01-4 旅______________________________
村に戻った後、僕はヌンに壁の話をしてみた。
「壁? 塔がある丘の上に行くと、大きな山は見えるけどね」
山といえば、山かもしれない。
「めちゃくちゃ遠くて、飛びながらだったからあまり自信はない、かな」
「そうか。じゃあ、こんどトルサと飛ぶんだったら、見てもらえばいいんじゃないかな。天気に恵まれるといいね」
「そうしてみるよ」
慌てることはないさ。
「あと、気になったことがあるんだ。僕が飛んでる時に、ヌンはラジオを使ってた?」
聞こえた、雑音に交じった男の人の声だ。
「いや、いなかったけど。声でもきこえたのかい?」
「うん」
「なんだろう。自分じゃないよ」
「風の音かな」
「まあ、そんなところじゃないか。明日飛んでまた聞こえたら、だね」
「じゃあ、明日に」
「あははっ。でも、ちゃんと畑には出てくれよ」
翌日は、良い天気になった。
当然ながら畑仕事日和でもあり、みっちりと耕して水撒きと草むしりもした。
ちょっとくたびれたけど、湖の船着き場まで飛行機に乗りに来た。
もちろん、トルサと一緒だ。
「さあ、いってみよう!」
先に乗り込んだトルサが無邪気に手を振る。
僕も乗り込んで、飛行機を始動した。
ばしゃばしゃを水を蹴って飛行機は飛びあがり、見える景色がぐいぐい広がる。
ラジオのスイッチは入っていて、ヌンや一部の村人と話せるようにしておいた。僕自身はなるべく操縦に専念して、トルサに話してもらおうと思う。
「わはっ、すごい景色だね!」
「だろ?」
トルサは、地上からじゃ絶対に見れない絶景に驚き、テンションが上がっていた。
それでいて、案外冷静なんだ。
「じゃあ、ゆっくりと回ってよ」
トルサは、ちょっと年上なのを良いことに、指示を出し始めた。
女の子なりに少し高い声は、うしと違って聴き取りやすいんだけど、なんか微妙。
嫌じゃないんだけど。
「ゆっくり、ゆっくり、お願いね」
ひらりと、トルサは手荷物から紙とペンを取り出し、風に負けないように抑えながら周りの様子を絵に写し始めた。
ゆっくり、ゆっくり、言われた通りに旋回していくと、昨日見えた壁が視界に入ってきた。こうしてみてみると、ヌンが言うとおり山に見える、かな。
「ほら、あれが」
「ふふーん、確かに壁みたい。まるで、世界の果てね」
世界の果て、か……
「果てなら、行ってみたいな」
言葉が、自分の口から出ていた。
「お、いいね。このまま一緒に行っちゃおうか?」
にかっとトルサは笑顔を見せて、びしっと壁の方を指差した。
「あはっ、むりむり。うしが、夜は飛べないって言ってたよ」
「なーんだ。今日は、周りの絵を描くだけで終わりだね」
「そうしよう」
そう、むりむり。
日暮れまでそんなに時間は残ってない。
今日のところは、帰らないと。
今日のところは――
『***おーい!***』
また声がした。
「おーい!」
トルサが、目いっぱい声を上げてそれにこたえる。
『wathash**ika-ru**』
雑音まみれの上、何を話してるか聞き取れない。
「え? なに? 分かんないよ」
僕だけじゃなくてトルサも聞き取れないみたいだった。
『**kontiwa*herou**ni-hao**』
「えー、なに? 何を話してるの?」
僕も思わず聞き返した。
『**jumbo**mumu-korekana**こんにちは!』
あ、聞き取れた。
雑音は多いけど、言葉になって聞こえた。
二人で「こんにちは!」と返す。
『**いやぁ△△が、残って**たとは』
少しずつ雑音が消えて言葉に聞こえる。
「えーっ!?」
トルサが思わず聞き返す。
一部、声は聞き取れるけど意味が分からない言葉があった。
『あらためて、わしはセーン。君たちの名は?』
「わたしはトルサ」
「僕はトンフア」
『素敵な名前だな! ぜひとも会ってみたい』
雑音は消えたけど、ごそごそ、ざらざらとした不自然な話し方。
うしの話し方もちょっと変だけど、セーンの声はもっとおかしい。
「セーンはどこに居るの? 村の人じゃないみたい」
『だいたい、北のほうってことしか分からん』
おかしな声だけど、話すたびに聞き取りやすくなってきた。
「じゃあ、僕らが北にいってみるよ。飛べるからきっとすぐさ」
『慌てないで下され。こちらから、ゆっくりゆっくり探しまする。だから、時々空から話しかけておくれ』
「うん。わかったわ!」
『ありがとう。今日のところは、さらば』
「またね!」
「よろしく、セーン!」
セーンの不思議な声は、ここで途切れた。
きっとどこかでラジオを使って、こっちに話しかけてるんだろう。
「セーンて、どんな姿なのかな。なんか、うしよりもっと四角くて、ごつごつしてるかも」
「そうかな。僕も四角っぽいとは思うけど、ゆっくり話してるわけじゃないから、小さいかも知れないよ」
「じゃ、ちっちゃくてごつごつだ。虫みたい!」
「あははっ、虫じゃあ、こっちから見つけるのは無理だね」
本当に虫が話してるとは思えないけどさ。
だって、ラジオを持てないよ。人間なら、手で持てるけどさ。
その夜、僕たちはヌンにセーンの話をしてみた。
「それで、トンフアたちは、セーンに会いたいのかい?」
「うん」
「あたしも!」
ヌンの問いに、二人とも二つ返事だ。
「そうだなあ。あと数日で、マッスの豆の木から次の豆が穫れそうだから、それが終わったら行っておいでよ」
「この前あんなに穫ったのに!?」
正直驚いた。
「そっかぁ、トンフアは下の村から上がってきたばかりだもんね。マッスが“みんなで、いつもおなかいっぱい食べたい”ってうしに頼んでできたのが、豆の木だったんだよ」
トルサが、わーっと両手を広げながら言った。
「おかげさんで、マッスが上がってきてからは、村では空腹の心配だけはなくなったね。ま、天気が悪いと、毎日あの豆ばっかり食べてることになるけど」
数日ならいいかな。あの豆、美味しいし。
「おっと脱線」
脱線させたトルサが、話を引き戻す。
「毎日、少しずつ準備しようよ。今日はこれだけ周りの絵を描いたから、明日は少し北のほうに行って、戻ってくる。収穫の日まで少しずつ広げるんだよ。そうすれば、何かあっても無事に戻ってこれるから」
「へえ、これは凄いね。みんなで写しをつくれば、村を広げることも出来そうだ」
「だれが、写しを作るの?」
「あはは。もちろん、君たちさ」
それから、僕らの毎日はとても忙しくなった。
耕して、収穫して、トリを追い回してタマゴをもらって。一通り仕事をしたら、飛行機に乗り込みトルサが絵を描く。
時々、トルサと僕は交代した。トルサも自分で飛びたいって言うから、うしにきいたらかまわないって。
それで、日が暮れて戻ってきたら、二人で絵の写しを作った。
トルサは上手だけど、僕は絵が下手なので失敗しながらさ。
でもある日、スィーがちょっとした道具を持ってきてくれた。
見た感じ、紙が丁度はまるくらいの薄い箱を、三段重ねにしてある。
スィーは下の村から上がってきたとき「思い出を、沢山残したい」と願って紙とペンをうしにつくってもらった男の子(当時。今は二人の子が居る大人だ)にあたる。
「うしが、これを出してくれたよ。絵の描いた紙を上に挟んで、新しい紙を下に挟んで、赤いところを押すと、ほら」
べしょー、という腑抜けた音がして、真ん中の段からトルサが描いたのとそっくりな絵が描かれた紙が出てきた。上の蓋を開けると、元の絵が残ってる。
「うしに言わせると、これも俺の願いの一つなんだってさ。確かに、沢山残すには便利だなあ」
スィーは蓋を開け閉めしながら言った。
「かしてくれるの?」
「いいよ。トルサとトンフアに使ってもらおうと思って持ってきたんだから。そうそう、しばらく使ってると写りにくくなるから、そのときは俺に言って。具を交換しろって、うしに言われてるから」
「ありがとう、スィー」
僕は、立ち去る彼に礼を言うと、三段箱を使って写しを取り始めた。
この便利な道具、名前は何て言うんだろう。
「ねえ、しってる?」
自分のうしに聞いてみる。
「うしは、しってる。複写機、という」
「そのまんま、だね」
トルサが苦笑しながら言った。
で、その日からは、少し楽になった。
交代で、複写機に絵をはさんで、赤いところを押すだけ。枚数分それをやれば、あっという間に休めるのさ。
予定通り、数日後。
今期最後の豆穫りだ。
もう残りは少ない。当然だけど、今まで穫った豆は小屋にてんこ盛りにされている。このままじゃ腐ってしまうので、順番に日干しにして、乾燥豆を作ってる。
そして、豆穫りが終わったら、いよいよ出発だ。
といっても、ここ何日か毎日飛び回ってたのでいまさらって感じもする。
いまさらなので、今日は明日の朝から飛べるように、準備だけ。
ま、殆ど出来てて、後は積むだけなんだけどさ。
沢山の保存食。
それに、うしが作ってくれた飲み水を作る箱。飛行機に線をつないで、雨水でも泥水でも放り込めば、とりあえず飲み水になって出てくるんだ。オマケにお湯まで作れる。
それを、村はずれに生えていた竹で作った水筒に入れておけば、飛びながらでも水が飲める。あるといろいろ便利だから、沢山作っていこう。
あと、紙とペン、ラジオの予備、服の替えとか。飛行機の背中にくくりつけたカゴにどんどん乗せていく。
後は、寝る!
と、床に就いたけど、あまり寝られずに朝を迎えてしまった。
「あははっ、アホだ」
翌朝おきてみると、トルサが飛行機の前に居た。
「トルサだって、先に来たのは寝れなかっただからじゃん?」
「へへっ、ばれたか」
寝不足の僕たちは、いつのも船着場から飛行機に乗り込んで、いつものように起動した。
いつの間にか、ヌンやマッスたちが集まってきている。
なぜか、うしたちものしのしと集まってきていた。
「じゃ、行ってきます!」
トルサが、眠さも忘れて元気いっぱいに手を振った。
「行ってきます!」
僕も、手を振る。
「むりすんなよ!」
ヌンも地上から手を振る。
この村で、“旅”に出るなんて人は僕らが始めてだ。
なんで“旅”って言葉を知ってるのかはよく分からないけどさ。
とにかく、心配はない。
途中の絵を描くだけ描いて、紙がなくなったら帰るさ。
それか、食べ物が半分なくなったら、ね。
飛行機が飛び立ち、ヌンたちが見えなくなる頃、トルサが「あ、そうだ」とラジオを取り出した。
「セーンの声、聞けるかな」
トルサがぽむとスイッチを入れる。
「うーん、ダメかな」
ざーざーと雑音が鳴るだけだった。
ヌンが下から話してくれるわけでもないし、うしもいない。
「僕らがもう少し北にいけば、聞こえるんじゃないかな」
そう、セーンは北のほうに居るといってたから、北に向かうのさ。
ここ数日の飛行で、北よりも少し東よりに降りられる大きな湖があるのが分かってる。
まずは、そこを目指して飛ぶことにした。
地上は、ずっと続く緑の森と、小高い山。その間に川や小さな水溜りがある。
飛行機は穏やかな風を受けながら、順調に飛び続けた。
あまりに順調で半ばぼうっとしてると、いきなりビービーと音が鳴った。
「なんだ!?」
「トンフア、これ!」
トルサが、真ん中の赤い光に気がついた。
「あ、高く飛びすぎたんだ。うしが、これがついたら、それ以上高く飛んじゃダメって言ってたんだ」
僕は操縦かんを押して、飛行機を下げた。
何でかしらないけど、寒いかな。これ以上上がると寒いから、うしは赤い光をつけてくれたんだ、きっと。
「飛行機って凄いよね。誰が考えたのかな」
トルサが地上の絵を描きながら言った。
「誰って、うしじゃないか?」
「うしは願いをかなえるのに色々作ってくれるけど、作り方を知ってるのが不思議と思うの」
「それも……そうだね」
うしの知識は、一体どこから来たのだろう。
そもそもうしはどこから?
「でも、いっか。こうして、トンフアと一緒に居られるんだから」
「ははっ、どうも。僕も、一緒に飛べてうれしいよ」
他に、同年代の仲間も居ないし。
なんかそれ以外の気もするけど、とにかく、ヌンでもスィーでもなく、トルサでよかった。
トルサが良かった。
「こら、トンフア! あわわっ」
「おおっと」
ぼうっとしてて、かなり傾いてしまった。その影響で、かなり向きが変わってしまってる。
「どっちが北だっけ?」
「こっち、かな?」
村に居るときは景色で分かったけど、ここじゃよく分からない。トルサの絵と、お日様の位置でだいたいの当たりをつけるしかなかった。
それに、目標にしていた湖は、見れば判るところにあった。
湖まで飛んで、明日になればお日様が昇る位置で方角は分かるから。
気がつくと、翌朝だった。
湖に下りて飛行機を縄で木にくくりつけ、食事をして寝袋にもぐったところまでは覚えてるけど、即寝てしまったらしい。
思ったよりくたびれてたんだな。
今までは、日暮れ前にしばらく飛んでただけだけど、今日は湖につくまでずっとだったから。
「丁度良かったんじゃない?」
トルサが寝袋から這い出ながら言った。
「なにが?」
「男の子と女の子が、結婚前に一緒に寝ちゃダメだって、下の村で教わらなかった?」
「そういえば、そうだっけな。ま、トルサのことはあんまり女と思ってないけど」
大嘘、大嘘。いろいろ、嘘だ。
「ふーん、わたしもそんなとこよ。さ、飛びましょうっ!」
いつものように笑って、トルサはばしゃんと湖に飛び込み、すぐに飛行機によじ登った。
そんなに濡れたら、服を着ててもいろいろと、気になるじゃないか。
「お、何を見てるか? へへっ、早く行こう!」
何をって、なにを……
とにかく、とにかく。
こんな具合で僕らは飛び立ち、次の目標を目指した。
いや、目指すまでもなかった。
北に向かってしばらく飛んで行くと、北東のほう、もう少し飛べばたどり着ける所に、村から見えた大きな湖の岸が見えてきた。
村からは分からなかった様子が、だんだん分かってくる。
まるで、陸と水が逆転したみたいに、はるか遠くまで水だった。
「あれって、海かな?」
トルサが言った。
「きっと、海だね」
僕も“海”という言葉を知っていた。
見たことないし、聞いたこともないはずだけど、知っていた。
「よおし、トンフア。あの海を目指そう!」
「目指そう!」
飛行機の向きを少し変え、広がる海に向かう。
大きな雲が広がっていて……世界の果て、あの壁がそのはるか向こうに聳え立っていた。
天辺が一応見えるけど、雲を突き抜けた上まで伸びていた。
「すごい、どこまでも水、どこまでも壁!」
「でもさ、トルサ。あの壁を右手に見て飛べば、北にいけるじゃん!」
「おお、頭いいっ! 北はあっち!」
トルサが伸び上がって、びしっと北を指差す。
「でも、海に行こうって話だよ。僕は海が見たい!」
「まかせたっ!」
ぼすんとトルサが席に収まり、ぐらっと飛行機が揺れた。
そして―ー
この日もセーンの声は聞けなかった。
飛び越しちゃったのかな?
その夜は、海の岸に降りた。
広い砂地が広がってて、どうやって固定しようか考えた挙句、砂の上に半分引き上げて近くの岩に縄をつないだ。
見たこともない波が寄せては引くので、かなりがっちりとつないだつもり。
そこまでやるのに時間がかかって、日が暮れてきてる。
それと、びっくりしたのが、水がどうしようもなくしょっぱいこと。これじゃ飲めないから、必要な分はうしの道具に頼るしかない。
「うしは、しょっぱい水のこと知ってて、道具をくれたのかな」
トルサは、早速水を作りながら言った。
「よくわからないなあ、うしだし」
「うん、うしだ」
ほんと、うしは不思議だ。
ごろん、と砂の上に転がってみる。
土とは全然違うけど、不思議とやわらかい。
見上げた空には、星がはたはたと瞬き始めていた。
「ほしから、来たのかな」
「うしが?」
ごろん。トルサも隣に寝転び、星を見上げた。
「うしのほしは、きっとうしがいっぱいで、あまったうしが落っこちてきたのかも」
「ははっ、まさか! 小さすぎて、うしなんて入らないよ」
「分からないよ。ものすごく高いところにあるから、小さいだけかも」
「飛んでいってみる?」
「ほら、飛行機は昼しか飛べないって」
こっそり試したことがあったけど、殆ど動いてくれなかったんだ。
「きっと、故郷がだいじだから、星が出る夜は飛べないようにしたの。昼間も、高くは飛べないように、ね?」
「だったら、凄いね」
と、答えてみたけど、なぜか星はものすごく遠くにあって、ものすごく大きいってことをなぜか知ってた。下の村で聞いたような気がするけど、よく覚えてない。
トルサは、知らないのかな。
「トルサは、あの星まで行って見たいと思う?」
「もちろんさ!」
びしっと返事。
僕だって行きたいさ。
行けるかどうか分からないけど――
「明日、上がれるところまで上がってみようか」
「うん、いいね」
「まずは、あの月を目指そう!」
トルサは、日暮れ前から浮かんでいた月を見上げた。
「とにかく、明日だ。今日は寝よう」
「うん……ん?」
「どうしたのさ」
「おなかすいた」
そういえば、食事がまだだったっけ。
次の日は、夜明けと同時に起きて、飛ぶ準備を始めた。
昨日も、食事をしたら直ぐに二人とも眠ってしまったけど、今朝気がつくと、トルサが「ちょっと寒かった」とかで直ぐ隣に居た。
まだ薄暗い空には雲が少しあるけど、うっすら見えている月は覆っていなかった。
「さあ、出発しようか」
二人で乗り込み、発進!
湖と比べて波の大きな海だけど、うしが作った飛行機はちゃんと飛び立つことが出来た。
ばしゃばしゃとゆれたけど、とくに危なげは無かった。
迷子にならないようにゆっくりと旋回しながら、時間をかけて徐々に空の高みへ上っていく。
しばらくして、前と同じように赤い光が点った。
「まだまだ行くよ!」
僕は半ば自分に言い聞かせるように言うと、さらに上り続けた。
「うわ、寒くなってきたね」
雲が近くに見えるようになる頃、雨の日の明け方よりも寒くなった。
「参ったなあ、寝袋が欲しいくらいだ」
「寝袋、かぶる?」
「ぶはっ。飛行機、動かせなくなっちゃうよ」
ぶはっ、と噴出した僕の息が、ふわりと白くなった。
「雲の近くだと、雲が生まれるんだね」
トルサがまねして、ぷはぷはと息を吐く。
「でもさ、これじゃ寒くて風を引いちゃうから、今日は降りて、明日何かを羽織ってこようよ」
「うん……そうだね」
残念そうにうなずくトルサ。仕方ないさ。
操縦かんを倒し、今度はゆっくり降り始める。
上がるときと違って、気を使わないと速度が出すぎて危ない。
「ねえ、トンフア」
周りを見ていたトルサが、ふと、下を見て言った。
「流されてない?」
「そう? 同じように回ってるはずだけど」
僕もまた、下を見てみた。
トルサの言うとおりだった。思ったよりも流されてる。
いつの間にか、僕らが休んだ砂の岸は遠くなり、足元は水ばかりになっていた。
「回ってないで、まっすぐ戻らなきゃ」
僕は旋回をやめて、まっすぐ岸に飛行機を向けた。
いや、向けようとした。
「うわっ!」
「きゃっ!」
急に飛行機がゆれ、二人で思わず叫んだ。
向きを変えている途中に、別のところから吹いてきた強い風につかまってしまった。
「つ、掴まってて!」
「う、うん。トンフアこそ落ちないで!」
ひっくり返らないのが不思議なくらいに飛行機は上下左右に暴れ、僕らは振り回された。
そうしながら、吸い込まれるように雲のほうに向かっていく。
「このままじゃ、雲に食べられちゃう!」
そんなトルサの叫びをかき消すように、ビービーと何処からか虫が苦しんでるみたいな音がして『kinkyu◎***△△■』と、意味の分からない言葉が聞こえた。
すぐに飛行機が暴れるのは弱まったけど、こんどは僕の操作を受け付けなくなってしまった。
どうやっても岸からどんどん離れていく。
それでも一応、雲に食べられるのは免れそうな飛び方をしてはいた。
「絵に残してきた場所がどこか分からなくなっちゃう!」
トルサが泣きそうになって叫んだ。
もう、周りは殆ど水ばかりだ。
このまま、日が暮れるまで陸地が見つからなかったらどうしよう。
『こちら、セーン。緊急信号を受けた。トンフアとトルサなのか?』
突然、あたふたしていた僕らあてに、ラジオからずっと途絶えていたセーンからの声が届いた。
相変わらずざらざらしてて変なアクセントだけど、前よりずっと聞き取りやすい。
「セーン、あなたの元に向かってたら、風に流されて、このままじゃ迷子なんだ!」
『迷子? それは大変だ!』
「周りは水ばかりで、何処にいるか分からないよ」
トルサが必死で見回すが、見えるのは水と大きな雲だけ。地面も一応見えるけど、もうどれがどの地面だか分からない。
『ええっとだな。そこから、壁みたいな山は見えるか?』
「壁? あ、見えた!」
あの壁は、相変わらず健在だった。
そうか、アレを背にして飛べば、帰れるかもしれない。
と思ってたら、セーンから違う言葉が返ってきた。
『わしらが迎えに行くから、あの壁に向かって飛んで行っておくれ。よく見れば、島なら沢山あるから、うまいこと伝っていくと良い』
セーンは冷静な声で、やさしく話してくれた。
おかげで、気分も少し落ち着いてくる。
ゆっくり一呼吸して見渡すと、たしかに島はぽこぽこと浮いていた。
「島、見えた!」
『よーし。低めに飛んで、島を伝っていけば、数日で壁にたどり着くぞい』
思いのほか、壁は近かった。
「でも、壁の何処に着くか分からないよ」
トルサが、見えないセーンに両手を広げながら訊いた。
『大丈夫。風任せに行けば、くもが集まる大きな洞穴にたどり着くはずだ。こっちも、それほどかからずに助けにいけるから、落ち着いて待っていておくれ』
「わかったよ!」
『よーし、よーし。あと、返事がなくても、飛んだら毎回なにかラジオで話してほしい。こっちで聞こえたら、必ず返事するからな』
「うん、うん!」
とても心強い。
とても、とても。
そして、まずは近くの島に。
と、操縦かんを動かしたら、飛行機は僕に従ってくれた。
何処に飛ばされたか分からないけど、とにかく大風の届かないところまでは来たみたいだった。
「ごめんなさい」
しょげ返ったトルサが、小さく言った。
「わたしが、月に行こうなんていわなければ」
「悪いのは、キミじゃない」
天気だ、たぶん。それか、僕。
べつに帰れないと決まったわけじゃない。
「でも……」
こんな弱気なトルサははじめてみた。
「セーンがきっと探しに来てくれるさ」
僕は気持ちを顔に出さず、笑顔で言った。