14
「サミカ様」
7年の間にすっかりと聞き慣れたはずのその声に、私は思わず身を震わせた。そしてふと自分が未だに支えられたままの状態であることを思い出し、ゆっくりとその腕を外すと数歩分距離を取り、その上で改めてその紫紺の瞳に視線を合わせた。その瞳は、しかしながら私の予想に反して随分と穏やかな色をしているように思えた。
「今はまだ表面上何事も起きていないようでありますが、この夜が明ければ途端に軍勢がこの地にも訪れることでしょう。この地にもはや長居は無用でございます」
そう言って「どうぞ御手を」と差し出された手を、私はただ呆然と見つめた。それでもなお変わらぬ事態に今度はその瞳をじっと見た。やはり先程と同様にその瞳には強い負の感情といったものは見当たらず、嘘をついてもいない。
「この期に及んで一体どこへ何をしに行くと言うんだ?」
「より安全で静かに過ごせる地へと向かうつもりです」
どこまでも至って普段通りの様子を見せるクセバに、私はその真意を掴むことが出来ず、ひどく困惑した。
「……一体何を考えているんだ、クセバ。よりにもよって私などと共にその地へ向かってどうするつもりだ」
私がそう言うと、クセバは差し出したままであった腕を徐に下ろした。そしてその眉を軽く顰めた。
「そのようなことをおっしゃるのはおやめ下さい。確かに私は貴方様を憎く思っていた時期もございました。しかしながら、今はもうそのような感情は微塵も持ち合わせておりません」
「ならば何故、この国を侵略しようとする企みに協力したんだ?」
先程、クセバは国や王位といったものには一切興味がないと言った。それどころかむしろ一族の人間に対する強い憎しみの念すら見せていた。だが、それならば何故クセバは憎く思っていた一族の企みに手を貸すような真似をしたのか。侵略を開始した時期、あるいは男のクセバに対する言動からもクセバが深く関わっていることは明白だ。
そこで私はふとこの場にいるもう一人の人間たる男の存在を思い出した。大きな打撃を受けたとはいえここまで一言も言葉を発することなく、沈黙を守ったままであることに違和感を覚え、男がいるであろう玄関の扉の方を振り返った。そして思わず言葉を失った。
男はその両目を閉じて、全身が脱力したかのように力無く扉の足元に座っていた。
どんなに目を凝らしてもその心臓が拍動する様を確認することは出来ない。
思わず男のいる方へと近寄って行こうとすると、すぐさま背後から左腕を掴まれた。
「まだ死んではおりません。あれは一族の中でも高い能力を持っているために常人よりもしぶといのです」
恐らくは魔術によってその体を一時的な仮死状態にしたのでしょうと、まるで切って捨てるかのような言い方に振り返ってみればどこまでも冷めきった紫紺の瞳がこちらを見ていた。
一時的な仮死状態など、はたしてそんなことが本当に魔術によってなし得るのか。
そもそも一時的な仮死状態とは一体どのような状態を指すのか。
あるいはこのまま放置しても命に危険はないのかなど、普通であればそんなことを口にしたに違いないが、その瞳の宿すあまりの冷酷さに私は気づけば違う言葉を発していた。
「クセバ、お前の望みは何なんだ?」
クセバは私の言葉に対して一瞬呆気にとられたような表情をした後、ゆるく首を横に振った。
「今以上の何をも望みません。……今という時がずっと続くのならば、それ以上は何も」
そう言ってクセバは微かに笑みを浮かべて見せた。しかしながらその表情は私にとって7年という長い付き合いの中で初めて目にする類のもので、私は驚きのあまりクセバの言葉の意味を考えることも忘れ、思わずその頬笑みに見入ってしまった。そして、そのほんの少しの間に全てが決していた。
不意にクセバに名を呼ばれたかと思うと、未だに掴まれたままであった左腕をぐいと引き寄せられ、次の瞬間には目が眩むほどの光に包まれて、私はわけが分からぬままに目を閉じた。
魔術には全く疎い私が、その光が転移魔術が行使されたことによる光であるということを知るはずもなく、暫くしてクセバに促されるがまま開けた目に飛び込んできた全くの未知の景色に私は呆然とする以外に他なかった。
そんな私の様子をクセバは笑みを浮かべたままじっと見つめていた。