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模倣事件  作者: 初心者
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1話

拙文ですが、楽しんで頂ければ幸いです。

                   1


 夏休みに突入してあっという間に三週間が過ぎた八月の下旬。何とか気流や何とか現象とか、僕にはよく分からない仕組みを解説しながら、テレビに出ていた気象予報士は「今年は例年よりも暑くなるでしょう」なんて言っていた。難関試験を合格しただけあり、その予報は見事的中。真夏日が連続する暑い夏休みが訪れた。僕は涼しいからという理由で、バイト以外の暇な時間を大学の図書館で過ごした。花や動物の百科事典に文芸書や小説など、目に付いた本を適当に手に取っては読み進めるという、そんな日々だった。こんな夏は避暑地にでも行ってゆっくりしたいなんて、ぼんやりとそう願っていた僕に神の恵が施されたのは、つい昨夜の事である。

「日野君が熱を出したらしくて無理になったから、葉月君もし暇をしていたら付いてきてくれない?」

 夕食のカップラーメンが出来上がるのを扇風機の前で待っていると、バイト先の先輩である貴島さんから、そんな電話が掛かってきた。僕がバイトをしているのは、葉陽社という名前の出版社だ。電話の内容は、隔週で発行している雑誌の記事を書くため、取材という名目で県外の旅館に行く予定だったが、そのメンバーに欠員が出てしまった。そこで、僕にその穴埋め要員を務めて欲しいというものだった。

 大学が休みで暇だと思われたのかどうかは不明だが、それはつまり、僕は会社のお金で旅館に宿泊できるという事だ。勿論ただの雑用係としてこき使われるのは明白だったが、図書館で無為な一日を過ごすよりは断然に有意義だと考え、二つ返事でそれを承諾した。斯くして、僕は二泊三日の取材旅行のご相伴に預かることになったのである。

 そして現在、僕は炎天下の中で五人分の荷物を抱えながら、宿泊予定である旅館の送迎車を待っていた。一つ一つは小型の旅行鞄程度の大きさだが、それが五人分になるとそこそこな重量になる。動かずとも多くの汗が流れ出るこの状況に至って、僕は少しの後悔をしていた。一番の下っ端で雑用係とはいえ、この扱いは酷い。本当はそのような文句の一つでも言いたかったが、けれど甘んじてこの立場を受け入れていた。

「いやー、俺たちの分まで荷物持ちをしてもらって悪いな」

 咥え煙草でにやにやとした意地悪な顔を浮かべ、その人は思っても無いだろうことを言った。同行者の一人の苧環さんである。彼は僕とは違い葉陽社の正社員で、役割はカメラマンだ。黒と赤のボーダーのTシャツと青のジーンズ。日頃の不摂生が垣間見える中年太りであり、何も荷物を持ってない癖に僕以上に汗を掻いている。四十代半ばということで少しの加齢臭を身に纏い、額も後退を始めている。このようにお世辞でも格好良いとは言えない苧環(おだまき)(あきら)さんはさらに、いやらしい性格の持ち主でもある。全ての荷物を僕に持たせるという提案も、この人によるものだ。立場の弱い同性にはとことん尊大なのである。それはバイトを始めて最初の頃から、散々に思い知らされていた。そのため僕はこの先輩の事は少しも好きではなく、寧ろ嫌っているくらいだ。だが反抗するとそれはそれで面倒な事になるので、怒りは静かに内に秘め、眼鏡でおかっぱではないが、のび太らしく振る舞っておくのが無難なのである。

「いや、別にいいですよ。それにしても苧環さんの荷物が一番重いんですけど、一体何が入っているですか?」

「何って、着替えと仕事道具であるカメラに決まってるだろ。あとは余暇を過ごすためのお気に入りのミステリィを十冊程だな」

 腕組みをしながら自信たっぷりに苧環さんは言った。そういえば、この人は自称ミステリーマニアだったっけ。その実態は真のミステリーマニアからすればにわかと嫌悪されるが、僕みたいな基本はマンガばかりの、偶にしか推理小説を読まないような初心者からすれば十分な知識を持ちあわせているという程度である。所謂中級者というやつであり、多分、中級者の中では下級者である。

 無駄に突っ込んだら知識のひけらかしが始まってしまうので、自分から話しを振っておきながら「そうですか」と軽く流すだけにしておいた。この暑い中で、あまり興味の無い分野の蘊蓄を語られても迷惑だ。

 偶になら観たり読んだりするが、そもそも僕は、ミステリーというジャンルはあまり好きじゃない。何故なら、孤島や館で殺人を犯す理由がよく分からないからだ。どんな不可能犯罪に見えても、孤島や館で殺人事件が起きれば、その場に居る全員が容疑者になってしまう。犯人とバレないためにトリックを講じているのに、どう足掻いても容疑者として自然にカウントされてしまう状況での殺人というのが、本末転倒のように感じるのだ。ただでさえ殺人はリスクが大きいのに、その危険性を自分で高めて一体どうするというのか。

 それに、都合良く名探偵が居合わせるのも頂けない。どれだけ大がかり且つ緻密なトリックを行使しても彼らはその洗練された叡智を以てそれを見破り、どれほど小さな瑕疵であっても彼らはその鋭い洞察力を以てそれを見逃さず、必ず犯人を追いつめる。そんな名探偵が、どうして毎回のように偶然現場に居合わせるのか、僕には不思議でしょうがないのだ。

 加えて、ドラマなどによく登場する、便利な第三者も受け付けない。普通、二、三ヶ月前に一度だけ見た容疑者の顔を覚えていることが出来る人間は、そう多くないはずだ。それなのに、フィクションの中にはそのような第三者がまま登場する。まるで、未知の力が働いて犯人を逮捕させようとしているかのように。僕はそれに疑問を禁じえない。

 まあそれらは虚構の中だから成り立つというのは理解しているし、全ての推理小説がそのような構成になっている訳ではないのも知っているし、重箱の隅を突くような粗探しに意味が無いのも承知である。

 ともかく、二時間サスペンスなどでは旅館での殺人というのは定番のようなので、これから僕たちが泊まる場所では、そのような事が起こらないように祈るばかりだ。

 僕は少しでも暑さを紛らわすために、周囲の景色に目をやった。周辺を山々に囲まれたこのS県華森(はなもり)町の華森駅前は、田舎町にしてはとても都会に見えた。まるでここ一帯に全ての施設を集めたかのように、コンビニ、スーパーマーケット、ファミレスにファストフード店だけでなく、ゲームセンターやスポーツジム、大型家電量販店も軒を連ねていた。それでも案外近くに聞こえる大量のセミの鳴き声が、ここがまだ都会になり切れていないことを僕に教えていた。

 それにしても、暑さを紛らわせたいのに、セミの声を聞いているだけで余計に暑く苦しく感じるのは何故だろう。夏場に必ずと言って良い程に耳にするあの鳴き声には、きっと体感温度が高くなるという呪いが籠っているのだ。そんな馬鹿げた事を考えてしまうのは、とうとう頭が外気温に負けて熱中症を起こし掛けている前兆なのかもしれない。

「何か珍しいものでも見える?」

 今度は貴島さんが僕に話しかけてきた。苧環さんとは違い、何やら爽やかで良い香りが鼻先を擽った。きっと香水の香りだろう。

 貴島(きじま)(あざみ)さんは僕と同じアルバイトでありながら、正社員を含め社内でも頭一つ抜けて有能な従業員だ。その能力の高さゆえ、社員と同等か、ひょっとするとそれ以上の仕事を任されている。今回の取材旅行も、企画発案者は貴島さんということらしい。一介のアルバイトでありながらそこまで権限を持てるほどに仕事ができる貴島さんは、そのうえ頗る美人なのである。輪郭の細い顔に乗っている、すっきりとした鼻と切れ長なのに大きな両の瞳は、知的な印象の中にも可愛らしさを残している。今は革靴だが、ヒールを穿けば百七十七センチの僕に引けを取らない背丈であり、しかも出るところは出て引っ込むところは引っ込んでいるといった具合にスタイルも良い。その身体を包んでいる水色のシャツと、黒のパンツスーツを見事に着こなし、とてもよく似合っていた。一体どんな手入れをしているのか白い肌には潤いや透明感があり、腰ほどまで伸ばしたものを後ろで一つに纏めている黒髪は、カラーやパーマを今まで一度もしたことが無さそうな程に艶があった。

 そのような美貌を持ちながら性格も悪くなく、人当たりで面倒見が良いときている。だがその外見と性格から、同性の同僚からは身体を売って仕事を得ているとか整形をしているとか、そういう不穏な噂も出ており、少々嫌われているという側面もある。ただ男性の僕としては正直、傍から見るだけなら手を加えていない残念な容姿よりも、多少メスを入れている美人の方が目の保養になって嬉しいと考えている。バイトに採用されて初めて貴島さんと見た時は、こんな人と一緒の職場で働けてツイてると思ったくらいだ。しかし慣れというものは恐ろしく、幾ら綺麗でももう胸を打つことも無くなってしまった。今ではもう見た目の良い先輩という程度にしか感じなくなっている。とはいえそれは僕が例外であるだけで、苧環さんなどは貴島さんの採用当時から、現在進行形でご執心らしい。ミステリーに嵌るようになったのも、貴島さんが影響しているそうだ。その理由が、貴島さんがそういうのが好きだという話を本人からされ、彼女との会話の切欠にしたかったからだと別の社員の方から聞いた時には、ついつい笑ってしまった記憶がある。

「いや、別に何もないですよ」

 僕は愛想も無く簡潔に答えた。暑さで余裕が無かったのだ。そんな僕の様子を見て、貴島さんは苦笑していた。

「そう。てっきり暑さにやられて幻覚でも見てるんじゃないかと思って心配したよ。それはそうと、荷物持ってくれてありがとね」

 貴島さんが僕の肩を軽く叩いた。幻覚は見てないが、思考は変になってきているので、あながち間違っていないだろう。僕は一瞬ぎくりとした。

 素っ気ない態度をしているにも関わらず気遣われている事が癪だったのか、側に居た苧環さんが不満を露わにした。

「気にしなくてもいいんだよ。ただの旅行鞄なんだから、別にそこまで重い訳じゃない。それにこいつはまだそこまで仕事量が多くないんだから、使える時に使っておかないといけないんだ」

「それはそうかもしれないですけど。やっぱりこの暑い中で五人分の荷物を持つのは中々に辛いですよ」

「確かにな。それを自主的にやってたら感謝の一つでもしてやるが、結局は俺に言われるまでは何もしなかったんだぞ。こいつはゲストや先輩の荷物を預かるっていう、そういう気遣いが出来てないんだ」

「なるほど。そういう点では、苧環さんのしっかりとした後輩指導に感謝ですね。ありがとうございます」

 笑顔で貴島さんが会釈をして、やっと苧環さんは満足をした。さすがバイトだてらに仕事で頭角を現しているだけあり、年上の社員の扱い方も熟知しているようだ。それは僕がまだ身につけていない技術なので、好き勝手に言われたが黙って聞き流すことで対応した。せっかく貴島さんが治めてくれたのに、未熟な自分が首を突っ込み、話をややこしくする必要はない。

 苧環さんが再び気分を害する前に、貴島さんが素早く話題を変えた。

「それにしても、送迎車ちょっと遅いね。経費節約と思ってたけど、こんな事ならいっそレンタカーを借りれば良かったな」

「その場合、運転は僕ですよね。僕はやっと若葉マークが取れたばかりのペーペーだから、大事なお客さんを乗せて慣れない道を運転するのは出来ればしたくないので、送迎車で助かりました」

「若葉マークが取れたばかりでも、そもそも免許証を持っていない私や日野君よりマシだよ。あと、ベテランドライバーでもすっごく運転の荒い誰かさんよりもね」

 貴島さんは、最後の方はかなりの小声だった。その誰かさんというのが、苧環さんの事だったからだ。確かにあの人の運転は本当に荒々しい。僕も一度だけ助手席に乗った事があるので知っているが、そんじょそこらのジェットコースターよりもスリルや恐怖があった。よく今までに大事故を起こさなかったと不思議に思ったくらいだ。

「まあ、あと少しで送迎車も来ると思うから、それまでもう少し我慢してね。苧環さんも、至らない私の分まで東雲君の面倒を見てもらって、ありがとうございます」

 さりげなく苧環さんへのフォローも欠かさず、貴島さんは離れていった。僕はふと貴島さんが戻った先に目を向けた。そこには、今回の取材対象であるらしい二人の男性がいた。銀縁眼鏡をかけている面長な顔には多くの皺が目立っているが、染めているのか髪の毛は黒く、しっかりと短く切り揃えられている。サイズがぴったりと合っている白に紺のストライプが入ったシャツと黒のスラックス。その服装によく似合っている黒の本革ベルトの腕時計と、ファッションにも気を使っているようだ。欠点を上げるとするならば、背筋は伸びて姿勢は良いが、威厳があるといよりは高慢に感じるところだろうか。もう一人はぼさぼさの髪の毛に、潰れた様な鼻とニキビ跡の多い容姿。背は低くないが酷い猫背で、実際の身長よりも小さく感じる。太ってはいなが、かといってあまり運動はしそうにない体格だ。その証拠に、今も携帯ゲームに熱中している様子である。縒れた紺色のTシャツに、やはり縒れたカーキのチノパンといった服装で、あまり見た目には拘っていないようだ。見た目では三十前半程に感じるが、実際はもっと若いかもしれない。

 あまり似通っていないこの二人は、これでも親子であるらしい。父親は大岩桐(おおいわぎり)四葩(よひら)。息子の方は大岩桐柘榴(ざくろ)というそうだ。この二人の共通点と言えば、自分以外の周囲を卑下したような鋭い目付きくらいだろう。その部分だけならば、間違いなく親子と断言できた。

 貴島さんがそんな二人に頭を下げていた。予定よりも送迎車が遅くなっている事を謝罪しているのだろう。柘榴さんは興味無さそうにしているが、四葩さんは何やら文句を言っているようである。貴島さんに対しての態度が気に入らないのか、苧環さんがその様子を苛立たしげに眺めていた。今回の仕事のゲストなので、貴島さんへの態度も仕方ないと思う。というか、幾ら貴島さんが企画発案者とはいえ、ああいうのは正社員である苧環さんの仕事でもあるはずなのだ。それなのに、何故か今日は今朝からずっと、あの親子の事を避けているように感じる。敢えて言葉には出していないが、それは果たして僕の気のせいなのだろうか。

 安物の腕時計に視線を落とすと、この華森駅前のロータリーに到着してから既に二十分近くが経過していた。そろそろ到着しても良い頃合いではないかと思い始めた矢先、タイムリーに送迎車が到着した。小型バスほどの大きさで、車の側面には大きく『華里』という旅館の名前があしらわれていた。

 車内から白髪混じりの痩せた初老の男性が降りてきて、何度も頭を下げていた。その初老の男性曰く、出発前にちょっとしたエンジントラブルがあったそうだ。それが到着の遅くなった理由らしい。大岩桐親子に真っ先に乗り込んでもらい、それから苧環さん、貴島さん、僕の順番に車内へと乗り込んだ。

 車内の席は四列シートで、それが縦に全部で五列あった。最後尾のみ通路分のスペースに座席が設置されているので、五人分の席数になる。四葩さんが最前列の、向かって右列の窓際。息子の柘榴さんは四列目の左の通路側。貴島さんが三列目の、向かって右列の窓際で、その横の通路側に苧環さん。僕は最後尾の右の窓際に腰かけた。網棚は無かったので、荷物は横の席に並べるように置いた。

 冷房の効いた車内でやっと暑さと五人分の荷物から解放された僕は、疲れた身体を思い切り座席に預けて一息吐いた 全員の乗車を確認した運転手が、アクセルを踏んで送迎車を発進させた。

 都会的な風景はすぐに遠ざかり、車は森林などが広がる人通りの無い山道へと入った。しっかりと舗装のされている道路だったので、無駄に上下して臀部が痛くなるようなことは無かった。

 車内には苧環さんの声と貴島さんの声が八対二くらいの割合で響いていた。聞こえてくるのは、動機が斬新やらトリックが巧いやらという推理小説に関する話だった。声音だけで判断するに、想い人の隣に座っている事で浮かれている苧環さんが、ほとんど一方的にミステリー談義を語っている。そして貴島さんは時折それに相槌を打って、苧環さんが気分を損ねないように気を付けているようだった。四葩さんが何度か、貴島さんと苧環さんの方を見遣っているのが少し気になった。もしかすると柘榴さんも貴島さんに恋心を擽られ、その隣に座っている苧環さんのことを羨んでいるのかもしれない。

 車内の様子を眺めるのも飽きたので、僕は呆と窓の外へと視線を移した。窓の向こうに聳える木々の緑が、太陽の光を反射して淡く光って映る。それは都市開発で森林を伐採して枯渇させようとしている都会では、あまり見ることの出来ない光景だろう。同じ日本に住んでいるのに場所が違えば人も街もまったく異なるという、そんな当たり前の事ですら新鮮に感じた。

 そう言えば子どもの頃は、まるでそこに魔法の国でもあるのかというくらいに、窓ガラスに手を張り付けては、流れて行くこんな山の風景を熱心に見ていた。どこでどう間違って現在のようになってしまったのかは分からないが、あの頃は今と違って純粋だったなあと、弱冠二十歳にしてそんなノスタルジックな想いを胸に抱いた。自然の多い光景というのは、年齢に関係なくそういった気持ちを人々に与えるのかもしれない。

 そんな感慨に耽っていると、途中からは少し街の雰囲気が出てきた。旅館の利用者が主な客層であろうお土産屋や甘味処、それから飲食店などが所々にお店を構えていた。このあたりになると人通りもちらほらと見えてきた。そうして気が付けば、僕たちが宿泊する旅館――華里(はなさと)に到着した。駐車場には乗用車が疎らに停められていた。台数はあまり多くなかったが、僕たちのように送迎車を利用する人もいるはずなので、車の台数イコール客数というわけではないのだろう。

 荷物を持って最後に送迎車から降りると、真っ先に檜の匂いが香った。高地だからか、駅前で送迎車を待っていた時よりも風が涼しく感じる。

 目の前に見えるのは、僕が想像していた武家屋敷のような旅館とは違っていた。赤を基調とした三階建のその旅館は長方形のような形をして、簡単に言えば少し豪勢なアパートといった感じだ。それでも森林に囲まれた周囲の外観を損ねておらず、不思議と自然に溶け込んでいるように感じた。

 玄関前では、無地で水色の着物に身を包んだ四名の仲居さんたちが、送迎車の到着を待ち構えていた。今回予約を取ったのは四部屋という事だったので、各部屋に一人の仲居さんが付くのだと予想できた。ちなみに僕と苧環さんが同室であり、残りの三名が個室だ。

「本当は経費の問題で私も苧環さんや東雲君と一緒の部屋にされかけたんだけど、さすがにそれは別部屋を通したの。だって、急に襲われたら困るでしょ」

 ここに来る前に貴島さんが言った台詞だ。貴島さんは冗談っぽく言っていたが、確かに十分にあり得ることだと僕は思った。僕だって一応は健全な二十歳の男子大学生だ。無理矢理なんて真似をするつもりは勿論ないが、一緒の部屋で寝食を共にしたら下心の一つや二つは簡単に生まれるだろう。貴島さんに恋をしている苧環さんは言わずもがなである。

「長旅ご苦労様でした。本日は当旅館をご利用頂き、心よりお礼申し上げます」

 頭を下げながら、仲居さんが全員で声を合わせて来館の感謝を述べた。その後、五人分の荷物を預かろうと素早くこちらに近づいてきた。僕は喜々としてどの鞄が誰のものであるかを説明しながら、それらを手渡していった。とはいえさすがに女性に二人分の荷物を持たせるのは気が引けたので、自分の分は持ったままである。僕と苧環さんに付いたのは、黒のお団子ヘアーで、背は低いが大きな瞳を持った可愛らしい仲居さんだった。貴島さんと同じくらいの年齢で、四人の仲居さんの中でおそらくは一番年下だろう。

 館内に入ると大理石の土間があり、その向こうには植木鉢に入れた観葉植物を所々に飾っている、広々としたロビーがあった。芳香剤を置いているのか、旅館の中でも木の香りを感じる。

 ロビーと土間の境となる段差には、既に人数分のスリッパが並べられていた。しかも脱いだ靴は、何もせずとも担当の仲居さんが下駄箱に仕舞ってくれるという徹底ぶりだ。僕はこれまでに、自分の面倒は自分で見るといった安物のホテルにしか泊まった事がないので、仲居さんたちのその気遣いの良さには感服をした。僕たちに付いた仲居さんも、若いながらも一人前の従業員として、接客を徹底的に訓練されているのだろう。少なくとも、僕なんかよりはしっかりしているに違いない。

 仲居さんからナンバーの書かれたキーホルダーが付いた下駄箱の鍵を受け取ってから、チェックインのためにまずは受付に向かった。受付は土間から正面に向かった所に設けられている。その向かって左側には、お金を入れると作動するマッサージチェアや、幾つかのテーブル席やソファが置かれたラウンジ。向かって右側ではお土産屋を兼ねた売店が営業していた。

 受付の番頭さんに名前を伝えると、宿泊する部屋の場所が口頭で教えられ、それぞれの担当の仲居さんに鍵が手渡された。鍵には部屋の名前が彫られたキーホルダーが取り付けられていた。客室には号数でなく、それぞれ個別の名前が与えられているらしい。

「それでは先生、柘榴さん。もし何か不都合な点があれば私共にも気軽に申しつけてください。出来る限りの対応はさせていただきます。それから、取材は明日以降に行わせて頂く予定ですので、本日はごゆっくりとお休みください」

 貴島さんが言った。四葩さんは軽く頷いてゆっくりと歩きながら、柘榴さんは僕たちの方を一瞥した後に早足でといった具合に、二人は先に自分たちの客室へと向かっていった。僕たち葉陽社三人組は、受付の前で頭を下げてそれを見送った。

 僕と苧環さんが宿泊するのは二階の、階段を挟んで北側にある最初の部屋ということだった。仲居さんが手にしていた鍵に付いているキーホルダーには『朝顔の間』と彫られていた。それが、僕たちが宿泊する部屋の名前のようだ。

「俺は売店に寄ってから部屋に行くから、先に行っておいてくれ」

 苧環さんがそう告げて売店へと向かったので、僕と仲居さんは言われた通りにすることにした。苧環さんの荷物を持った仲居さんに誘導され、受付とお土産屋の間にある折り返し階段で二階に上がった。階段を挟んで廊下は北と南に伸びている。客室はその廊下の西側に玄関扉が接するように、それぞれの方向に四部屋ずつ設けられている。上の階も同じ造りのようで、つまりこの旅館には合計で一六の客室があるということだ。東側には窓があり、廊下からでも外の緑が鑑賞できるようになっていた。

 二階の廊下を北側に進み、最初の部屋の前に来た。玄関の上に『朝顔の間』と彫られた木の板が取り付けられているので、ここが僕と苧環さんの客室で間違いない。事典で見た朝顔の花言葉の一つは確か『はかない恋』であったか。苧環さんにはよく似合う花言葉だと思った。

 ちなみにこの隣の、北側の二つ目の客室である『天竺葵の間』というのが貴島さんの泊まる部屋で、同じ階で南側の最初の『睡蓮の間』が柘榴さん。つまり、階段部分のスペースを挟んで、僕たちが止まる部屋は横並びなっている。その中で四葩さんだけが唯一の例外であり、彼は三階の一番南側の『薔薇の間』という部屋割りだ。

「さっきも大岩桐先生に言ったように、本格的な仕事は明日からだから、東雲君も今日はただの旅行のつもりで楽しんで。それじゃあね」

 手を振って、貴島さんは自分の客室へと消えていった。

 仲居さんが扉を開けて室内に入ったので、僕もそれに続いた。扉のすぐ脇には仕切りの無い下駄箱があったので、スリッパを脱いでそこに仕舞った。その時、下駄箱の上に空の木製の籠が置かれているのを見付けた。だが、それを何に使用するのかは分からなかった。

「段差がございますので、御足元にお気を付けくださいませ」

 仲居さんは少しの段差でも細かな気配りを見せていた。

 玄関口からは幅狭の廊下が少しだけ伸びているが、その先にはすぐに二人では十分過ぎる程に広々とした居間が広がっていた。天井がとても高く、藺草の匂いがする室内は畳張りの純和風な内装をしている。中心に木目調の大きな座卓と二人分の背凭れ付きクッション、それから部屋の廊下側の左隅に小さな台に置かれた電話機以外何も無かった。向かって右側には浴衣などを入れたクローゼットあり、左側の襖の奥に寝室がある。玄関扉とは反対に位置してある障子戸の捻締錠を解いて戸を開くと、バルコニーのような空間があった。そこにどういう仕組みでお湯を上げているのかはわからないが、一人分程度の大きさの露天風呂が設置されている。その向こうには川や森林などの眺めの良い景色が広がっていた。微かに覗く小さくなった街並みが、この旅館が俗世とは切り離された別世界であるかのような錯覚を起こさせた。バルコニーには覗き防止用の柵があったが、十分に景色は堪能できそうである。現状での唯一の不満点を挙げるとするならば、苧環さんと同室という事だろう。欲を言えば一人でゆっくりとしたかった。

 仲居さんは居間の南東の隅に、苧環さんの荷物を置いた。僕もそれに倣い同じ場所に荷物を降ろしたところで、仲居さんに話しかけてみた。

「いい旅館ですね。こういうところに泊まるのは初めてで、正直他の旅館の事とかは全然知らないんですけど、それでもここはかなり気に入りました」

「ありがとうございます。そのように仰って頂き、私どもも恐縮でございます」

 見た目の年からは中々出てきそうにない、とても丁寧な言葉遣いだった。女性には失礼に当たるのだろうが、ふと気になって仲居さんに年齢を聞いてみた。

「仲居さんってお幾つなんですか?」

「今年で二十三でございます」

 仲居さんは嫌な顔一つせずに答えてくれた。

「ということは、働き始めてまだ半年経ってないくらいですか?」

 僅か数カ月でここまでちゃんと出来るものなのかと驚いたが、僕のその推理は見事に外れてしまった。

「いいえ。私が通っておりましたのは短大ですので、雇って頂いたのは二十歳の頃でございます。ここには勤めて三年目になります」

 なるほど。しかし、三年目でもやはり凄いと思った。同時に、自分と三つしか変わらない相手にここまで丁寧な対応をされるのは、なんだかむず痒くもあった。

「二年少しでそこまでしっかりと出来るなんて、凄いですね。でも言った傍から何なんですけど、そう年齢の変わらない人にそこまでされると、逆にちょっと緊張します。なので、僕には出来ればもう少し崩した話し方というか、フレンドリーに接してもらえると嬉しいです」

 仲居さんは仕事の一つとしてそういう接客をしているだけなのは理解しているし、こういう事を言うのはもしかすると仲居さんに対して無礼になるかもしれない。そのため、出来る限り不快感を与えないように笑ってみせた。僕のそんな笑顔が功を奏したのかどうかはわからないが、仲居さんはやはり表情に不満を表すことは無く、年相応な可愛らしい笑顔で返事をしてくれた。

「そうなんですね。わかりました。じゃあお客様の前では、そのようにさせてもらいますね」

「我が儘言ってすみません」

「いえいえ。気軽に過ごしてもらうのが目的ですから、何か希望があれば気兼ねなく言ってくださいね。それに、私もこういう話し方だと肩肘を張らなくて済むので、逆に助かります」

「そう言ってもらえて何よりです」

 さりげなくフォローされた感は否めないが、やはり同世代にはこれくらいで接して来られる方が気楽である。

東雲(しののめ)葉月(はづき)です。よろしくお願いします」

「そういえば自己紹介がまだでしたね。ごめんなさい。五十鈴(いすず)蘭夏(らんか)と申します。三日間誠心誠意お世話をさせて頂きますので、こちらこそどうぞよろしくお願いします」

 正座をして指を着き、五十鈴さんは軽くお辞儀をした。その態度にはこそばゆいものを感じたが、それでも幾分か軽い口調になっているし、徐々に慣れてくるだろう。

 僕は、なんだかナンパをしているみたいだなと思った。とはいえ、僕はこれまでの人生でナンパなんてしたことは無い。女性好きなのは否定しないが、それでも仕事でも無いのに街中で見知らぬ女性に声を掛けるなんて芸当はできないので、それは単なる僕のイメージだ。普段であれば、一切こんな真似はしないのである。しかし旅行は人間の心に解放的にさせるし、旅の恥は掻き捨てという格言もある。勿論この旅行はあくまでも仕事の一環なのだが、貴島さんもただの旅行のつもりで楽しめば良いと言ってくれたし、今日ぐらいはいつもと違う自分でもいいだろう。

 そんなことを考えていると、苧環さんが室内へとやって来た。売店に行った筈なのに手ぶらであり、何かを購入した様子は無かった。

 苧環さんが来たとこで五十鈴さんは初期のような、完全な仕事モードにスイッチを切り替えていた。僕の一存で苧環さんにまでフレンドリーになれとは言えないので、それは我慢するしかない。

「お客様。本日の御夕食は何時頃に御持ち致しましょうか?」

「そうだな。じゃあ七時くらいで頼むわ」

 僕の意見は求められず、苧環さんが一方的に今から三時間後の十九時を指定した。別に不満は無かったので反論はしなかった。もし不満があっても早々に諦めていただろうけれど。

「承りました。些末な事ではありますが、室内の下駄箱の上に鍵を入れるための籠を置いてございます。在室中はそこへ鍵を置いて頂けると、外出の際に忘れにくくなるかと存じます。それではごゆっくりとお寛ぎください。失礼致します」

 そう言って、五十鈴さんは部屋を出て行った。

 あの籠は、どうやら鍵入れであるらしい。なるほど。もし鍵を持って出るのを忘れても、そこにさえ入れておけば、わざわざスリッパを脱いで室内に戻らなくても良い。玄関先からすぐに鍵を回収して、そのまま出かける事が可能となる。こういったところにも、旅館の細やかな配慮がなされているのだと思った。

 苧環さんは軽く溜め息を吐きながら、景色もそこそこに背凭れ付きクッションに座り煙草を咥えて火を点けた。そして鞄の中から推理小説を取り出し、ゆっくりとページを捲っていた。

「はぁ」

 二度目の溜め息。しっかりと余暇として満喫していそうなのに、何を溜め息なんて吐くことがあるのだろう。それに貴島さんや五十鈴さんならまだしも、いい年をしたおじさんの溜め息など、可愛くもなんともない。ただ鬱陶しいだけだ。

 基本的に図々しい態度を取っているのだから、言いたい事があるなら言えば良い。それとも、もしかすると僕の方から構ってほしいのだろうか。あまり気乗りしないが、さてどうするか。暫し考えていると、三度目の溜め息が聞こえた。致し方ない。

「溜め息ばかり、どうしたんですか?」

「どうして葉月と相部屋なのかと思ってな。旅館で男と二人部屋なんて、楽しくもなんともない。そこで貴島と観光に行こうと部屋に行ったら、用事があるからと断れたんだよ。溜め息の一つも吐きたくなるだろう」

 やっぱり聞くんじゃなかった。どうやら先ほどの売店はただの口実で、実は僕に悟られないように貴島さんをデートに誘いたかっただけのようだ。だが貴島さんにそれを拒否されたので、その腹いせとして僕に嫌みを言いたかっただけに違いない。

 贅沢だが、やはり一人部屋が良かった。このままだとせっかくいい気分になっていた僕まで不満が溜まりそうだったので、話題を変えようと考えた。けれど食いつきそうな話題を振ろうにも、苧環さんが手にしている推理小説は、僕が寡聞にして存じない作者の著書だった。話を合わせる事は難しそうであり、また変に話し掛けて熱く語られてもそれはそれで困る。

 とはいえ、ここで苧環さんと無言で二人きりというのも楽しいものでない。それに部屋に籠っていては、地元で大学の図書館に通っていたのと変わらない。多少疲れてはいたが、結局は苧環さんを無視し、一念発起して外を観光することにした。

「ちょっと出てきます」

 読書に忙しくて耳には入ってなさそうだが、一応断りを入れておいた。苧環さんは外出する気配は無さそうだし、オートロックのような機能は付随していないので、僕はロビーの下駄箱の鍵だけを手に部屋を出た。一階に降り、受付の番頭さんに観光名所を聞いてみた。

「特に伝説や言い伝えがあるという事は無いのですけれども、この山の頂上に御社がありまして、そこが何でも願いを叶えてくれる神様が祭られているそうなのです。所謂、パワースポットというものになるのですかな。ここに来られるお客様は、よくその御社に足を運ばれておりますね」

 そう教えてもらったので、僕はそこまで行ってみることにした。勿論、願いが叶う事を期待している訳ではない。大学受験の時でさえ神頼みはしなかった程、僕はそういうものを信じてはいないのだ。だからそれは、お勧めされたので行ってみようという、その程度の感覚だ。

 相変わらず、青天に座する太陽は外気温を上げようと勤しんでいる。だが森林が多くの日陰を作っており、また風の通りも良かったので、普通にしていればやはり駅前に居た時よりも気温は低く感じる。しかしそうは言っても、山道を己の足で進むとなるとその運動量から体温が上がり、かなりの汗が放出された。暑さをプラスマイナスで評価するならプラスである。

「これはもう暑いじゃなくて熱いだな」

 そんな下らない独り言を呟きながら、檜の香りが漂っている坂道を一歩ずつ進んでいった。道中で時々、軽い足取りで降りてくる人たちと擦れ違った。どうやらお参りを終えて帰還している所らしい。その中にはすっかりと還暦を超えていそうな老人や、僕よりも年の若そうな女性も居た。それらの人々が、引き返すという選択肢を僕の頭から消し去った。これは意地だ。そんな人たちが頂上まで行ったのだから、二十歳の男である僕が簡単に諦めるのは格好悪いと思ったのである。

 そういえば小学生の頃、一泊二日の林間学校でも山登りをした。あの時は無駄に疲れるだけなのに坂道を走る程に元気で、何故かその大変ささえも楽しかった。成長して体力は増え歩幅も大きくなった今では、あの頃よりも山登りに対する労力は少なくなっているはずだ。それなのにまったく楽しくなく辛さだけを感じるようになったのは、ひとえに年を取った所為だろう。二十歳といえば世間的にはまだ若者であるが、小学生から見れば立派なおじさんということだ。

 そんな思いを巡らせて歩き続けている内に、やっと頂上へと辿り着いた。頂上の入り口にそう大きくない鳥居があり、その奥に山頂からさらに高くなった石段があった。十段あったその石段を登った先に、木造の、多少の劣化が見て取れる薄汚れた屋根と賽銭箱を構えた御社が在った。鈴の緒やしめ縄などは無い簡単な造りの御社だったが、両脇には袴を着て閉じた扇子を持った狐の像が置かれていた。よく分からないが、きっとこの二匹の狐が、願いを叶えてくれる御社様なのだろう。

 僕の他には一人の女性が居て、賽銭箱の前で手を合わせていた。風に靡かせた黒髪のポニーテール。黒のスラックスと水色のシャツを着ていて、後ろからでもそのスタイルの良さが分かる、背の高い女性だ。革靴はスニーカーに履き替えられていたが、それは間違いなく貴島さんだった。どうやら苧環さんに用事があると言ったのは嘘で、一人でしっかりと物見遊山をしているようだ。

「奇遇ですね」

 声を掛けると、振り向いた貴島さんは少し驚いた表情をしていた。

「何だ、葉月君か。急に誰かと思ったじゃない」

「脅かすつもりは無かったんですけど、すみません」

 もしかしたら、先ほどデートを断った苧環さんじゃないかと内心で焦ったのかもしれない。

「私が勝手に驚いただけだし、別に謝る事はないよ。寧ろこっちがゴメンね。ところで、葉月君もお願い事が有って来たの?」

「いや、僕は信心深くなくて神様は信じてないので、ただの観光です。旅館の人に聞いたら、ここが名所だと教えてもらったもので。そういう貴島さんは、叶えたい願い事が有ってここまで来たんですか?」

「さらっと罰当たりな発言をしたのは見逃してあげる。東雲君には悪いけど、私はそうよ。ちゃんと神頼みをしに来たの。しかも奮発して諭吉さんを入れたんだから、これでご利益が無かったら恨むわよ」

 諭吉という事は、一万円札を賽銭箱に投入したという事か。豪勢だ。叶えたい願いがあったとしても、僕には決して真似できない。もしかするとこの賽銭も経費で落とすつもりなのかと勘繰ったが、貴島さんはそんな人ではない。それにもし領収書が在ったとしても、お賽銭を経費で落とすのは多分不可能だ。

「そりゃすごいですね。きっと神様も、叶えた願いに特典を付けてくれますよ」

「あはは。だといいけど」

 僕の冗談に、貴島さんは無邪気に笑ってくれた。その笑顔は年下の僕から見ても、綺麗ではなく素直に可愛いと思えるような笑顔だった。

 頂上には心地よい風が吹いていて、それが汗を掻いた身体に染み込んで爽快だった。風に煽られた木々が枝葉を揺らして、楽器のように音楽を奏でている。古くなった木の匂いがする御社の裏手に回ると、そこには旅館のそれよりもさらに清々しい景色があった。背伸びをすれば地平線の向こうまでも覗けそうに感じる。小さくなった街は全体が見下ろせ、その光景をずっと眺めていると、まるで自分が空に立っているかのような感覚さえ覚えた。

 そういえば、林間学校では山頂でお弁当を食べる事になっていた。目の前に人参をぶら下げられた馬の如く、そういった楽しみが待っていたから、あの頃は山登りもさして苦痛にならなかったのかもしれない。お弁当が至極の楽しみなんて子どもらしくて無邪気ではあるが、同時に、結局はただ現金なだけだったことが分かり、思わず吹き出して笑ってしまった。どうして急に笑ったのか貴島さんが不思議そうにしていたので「何でもないです」と誤魔化しておいた。

 少しの間貴島さんと頂上からの風景を観賞した後、僕たちは一緒に踵を返した。結局、願い事はしなかった。

 行きが嘘のように帰りの道は楽だった。理論上だと坂道は上りではなく下りの方が負荷は大きいそうだが、やはり気持ちの面では下りの方が簡単である。きっと貴島さんと一緒に居て、時間が早く感じたのもその一因だろう。

「歩いたらお腹空いたし疲れちゃった。どこかで甘いモノでも食べない?」

 旅館が近づいてきた頃、貴島さんがそう提案をしてきた。男ながら甘味は好物なので、僕はそれを承諾した。

「苧環さんも呼びましょうか?」

 一応は後輩の義務かと考えてそんな申し出をしてみたが、貴島さんはあっさりとそれを却下した。有り難い。

「苧環さんは、まあいいでしょ。正直、あまり得意じゃないんだよね。あ、これはここだけの話だから。絶対に本人には言わないでね」

 貴島さんが口元に人差し指を立てて「しー」と言った。薄々は感づいていたが、本人の口から直接聞けたことに苦笑しながら、僕は「わかってますよ」と返した。

 僕たちは旅館から少し下った所にある、バスの中から見えた甘味処に寄ることにした。そこは時代劇に出てきそうな昔ながら団子屋という感じで、店内だけでなく外に置いた木製のベンチでも食べられるようになっていた。文字通り花より団子になるのは目に見えているが、せっかくなので、僕たちは外のベンチに腰掛け、緑を眺めつつ食べることにした。

 団子は三本で一セット。種類はみたらし、餡子、黄粉、三色団子と用意されていた。貴島さんは餡子、僕はみたらし団子を注文した。注文を取ってくれたおばちゃんの店員さんが、すぐに商品を持っていた。その際に、お茶も一緒に提供してくれた。

 みたらしはとろとろのタレが団子の上で軽く炙られていて、醤油ベースの芳ばしい香りを漂わせていた。僕は大きく口を開けて、タレが一杯に掛かったそのみたらし団子を頬張った。団子はモチモチといていて弾力があり、噛む度に絶妙に甘辛いタレの味が口の中に広がっていった。五分と掛からずに、僕はみたらし団子三本を完食していた。横を見ると、貴島さんはやっと一本目を食べ終わった所だった。

「食べるの早いね」

「いやー、美味しいものには目が無いんですよね。貧乏学生だから、普段はカップラーメンとか質素なモノばかり食べてるもんで」

「手料理を作ってくれる彼女を作ればいいのに」

「僕に問題があるのかもしれませんけど、そう上手くいけば苦労はしません」

 ここで「貴島さん作ってくださいよ」と言えたら良いのだが、貴島さんは料理が得意ではなく、いつもコンビニで買ってきたものを食べている事を僕は知っているので、それは口に出せなかった。貴島さんも全てが完璧というわけではないのだ。代わりに、僕は別の事を言った。

「そういえば、今回って何の取材なんですか?」

 僕は急遽メンバーに加わったので今回の取材がどういったものか、その内容を全く聞いてなかったのを、つい先ほど思い出したのだ。基本は貴島さんや苧環さんの指示通りに動くだけなので別に知らなくても問題は無いのだが、知っておいても損は無いし、いざという時に何かの役に立つかもしれない。

「あ、そういえば何も説明してなかったっけ? ごめんごめん。すっかりと忘れてたよ」

 僕に両手を合わせて謝りながら、貴島さんが今回の仕事の概要を説明してくれた。

「今回は、大岩桐四葩先生への取材なの。裁判の影響でまだ結構な話題になっているから葉月君も聞いたことぐらいあるかもしれないけど、少し前にアパレル店の店長が、過酷な労働環境の所為で鬱になって自殺したって事件があったでしょ。その事件で企業側の弁護士を担当されているのが、大岩桐先生なの。先生は強姦事件とか暴行事件とか、そういうので加害者側の弁護ばかりをするので有名でね。それで、その自殺事件だけじゃなく、それ以前の様々な案件に関して取材をして記事を書こうってわけ。けど今回の取材の交換条件に、書いた記事を事前にチェックさせるっていうのがあるから、そこまで過激で糾弾するような記事が書けないんだけどね。ちなみに、さっき言った自殺事件の裁判の影響で、最近は沢山のマスコミ関係者に追いかけ回されて面倒だから、人里離れた旅館を取って余暇を過ごさせるっていうのも条件の一つなんだ。それでこの取材旅行ってわけ」 

 そうだったのか。そう言えば二カ月程前に、所謂ブラック企業に勤めていた入社二年目の男性が、超過労働に耐え切れなくなり自殺をしたというニュースが世間を賑わせていた。親族が徹底抗戦の構えで裁判沙汰になったとは聞いていたが、それに関わっているのが今日同行した四葩さんという事はまったくの初耳だ。

 というか、僕はあの人が高名な弁護士ということさえ知らなかった。尤も貴島さんの話を聞く限りでは高名というよりは悪名高いという方が正しいのかもしれないが、ともかくこれは大岩桐四葩弁護士先生への、些細であるが社会的制裁の絶好の機会だというわけだ。

 今回の旅行は四葩さんの要望らしいので、僕個人としては一縷くらいの感謝をしておいて方が良いのかもしれない。いや、まあしないのだけれど。どうせ全て会社のお金なのだ。ならば感謝すべきなのは我が葉陽社と欠員になってくれた先輩社員の日野さん、そして代理として僕を誘ってくれた貴島さんだ。

「そういえば、どうして息子の柘榴さんも同行しているんですか? 取材だけなら、本人さえ居れば良かったでしょう」

「ああ、それね。あまり大きい声じゃあ言えないんだけど、柘榴さんってかなりの問題児みたいなの」

「問題児、ですか?」

「そう。柘榴さんって定職に就いていないんだけど、父親が弁護士って職業だからけっこうなお金を稼いでくるでしょう。柘榴さんはそれを湯水のように使うので有名で、一日で数百万単位のお金を使った事もあるみたい。そのうえ一度、刑事事件も起こしているようなの。それは柘榴さんが未成年だった事もあって大々的に報道はされなかったし、先生が弁護をして相手に起訴を取り下げさせて、なんとか大事になるのは防いだみたい。だけどそれ以来、大岩桐先生は柘榴さんに毎月十分なお金を渡す代わりに、それ以外のお金の使用や行動面なんかを常に監視してあるんだって。」

「監視って、奥さんはどうしたんですか?」

「奥さんは、柘榴さんを産んだ後に体調を崩して他界されたって聞いたわ。先生は再婚もされてないから、直々に見張るために柘榴さんをいつも身近に置いてるみたい。それで今回も例に漏れず同行させたってわけ。まあ柘榴さんが居たらそっちにも話を聞けるから私としてはありがたいんだけど、会社としては余計な経費が掛かるってすごい愚痴ってたわそれはそうと、言わなくても分かるかもしれないけど二人の親子仲はかなり悪いから、あまりその部分には干渉しないようにね」

「わかってますよ」

 柘榴さんも今日初めて会ったので全く知らない人物だが、犯罪をしたことがあるという事も含め、妙に納得した。それは柘榴さんの第一印象から想像できる人柄だったからだ。今朝、送迎車を待っているときに見た、あの周囲を卑下したような目つきを思い出した。あの人はきっと自分が何よりも大切で、それ以外はどうでも良いような雰囲気をしている。そしてそれは、父親である四葩さんも同じだろう。

 僕に説明をしている間に、貴島さんもすっかりと団子を完食していた。お茶を飲んで一服してから、僕たちは団子屋を後にした。恥ずかしながら貴島さんの奢りだった。

「これくらいなら気にしなくていいよ」

 貴島さんはそう言っていたけれど、やはり女性に奢ってもらう男というのは恰好がつかない。僕はそういった事を気にしてしまう器の小さな男なので、今度ジュースでも奢り返すことにしよう。

 旅館に着き、貴島さんと別れて部屋に戻ると、居間では苧環さんがクッションに座ったまま昼寝をしていた。大きないびきのおまけ付きである。

 そんな室内でスマートフォンを弄り暇潰しをしていたのだが、電波が弱いために動作が悪かった。それ自体は別にどうとも思わないのだが、やはり煩いいびきはいちいち気になってしまった。自分で言うのもあれだが、これでも意外と繊細なのだ。

 しかし、苧環さんを外に叩きだすという選択肢は選べない。勿論それは苧環さんが風邪をひいてしまうとかそういう事では無く、旅館のためだ。廊下にこんな耳障りないびきを出す人間を放置してしまえば、この旅館に迷惑が掛かってしまう。かといって、外は外でもバルコニーの向こうに突き落とせば、僕は犯罪者だ。仕方なく苧環さんはこのままにして、僕が部屋を出た。売店の、市井のそれよりも高額に設定されたミネラルウォーターを購入し、反対側のラウンジの一角にあるソファへと座った。

 ペットボトルのキャップを開け、冷たいミネラルウォーターで喉を潤す。一息吐いてスマートフォンを弄ると、不思議とラウンジでは快適な動作を示した。

 しばらくするとスマートフォンでのネットサーフィンも飽きたので、何気なく周囲を眺めた。すると、近くのテーブル席に四葩さんが座っているのが見えた。僕が降りてきた当初はいなかったはずなので、何時の間にかここに来ていたようだ。全然気が付かなかった。

 既に一風呂浸かった後なのか浴衣に身を包み、テーブルの上にノートパソコンを置いて何やら作業をしていた。電波の悪い客室では仕事が出来なかったのかもしれない。仕事の邪魔をするわけにはいかないが、かといって今回の取材のゲストをこのまま無視しては駄目だ。バイトとはいえ僕も一応は葉陽社に所属している身であるので、最低でも挨拶の一つは入れて置かなければならない。

 四葩さんが話しかけやすい雰囲気の人ならば気楽に声を掛けられるのだが、残念ながらそのようなタイプの人ではなかった。気を休めるためにここに来たのに、これでは休めることは難しい。キャップを閉め、四葩さんにバレないように注意しながら軽く溜め息を吐いてから、僕は腹を決めて立ち上がった。

「お忙しい所失礼します。葉陽社の東雲葉月です。この度は取材の依頼を引き受けてくださってありがとうございます」

 朝、初めて顔を合わせた時に挨拶と一緒に自己紹介はしているが、おそらく憶えてもらえてはないだろうと考え、念のため氏名も名乗っておいた。四葩さんは目線だけを動かしてじろりと僕を眺め、不愉快そうに返事をした。

「別に望んで受けたかったわけじゃない。前々から打診はされていたが、ずっと断ってきていたのだ。だが、最近はプライバシーなども碌に考えないマスコミ連中に追いかけ回されていたから、そういった連中に見つからないような場所でゆっくりとしたかった。それを貴島君が叶えてくれるというから、その対価として少し話をしてやるだけに過ぎん」

 それは冷淡な口調だったが、マスコミへの嫌悪感を孕んでいるのは分かった。貴島さんの話を聞く限り自業自得な気がするが、それを正直に言ってしまうとややこしくなるので、相手の機嫌を損ねないような当たり障りのない返答を心掛けた。

「世間の注目が集まる裁判を担当するのって大変なんですね」

「マスコミが世論を誘導しようと無駄に騒いでいるから、その所為で余計な労力が増えているだけだ。そうだな、明日の予行練習も兼ねて、君にも少し話をしてやろう。座り給え」

 何だか面倒な事になってきたが、かといって拒否も出来ないので、僕は「失礼します」と言われた通りに四葩さんの正面の椅子に腰を降ろした。四葩さんは開いていたノートパソコンを閉じ、両肘を机の上に乗せて顔の前で指を交互に重ねて手を組んだ、

「東雲君と言ったかな。君も私が請け負っている裁判について多少は耳にしているのだろう。それでだ。東雲君はこの裁判についてどう思う?」

 先ほど貴島さんに取材内容の確認をしておいたのが、さっそく役に立ったようだ。危なかった。

 ブラック企業と自殺した社員について、僕は自分なりの意見を答えた。

「そうですね。まあ労基法を遵守しないのはやっぱり企業としてダメなことだとは思いますけど、社員の方も自殺までする必要は無かったのかなって思います。自殺をするくらいなら仕事を辞めて転職活動をしたり、それこそ弁護士を介して裁判を起こしたりすれば良かったのではないかと」

 所詮は企業に就職をしたこともない未熟な大学生の戯言なのかもしれないが、けれどそれは僕の本心であった。

「二言目にはやれブラック企業だやれパワハラだと騒ぐ若者にしては、悪くない意見だ。思った程馬鹿じゃないらしい」

 褒められているのか見下されているのか良く分からなかったが、四葩さんは次に自身の持論を展開してきた。

「資本主義である限り、企業の第一理念とは利益の追求にある。そのために取締役などの経営陣は経営方針や事業展開などの議論を行い、そこで定まった指針を下部へと指示する。課長や部長など、その指示を受け取るべき立場にあるポストに就いた社員は、それを実行するためにさらに細分化した指示を部下に伝える。そうして会社は、それが全体はとなって利益を生み出す努力をしているのだ。つまり、その企業に身を置いて労働をしているということは、暗黙の内にその企業の方針に賛同しているということになるのだよ。勿論、だからといってそれは労働基準法を無視してよいという免罪符とは異なる。逆に言えば、社員にとっては働いて給料を貰っているからといって、何でも企業側の条件を受け入れろということではないのだ。もし自分の働く企業の方針に賛同が出来ないというのであれば、それこそ東雲君の言うように退職や転職、あるいは法律を盾に起訴すればいい。個人の幸福の追求というのは、日本国憲法でも保障されている立派な権利なのだから。それに私が主とする民事裁判というものは実際、完全無罪というものはそう多くない。被告側の場合、請求額に対してどれだけその被害を抑えるかというのが実態だ。因って、相手に非が在れば、ほとんどの場合で幾らかの金を受け取れる。勿論、裁判の労力や費用など、そういったコストに見合うだけの金が入るかはまた別問題だ。しかし、だからといってそれをせず、今回のように自殺という手段を選択するのは、あらゆる権利を放棄したただの愚か者の行いだ。それなのにマスコミは、裁判を起こされた企業が悪であり、起こした遺族を正義だと民衆を煽る。そうした構図で放送した方が分かりやすく、大衆も面白いからだ」

「でも先生の言葉を借りるなら、それもマスコミの利益の追求だし、世間の人々も面白い話題で自己欲求を満たすっていう、個人の幸せを追求した結果なんじゃないですか?」

 思わずそんな反論をしてしまった。四葩さんの気分を害させたかと危惧したが、顔色を窺ってみると、それは杞憂だったらしい。四葩さんは僕如きの反論には感情を揺り動かされることはないようだ。

「中々どうして鋭いじゃないか。その通りだ。マスコミも大衆も、成果、自己満足、優越感など、企業や自分にとっての利益を求めた結果の行動だ。だから私はマスコミや馬鹿な大衆を毛嫌いはしているが、その在り方自体を否定するつもりは毛頭ない。好き嫌いはあくまでも個人的な感情でしかないだろう。繰り返しになるが、人も企業も、他者を差し置いて自身の利益を追求することは、許された権利であり行動なのだ。マスコミが自分たちの報道で他人の人生を簡単に左右させてしまうことを承知で、それでも簡単に人を持ち上げたり落としたりするのが良い例だろう。それと同様に、私も悪徳弁護士だと非難されているが、実はただ自身と依頼主の利益を追求しているに過ぎない。私は、他の弁護士があまり引き受けたがらない案件を積極的に受け入れている。そうすれば、そういった事案が発生した時に依頼をされやすくなるからだ。そして弁護士である以上、裁判では依頼主である企業に相応の成果を示さなければならない。そのために、他人の人生に不利益を与える事を知りながら、必要とあらば相手を貶めることや弱みを徹底的に叩く事を厭わないだけだ」

「そうなんですね。けど、例えば世間的に認められたいっていう欲求も人にはあると思うんです。簡単な例を挙げれば、オリンピックで金メダルを取って周囲から称賛されるとかですかね。先生はそういったような、テレビドラマで英雄的に描かれる弁護士になりたいっていう欲求はないんですか?」

「それは単純に優先順位の問題だな。どのような欲求がピラミッドの頂点にあるかは、個々人によって様々だ。その中で、東雲君の言うような世間的な名誉を何よりも求めるならば、そういう風に生きればいい。だがお金で手に入るものと名誉で手に入るものとでは、圧倒的に前者の方が多いと私は思っている。欲しい物も抱きたい女性も、最後にものを言うのは名誉では無く金だ。私はこれでも俗物的な人間でね。故に、私は名誉などには一切の関心を持たず、金を稼ぐことに注力しているのだ。加えて、名誉という観点だけで話をするならば、馬鹿な大衆は私の弁護士という肩書だけをみて称賛する者も多い。そのため、名誉ならば私にはその程度で十分なのだよ」

「要するに、自分に利益さえあれば、他人が不幸になっても構わないってことですか?」

 その棘のある言葉についても、夜久欄はさして気を悪くした様子は見せなかった。弁護士という職業上、反論や否定的な意見には慣れているのかもしれない。

「確かに、究極的に言えばそうなるな。だが、托卵などを平気で実行できる本能的な動物と違い、人間は多感な感情を持った理性的な生物だ。それ故に、そこまで非情的になれる人間はそうはいない。この私だってそうだ。例えば……そうだな。東雲君は柘榴の事は何か聞いているか?」

 貴島さんからはあまり触れないように釘を刺されたが、向こうから質問をされた以上は答えるしかない。

「少しだけですけど、問題児だと聞きました」

「そうだ。あの出来の悪い息子は働きもせず、私の稼いだ金を食いつぶすしか脳の無い愚図だ。さらに、目を離せば厄介事を抱えてくる。柘榴の荒い金使いの所為で、私はいつか破産するかもしれん。あるいは、柘榴が犯罪を起こし実刑となれば、私は廃業だ。刑務所に息子いるという背景を持つ弁護士は、マスコミにとって吊し上げをし易く、それに乗じて話題をすり替えて企業を糾弾することが可能になる。つまり、マスコミの恰好の的となるわけだ。厄介な裁判を簡単に引き受けるといえど、そんな弁護士に依頼してくる企業はほぼ皆無だろう。では、この問題を一切の感情を省いて思案するとしよう。その場合、最善の解決策は柘榴を殺すことだ。日本では年間に八万人以上の行方不明者が居るのは知っているかね。そのうち七割程度は無事に所在を発見されるそうだが、裏を返せば三割――実に二万人以上の人間が行方知れずということだ。都合の良いことに、柘榴は外部との関わりが極端に薄い。上手く手を回せば、無事にその三割に柘榴を含めることも容易いだろう。だが、流石の私もそこまではしない」

 口調や態度だけでなく、柘榴さんの事を『息子』と言わずにほとんどを名前で呼んでいることからも、四葩さんがその親子関係を忌々しく思っている事が感じ取れた。殺人にまでは及ばないと口では言っているが、僕の想像以上に親子仲は悪そうだ。

「そういった点では私とは比べものにならないほど、柘榴は限りなく動物的なのかもしれないが、まあそれは今どうでもいい。兎に角、世論では否定的な意見ばかりであるが、私の行い本質的には世間から非難される道理は全く無いという事だ」

 四葩さんは話を締め括った。僕よりもずっと頭は良いはずの弁護士先生が述べた論理だ。だからそれは、あるいは正しいのかもしれない。僕だって誰に誇れるような人生を歩んできたわけでもなければ、聖人君子というわけでもない。人を傷つけることもあれば、自分にとってだけ都合の良い選択もままする。言い分だって、理解できる所もある。けれど四葩さんは、人間は多感で理性的な生物故に、非常過ぎる自己利益の追求は難しいと言った。それは僕も同意見だ。通常の精神構造をしている人間は、そう簡単にそこまで冷酷にはなれやしない。そしてそんな人間社会では、そんな考え方は通用しないだろうというのが、僕の正直な気持ちである。四葩さんは、五十鈴さんとはまったく異なる思考を持っているようだ。どうやら僕は、四葩さんの事は好きになれそうにない。

「思った以上に有意義な予行練習になった。それでは私はこれで失礼するよ」

 四葩さんは立ち上がり、ノートパソコンを抱えて去っていった。それを見送った後、僕はペットボトルのキャップを開けて口を付けた。ミネラルウォーターは、すっかりとぬるくなっていた。

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