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―――――「それはもちろん、貴女と結婚したいと思っていますよ」
不意に脳裏で記憶の中の彼の声が響いた途端、それはまるで川を流れる水のように自然と私の頬を伝って流れ落ちて行った。一筋、二筋と流れ落ちたところでやっと自分が泣いていることに気付いたが、何故自分が泣いているのかその理由も分からず、また絶えず溢れだす涙を止める術も分からなかった。
悲しくて泣くのか。
泣くから悲しいのか。
いずれにせよ、最早何もかもがどうでもよかった。あの日、彼が何を考えていたのか。自分が一体これからどうなるのか。頭の中のどこかでこんなことではいけないと叱咤する声に、私は心の中でもう勘弁してくれと身を縮めて両手で耳を塞いだ。何一つまともに考えることが出来ず、真っ暗闇の中、まるで自分の体が底のない沼にゆっくりと沈みこんで行くような気がした。
「サミカ・シューバックも所詮は唯の女に過ぎなかったってわけか。アンタならもう少し楽しませてくれると思っていたんだがな」
こつりこつりと足音を立てながら男が再びこちらに近づいてくる足音が聞こえた。その音を聞きながら、私は空になった頭で漠然とあぁ、これで終わりなのだと悟った。自分の身に死が迫って来ているというのに、ほんの少しも恐怖を感じていないのが我ながら不思議であったが、すぐにそんなことはどうでもよくなった。涙もいつの間にか止まっていた。
「もうよろしいですよ。この女を煮るなり焼くなり、お好きなようになさって下さい」
やがて足音が止むと、男がそれまでの私に対するものとは全く違った、畏まった口調でそんな風に言う声が聞こえた。
……そうか。
私はこの男に殺されるのではなく、クセバによって殺されるのか。
紫紺の瞳を持つ彼にレブザ・シューバックの曾孫である私が殺されるというのならば、それはまさしく道理であるのかもしれない。そんなことを頭の片隅で考えていると、すぐ背後から「そうですか」と答える声が聞こえた。そこでふと自分の首筋に当てられたままの刃の存在を思い出し、この命もこれで終わりかと思いながら両目を閉じた。
いつまでも訪れないその瞬間に、私はそろそろと閉じていた目を開けた。正面には相変わらず男が立ったままで、先程と何ら状況に変化は見られなかった。どうやらそう簡単には殺してくれないようだ。
「用がお済みなら、どうぞお引き取りを」
物音一つしない沈黙の中、不意にクセバがそう言うと男はその言葉を予想していたのかすぐさま首を横に振って見せた。
「いえ、そのようなわけには参りません。私もその女の最期を見届けさせていただきます」
するとクセバはどういうわけか私の首筋に当てていた刃を懐に仕舞った後、そのまま私の身を拘束する魔術をも解いてしまった。そして次の瞬間、長時間にわたる拘束の反動でその場に崩れ落ちそうになった私をクセバがすかさず片腕で抱え直した。
「……一体どうするおつもりなのですか」
ぐったりとまるで力の入らない身をクセバに預けたまま俯いていると、男が訝しげな声でそう尋ねるのが聞こえた。
「どうしようと私の勝手。貴方には最早関係のないことです」
「確かにその通りにございます。しかしながら、我らが王となられる貴方様のお越しを皆が心待ちにしております故、何卒ご理解下さい」
クセバがすげなく返すのに対して、男が懸命にそう訴える声がやけに耳に響いた。
早く殺してしまえ。
つまり男が言いたいのはそういうことなのだろう。私としても殺すのならばさっさと殺して欲しいところだ。こうして呼吸をしているだけでもまるで生き恥を曝しているようで、これ以上は一瞬たりとも息をしていたくない。
早く殺してくれ。
音にならない声で、気づけば私はそんなことを呟いていた。