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異国の奴隷が取引される市場は、本当に運の悪いことに、私の帰り道の途中に位置する町にあった。都から程近く、また海に面しているため、船に乗って各地から実に様々なものがこの町に入って来る。きっとその中に異国の奴隷も含まれているのだろう。
町に入ってみると、案外容易くその場所を見つけることが出来た。身をやつしてはいるものの、明らかに庶民ではない人々が向かう先にこっそりとついて行ってみたところ、その辿り着いた先がまさに例の市場であったのだ。
路地裏にある一見何の変哲もない、よくある古書屋。小難しそうな古書が、狭い店内いっぱいに並んだ本棚にも収まりきらずに、あちらこちらで積み上げられている。少々ぞんざいな扱いを受けていても、そのどれもが恐ろしい金額のついた代物である。確かに庶民であれば、こんな店に訪れる機会などまず一生ないだろう。
目の前に並ぶ膨大な古書をぼんやりと眺めていると、昨日、自分が口にした「金持ちの道楽」という言葉がふと頭をよぎった。やはり私にはどうしても、人の身を金で買うことへの抵抗感を拭いきれなかった。まだその市場を目にしていないが、実際にここまでは足を運んだのだ。妹には悪いが、この件に関してはこの辺で勘弁してもらおう。そう思ってそのまま私が店から出ようとした時、絶妙なタイミングで背後から声がかかった。
「おや、もうお帰りになられるのですか? シューバック様」
何の疑いもなく発せられた家名に、私は自分が何者であるのか相手にすっかり知られてしまっていることを悟った。そうである以上、下手な態度を取るわけにもいかず、私はすぐさま表情を引き締めると相手に向き直った。
「えぇ。最近、こちらに都の方々がたくさん訪れていると人伝に聞きまして、こうして足を運んでみたのですが……情けないことに一目見ただけで気後れしてしまいまして。やはり私にはまだまだ早すぎるようです」
そう言って私はそれとなくこの古書屋の“裏の顔”を知っていることを匂わせつつ、そちらに関与する意思はないことを示した。そして更に「恥ずかしいので、このことはどうかご内密にお願い致します」と年相応の娘らしく頬を染めながら付け加えた。我ながら全く回りくどい言い方をするものだとは思うが、シューバックという家名を背負っている以上は仕方がない。本音を直接口に出さない、というのはいわば上流社会における暗黙のルールである。
先程私に声をかけたこの古書屋の店主は、私の言葉を聞いた後、その顔に浮かべた笑みをより一層深めた。その様子を見て私は、面倒な相手に引っ掛かってしまったかもしれない、と漠然と思った。
「……これはまたご謙遜を。シューバック様には是非ともご覧になって頂きたい代物がございます。どうか一目だけでもご覧になっていかれませんでしょうか?」
目の前で言葉を発する相手をよくよく観察してみると、一見無害な好好爺を装いながら、その目の奥は決して穏やかな色をしていないことが分かる。彼の言う、是非ともご覧になって頂きたい代物とは、まず古書のことではないだろう。正直なところ思い切り顔を顰めたい気持ちであったが、その衝動を必死に押さえ込んだ。やはりこんなところへ来るべきではなかった。この場で店主の誘いを断ることは容易いが、どうしてか私はその選択をする気にはなれなかった。
私は暫し思案するような表情をした後、口元にうっすらと笑みを浮かべると、了承の意を示すべく店主に向かってゆるりと頷いて見せた。
店主の後に続いて店の奥にある隠し扉の向こうに現れた階段を下ると、そこには薄暗い地下空間が広がっていた。そしてまっすぐな通路の両側に並ぶ、二つある扉のうちの一つを店主が開けた途端、大勢の人の話し声が耳に飛び込んできた。広い部屋の中、人々がいくつかの集団を作り、やや興奮したような様子でお互いに何かを話している。ほとんどの人は、私が今この部屋に入ってきたことにすら気づいていないようだ。
それにしても随分と立派な部屋である。床一面に深紅の絨毯が敷かれ、天井の中央にぶら下がる大きなシャンデリアと壁に取り付けられた幾つかの灯りによって室内は明るく照らし出され、そのあまりの明るさにここが地下であることをうっかり忘れてしまいそうになる。
そうしてさり気なく周囲の様子を観察しつつ、先程からこちらを一度も振り返ることなくひたすら歩き続ける店主の背を追っていると、私の存在に気付いた人々がちらちらとこちらに視線を向けながら何やらひそひそと話す声が聞こえ始めた。暫く都を離れていたために忘れていたが、私に対する世間の関心は非常に残念なことにまだまだ薄れてはいないようだ。昨夜も両親から新たな縁談を持ちかけられ、一蹴してきたばかりである。