須藤 亘5
俺は一体何がしたかったのだろう。ここに来てそう考えることが多くなった。
あの女、俺の血の繋がった母親が追い出された時も殆ど感情の動きはなかったし、特にやりたいこともない。これから冬に入るため農作業は一旦停止。(といっても細々とした仕事はあるが…)
やることは亜美ちゃんへの勉強の指導と家事。その内家事は良平さんも亜美ちゃんも手伝ってくれるし、勉強は打てば響くとでもいえばいいのか亜美ちゃんは極めて優秀だった。
趣味の時間もなかった俺は今から趣味を作ろうにも何をすればよいのか分からない。子供の頃好きだったものは全て才能の差を感じ手につかなくなっていた。
結果俺は時間が大量に余り考えることが多くなったのだ。
「…勉強でもするか。」
結論の出ない思考の迷宮に入る前に俺は手慰みに勉強をすることにした。ここで働いた後は一応大学に進学するつもりなのだ。
だがその後はどうするのだろうか。漠然として不安が俺を包む。
完全なる天涯孤独。あの環境から逃れられることを目標にして生きていた。それ以外は考えていなかった俺は問題集を見ても何も思わなかった。
数学の問題はいい。解いている間は他に何も考えられない。しかし、少しでも突っ掛かると思考が引き戻される。
そして図形の問題で一度手が止まると何も手につかなくなった。
「ははっ…こんな簡単な問題だったのか…」
答案の比から求めるというやり方でやり方さえわかれば中学生でもできそうな答えだったのを見て俺は笑った。
ノートに自分でもわかるようにまとめ直すと出典を黙って亜美ちゃんに解かせてみようか…などと考える。そして元の思考に戻ろうとする俺の頭を次の問題を詰め込むことで振り払おうとした。
そんな俺の下にお茶が出される。
「亘…一息入れたらどうだ?」
「良平さん…いただきます。」
良平さんが音もなく俺に貸してくれている部屋に入って来ていたのだ。
「どうだ?気分は…」
「えぇ…まぁ…」
良平さんの言葉の返事がどうしても曖昧な表現になるのは避けられなかった。良平さんは俺の顔を見て苦笑いした。
「晴れねぇみたいだな。」
俺は返事の代わりにお茶を一口飲んだ。熱いが飲めなくはない程よい渋さのお茶だった。
そんな様子を見て良平さんは口を開いた。
「…迷ってるんだろ?これからの身の振り方について…」
「え…?」
いきなり核心を突かれ目を開く俺に対して良平さんはクック…と笑った。
「図星か。」
「えぇ…はい。」
「ま、その顔見てれば分るさ…一応元教職者だしな。」
「…それで江口先生と…?」
良平さんは肯定も否定もせずに話を始めた。
「なぁ…誰が悪いと思う?」
「誰…?」
いきなりの話に俺は付いて行くことができなかった。
「まぁ爺の戯言と思って聞いてな。一応年配者だ…無駄話だが何か為になるだろ。」
「はぁ…」
今一要領を得ない話口に俺は気の抜けた返事しか返せなかった。良平さんはそれで気を悪くしたわけでもなく話を続けるようだ。
「戦後すぐ第一次ベビーブームが起こったのは知ってるか?俺はその頃の生まれなんだが…」
「はい。」
良平さんが生まれた年は知らないが…
「あの頃は貧しかったが…今みたいな社会の捻れは起きてなかった…まぁ家父長制度からひくジェンダーとかはあったが…」
何故か日本史の話が始まったが俺は雇ってもらっている身。話を聞いて行く。
「その頃は勉強が出来なくても人より劣っていても多少ムカつくことがあっても今みたいな問題は起きなかった。」
寧ろ治安が悪そうなものだったがどうだろうか…と思いながら話を聞いて行く。
「だが、歴史は流れる。高度経済成長を迎え、時代は学歴社会へと向かって行った。そして1964年…何があった?」
この話の流れで何が…って言われても…俺が知ってるのは東京オリンピック位しか…とりあえずそれだけ答えるか。違ってたら答えを教えてもらえばいい…
「東京オリンピックですね。」
「そう。それが問題だった。」
「は?」
今一意味が分からない俺だが良平さんは構うことなく進めて行く。
「政府に入っていた金をすべてオリンピックにつぎ込んだんだ。…結果社会福祉などはズタズタになった。」
まぁそうなるだろうな。あの時代に競技場やら高速道路なんかを作ったら金なんてすぐに飛んで行って社会福祉に回す金なんてないだろう。
「そこで問題だ。ベビーブームは1949年辺り。結婚して子供が生まれる時代の辺りはいつだ?」
「…大体20歳で結婚として子供…1969年ですかね…?」
「…まぁその辺だ。社会福祉に回す金はオリンピックでなくなった。ついでに1973年。なにがあった?」
「…オイルショック…」
良平さんは満足気に頷いた。
「そうだな。…そしたら更に金がなくなった。そこで政府はサブリミナルを入れるのさ。男は外で仕事。女は内で家事育児って。…考えてみろ。いつそんな時代があった?日本人は農耕民族だぞ?農業は一家そろってやってきた。」
一瞬、農耕民族で反応しそうになったが俺は真面目に話をきく。
「それで仕事から切り離された女たちは自宅に閉じ込められる。そこで自分を見てくれる人は誰もいない。家が綺麗なのは当たり前。食事が出来ているのは当たり前の世界だからな…」
その話の結末に俺の将来に役立つものがあるのだろうか…
「だが、母親たちは自分と外界を繋げるものを見つける。…子供だ。奇しくも学歴社会に向かっている中、母親たちは勉強ができる子供を通して自己評価を得ることができると気付いたんだ。」
「…出来なければ…」
「怒るだろうな。自己評価を下げているのだから…」
…俺の母親は財部と比べることで自分の価値が下がるのを見て俺にあの仕打ちをしたんだろうか…
「…だが、出来たからといって親子間の関係がいいとは限らない。子は気付くからな…親が実の所自分を見ていないと…俺はそんな親子間の問題を見て歯がゆく思った。この心がボロボロになって行くのを母親は気付けないからな…限界まで貯める子が多くて…」
良平さんの顔は何かを思い出すかのように上を向いていた。
「あの子も…亜美もな親との確執が大きくて俺の所に来た。小さい頃に英才教育を受けて小学校2年生の授業中に大学院の入試の問題を解くほどの知識だけを植え込まれてきた。…まぁ今は小学校高学年、中学校とろくに勉強もしなかったから忘れてる知識が多いがな。」
それであんなに覚えが速かったのか…
「ここに来てからあいつは変わってな。勉強を止めて遊びに遊んで。その後自分でやりたいことを見つけてその為に勉強を始めたいと決めたんだよ。」
そういう良平さんはどこか嬉しそうだった。
「なぁ亘。お前は今大学に行こうとしてるみたいだがそこに何がある?一回勉強なんて止めて気楽に生きてみたらどうだ?…以上が爺の戯言だ。迷いに迷え。ただ、皆がそうしてるから同じことをしていると後々どこかで歪みが起きるぞ…」
そして良平さんは立ち上がった。話は以上のようだ。すっかり冷めたお茶を俺は飲んで良平さんが持っているお盆に器を乗せる。そして去り際良平さんは言った。
「あ、勉強なんてやめてと言ったが亜美に勉強は教えろよ?」
俺は苦笑を返して良平さんの後姿を見送った。実際何の解決にもなっていなかったが、漠然としたことを抱えて何となく大学受験の勉強をするよりも自身と本気で向き合うことを決めた。