しいけど、私はそんなんじゃないわよ。私は多分、ダメな女性の部類に入ると思う」
俯きがちに貴島さんが答えた。これ以上は踏み込んではいけない領域になりそうだったので、僕は慌てて話題を変えた。
「そういえばけっこう今更なんですけど、どうして貴島さんは就職せずに、ずっとバイトのままなんですか。それこそ、うちから何度も正社員に誘われてますよね?」
言ってから、あまり上手い方向転換ではなかったと思った。それでも、振ってしまったのだから手遅れだ。
「あー、それね。結構色んな人から同じ事を聞かれるんだけど、やっぱり変かな?」
「変ってわけじゃないですけど、能力は申し分ないから疑問ではあります。だって、社員になった方がバイトより安定する部分も多いですよね」
「その安定っていうのが、あまり好きじゃないんだよね。安定っていうのは、言い換えれば地に足が着いてるってことになるじゃない。葉陽社で働いてるのは勿論やりたい事があるからだけど、もしその途中で別のやりたい事。壮大な言い方をすれば、生きる目的みたいなのが新しく見つかったら、すぐにそっちに道を変えると思う。でも正社員として働いていたら、見つかった瞬間に道を外れるっていうのが難しいでしょ。だから、今はまだアルバイトのままでいいの」
五十鈴さんは笑っていたけれど、何故か僕の目には、その表情が不思議と悲しそうに映った。多分気のせいだ。僕は話を続けた。
「じゃあ、新しくやりたい事を見つけたら、すぐに葉陽社を辞めるつもりってことですか?」
「そういう事。でも、これは社員の人には内緒だよ。そんなことがバレたら、バイトとはいえクビになっちゃうかもしれないし」
「誰にも言わないので、安心してください。ところで、貴島さんのやりたい事って、ジャーナリストになって悪事を暴くことじゃないんですか?」
「え? どうして?」
貴島さんはきょとんとしていた。どうしてそう思われているのか、まったく分かっていない様子だ。
「だって前に、どうしてウチみたいな雑誌でわざわざ社会派な記事を書くのか質問した時、人の人生を壊すような悪事を働いておいて、何の罰も受けずにいるのが嫌いだからって僕に言った事があるじゃないですか。だからですよ」
「そんな事まだ憶えてたんだ。恥ずかしいなぁ。でもあれは、単に性格上の好き嫌いの問題っていうだけだからね。実際、悪人を捌きたいなら警官になった方が手っ取り早いと思うよ。まあ、警察が本当に正義の味方がどうかはわからないんだけどさ。って、話が逸れたね。残念だけど私はジャーナリストになりたいわけじゃないんだよ」
「だったら、今やりたい事って何なんですか?」
「秘密」
右目でウインクをしながら、五十鈴さんは人差し指を口元に立てた。
のぼせる直前まで風呂に浸かっていて本当に良かったと思った。おかけで、顔が熱を持っているのを誤魔化せる。
「さっきから東雲君ばかり質問してるから、今度は私の番。東雲君は、どうして葉陽社でバイトをしようと思ったの? 東雲君の方こそ、将来はジャーナリストになりたいとか」
「いえいえ、そんな大層なもんじゃありませんよ。僕の場合は、一人暮らしをしているアパートから徒歩圏内で、基本大学の無い土日のみの勤務でも可能っていうので選んだだけです」
「こんな事を言ったら失礼だけど、本当に大層な理由じゃないね。でも、それくらい単純な方が気楽でいいのかも」
「確かに単純ですけど、気楽ではないですよ。求人広告には見事に騙されました。バイトに採用されて土日出勤のみで良かったのなんて最初の一ヶ月くらいで、それ以降は暇さえあれば呼び出される毎日ですよ。良かった事と言えば、この業界の人達と知り合いになれたおかげで、個人的に知りたい事があればその人脈を活用できるってことくらいですかね。それ以外は、苧環さんは意地悪だし重労働だし、本当にデメリットばかりです。あ、僕の方も告げ口はしないでくださいよ」
「あはは。心配しなくても、私も口は堅い方だよ。でも、そんな不満があるのに辞めずに頑張ってるんだから、十分に偉いと思うよ」
そう褒めてくれた手前、二ヶ月目に辞めなかったのは貴島さんの魅力にほだされていたからで、その翌月からはもう仕事に慣れてきて辞めるのが面倒臭くなったからとは、口が裂けても言えなかった。
それからは、のらりくらりと適当な雑談を交わした。
「あ、もうこんな時間。つい長話になっちゃったね」
左手首に着けた腕時計を見て、貴島さんが言った。気が付けばすっかりと閉店の準備を始めていた売店を離れ、それぞれの客室へと戻った。
室内露天風呂を利用したのだろう、居間では浴衣姿になっていた苧環さんが缶ビールを煽っていた。座っているクッションの周りには、おつまみの容器と空になったビール缶が三本散らかっている。つまり、今飲んでいるのは実に四本目になるということだ。明日は仕事あるのにあまりにも飲み過ぎである。見ると、苧環さんは陽気とは正反対の、とても暗い顔をしていた。僕が内湯に行っている間に何かがあったのか、どうやらやけ酒をしているようだ。僕が旅行で解放感を持って五十鈴さんに話し掛けたように、もしや苧環さんも気が大きくなり、貴島さんを押し倒そうとして見事な玉砕をしてしまった。いや、まさか。首を横に振り、不謹慎な考えを消し去った。
しかし、どうして苧環さんは不機嫌になっているのだろうか。直接質問をしてみようかとも考えたが、ここでそれに触れると、苧環さんの導火線に火を点けて爆発させてしまうことは自明であった。
暫しの逡巡の後、昼間にあった溜め息事件の失敗も活かし、僕は現代の若者らしく事なかれ主義の誘惑に負けることに決めた。それに、もしかすると僕の考え過ぎで、ただ単に苧環さんが変な酔い方をして険しい顔になってしまっているだけかもしれない。取り敢えず、触らぬ神に祟りなしだ。
苧環さんを刺激しないようにゆっくりと襖を開けて寝室を見ると、二組の布団が横並びで隙間を作って敷かれていた。僕はくっついていなくて良かったと心から安堵した。部屋に置いたままにしていた安物の腕時計を確認すると、時間は二十二時を少し過ぎた所だった。いつもならこの時間に眠くなることは滅多にないのだが、昨夜の急な旅行の準備による寝不足と朝からの荷物持ちによる疲労があったため、体感では深夜三時頃並に眠い。
「すみません。僕は先に失礼します」
酒に溺れている先輩に断りを入れてから、僕は布団の中に潜った。柔らかい毛布が全身を包んで気持ち良かった。
仕事が始まる事もあり、明日からの事が多少心配になった。それでも何事も無く楽しめる旅行になることを祈りながら、僕は静かに意識を放棄した。