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食事、日曜日、聖書

作者: かっきー


食事、日曜日、聖書の三つをテーマに掲げられた三題噺。


短編集のように、またいつか違うテーマで繋がった話を描くかもしれません。




※三題噺…三つのばらばらなお題をすべて使用して話を作る遊びのようなもの。




 最近の夕暮れを見ると、秋が微かに忍び寄るような、そんな気配がする。私は今も、その感覚の中にいた。黄色っぽく焼けた空によく映える朱が、水っぽい絵の具をこぼしたみたいにぼんやりと滲んでいた。漂う大気はじっとりと湿っぽく、重々しくて、どこかかび臭いナメクジを連想させる。明日は恐らく、雨だろう。


 太陽に向かって進んでいく、というのは、妙な比喩などではない。私が歩く上り坂は確かに、静かに沈む夕日の方向へと続いていた。私の目的地はちょうど坂を上りきった所にあって、だからこそそれは、目標達成の象徴か何かのようにも見える。本当の目的は、その先にあるのだとしてもだ。


 ふと、就職先の上司の言葉を思い出す。


「あんたのやることは簡単だよ、簡単そのものだ」


 二日前、まだ知り合って日も浅い彼は、どこか嘲笑うみたいにそう言った。「はぁ」と、限りなく溜め息に近い相槌を打ったのを覚えている。


 確か彼の名は、末松さんといったはずだ。つい先日就いたばかりの職場で、彼はどうやら私よりも歳下のようだった。だからと言って、上司であることに変わりはない。一応、敬称で呼んでいる。


「いいか」と確かめるみたいに前置きをしてから、末松さんは唱えた。


「行って、盗って、帰る」


「行って、盗って、帰る」私が復唱すると彼は満足そうに頷いて、「猿でもできる」と言った。


 取って付けられたような言葉に、私も「なるほど」と頷き返す。なるほど。確かに猿に法の鎖はかからない。


「それで、私は何を盗めばいいんです?」


 この問いは一般的に「当然」と認めてもらえるものだっただろうと、私は今も確信している。しかし末松さんは「待ってました」という風に顔を歪め、「それは自分で考えることになってるんだ」と笑った。これまた当然、私は絶句する。これがこの業界での新人歓迎というやつだろうか。


 数秒後に言葉を取り戻した私は、溢れる疑問を押さえつけながら、いつものようにこうこぼした。「なるほど」


 思いのほか坂は長かった。額に汗を浮かべながら、ここ数日ですっかり痩身になってしまった私は息をあげてしまう。眩しさに目を細めたこの表情は、不機嫌そうなしかめっ面に見えるに違いない。空気が漏れるような音を口から出しながら、やっとの思いで坂を上りきった。


「どこだろう」


 呟いて、手元のメモ用紙に目を落とす。汗が垂れるのを恐れて、すぐにスーツの胸元からハンカチを取り出し、額や頬を拭う。そうしながら、紙上に視線を這わせた。「今時、紙に書いた地図なんて渡されても」と誰にも聞かれぬように文句を呟く。



 ♀♂



 私の懸念とは裏腹に、案外すぐに目的地は見つかった。


 決して古臭くはない二階建てのアパートだ。窓を大きくとったデザインは非常に現代風に写るが、堂々とした貫禄もある。ただ、ある時期の西洋の絵画たちのように、それはどことなく陰鬱に見える。


 六つある部屋のうち、一階の一番奥の部屋が、今回(と言っても私にとっては初めてのことだが)の標的だった。資料によると、大学を出たばかりのまだ若い社会人が居を構えているらしい。どうやらこのアパートは専ら、そういうものたちに利用されているようだった。月曜日のこの時間帯は、まだ大半が仕事場か街中にいるというわけだ。


 私は周囲に目を配りながらその部屋の前に立ち、扉の取っ手に手を伸ばした。鍵が掛かっている。予想通り、留守だ。顔も知らぬ青年には気の毒だし、私にとっても都合がいいのか悪いのか、いまいち判断がつかない。


 末松さんから与えられた鍵で扉を開き、中に入る。本当に開くのか、と感心したが、罪悪感はなかった。妙な緊張や、高揚もない。ただひたすらに無気力だった。上手くいくのならいけばいいし、失敗してお縄にかかったとしても、特別、困ることもなかった。重要なのはいつだって「やるか、やらないか」で、私は「やる」ことを選んだ。行って、盗って、帰る。猿にもできる、らしい。


 とは言いつつ、家に上がってから私はやはり迷った。盗るべきものもはっきりしないのに、私は何をすればいいのだろう。悩んだ末、玄関で靴を脱ぎ、爪先を外に向けて揃える。「おじゃまします」皮肉のつもりだ。


「金目のものか、やっぱり」


 成り立ての社会人の住居に大した額のものがあるとは思えなかったが、かといって他に盗人が盗るべきものも思い浮かばない。仕方がなく棚や箪笥などを、あちこち物色させてもらう。手袋をつけて作業をする経験は少なかったので、それはなかなか難航する。


 数分たって、私はいよいよ途方にくれた。もともとこれといった希望があるわけではなかったが、それでも絶望した、といっていいかもしれない。


 何もなかった。本当に、何も。ぐるりと部屋を見渡すとそれがよくわかる。まさに必要最低限と呼べるものしかなかった。パソコンどころか、テレビすらない。


「最近の若い子達は冷めてるなあ」


 現金をはじめとする金品も一切見当たらなかった。私は脱力して、傍にあったソファに腰を沈めかける。


 そのときである。一人の青年が、買い物袋を提げて玄関から入ってきたのは。当の被害者が、明らかに帰宅したのは。私は無様な体勢のまま、その場で硬直した。青年と目が合った。流石に、驚く。



 ♀♂



 しかし、事態は予想もしない方向へ転がった。青年が、一瞬だけ驚いたような表情を見せたかと思うと、すぐに微笑んだのだ。人懐っこいその表情のまま、「久しぶり」と彼は言った。「え」間抜けな音が自分の口からこぼれるのがわかる。


「何だ、びっくりした。送ってくるなら言ってくれよ」


 感じの良い微笑みを絶やさぬまま、青年は部屋の中へずかずかと上がり込んできた。いや、ここは彼の自宅なわけだから、上がり込んでいるのは私の方なのだが。それなのに、妙な感じがした。大学の頃の、図々しく私の家に上がり込んできた馴れ馴れしい後輩のことを思い出す。


「そのまま座ってよ。いつまでもそんな体勢じゃ、疲れるでしょ」


「は、あ」


 中腰のまま固めていた姿勢を緩め、腰を下ろす。「どうも」と軽く頭を下げると、青年は短く「いえ」と答え、手に提げていた袋を胸の辺りに掲げた。


「ちょうどいいや。これ、買い物にいってきたとこなんだ」


「はぁ」


「遠慮は要らないから。ご飯、食べてきなよ」青年は、そのままキッチンへ消えていく。




 彼が、あまりに自然に振る舞うものだから、私はひどく混乱した。この青年と以前付き合いがあっただろうか、と首を捻る。もしかして先ほど脳裏をよぎった大学時代の後輩本人ではないかと疑ったが、あまりにも顔付きが違った。というかそれ以前に、私の記憶の中身をどうひっくり返してみても、そこに彼の顔は見付からなかった。だとすれば、彼は誰だ。


「君、トマトは大丈夫?」キッチンから、気弱な小動物のようにひょっこりと顔をのぞかせた彼の顔付きをもう一度見つめてみて、私は確信する。私と青年は、間違いなく初対面だ。


「ちょっといいか」少し考えて、砕けた口調を使う。「君、誰だ」青年が反射的に目を丸くし、それからすぐにとぼけた顔になった。へらへらしながら、リビングの方へ向かってくる。


「ヨウ」と彼は言った。一瞬、軽々しい挨拶かと間違える。しかし、それが彼の名前なのだと気付くのに、そう時間はかからなかった。そしてやはり、過去に私がその名を聞いたことはない。


「太陽の、陽だよ。似合うでしょ」


「昔、私と会ったことがあるのか」


「ないね」けろっとしたものだった。「私もない」割りと近くに立っている彼を注意深く観察しながら、私は少々強気にそう言ってやる。


 彼は全体的に細身の体型をしていた。引き締まっているというよりは、痩せているという印象を受ける。顔付きは良い。鼻が流れるように通っていて、目元は柔らかかった。よく仕付けされた、賢い日本犬のような凛々しさがある。


 きっちりした黒いパンツに、白のカッターシャツへバーテンダー風のベストを重ねるという、一見フォーマルな格好をしていた。モノクロで統一されたファッションを見る限り、お洒落に気を遣うタイプのようだった。胸元の灰色のタイはサテンが入っているのか、照るように光っている。


「お嬢さん」と青年は言った。女性らしい扱いをされたのは久しぶりで、私はそれがひどく不快だった。俯き、「お嬢さんは止めてくれ」と憤る。私の怒りなど気にも留めない様子で、彼は続ける。


「君は誰だ、なんて言われても困るよ。それは俺の台詞だ。そうだろ」


 はっとする。自分が泥棒だということを、もっと言えば現行犯の犯罪者であることを、私はすっかり忘れていた。慌てて、目の前の優男の顔を見上げる。私の表情が余程おかしかったのか、彼は声をあげて笑った。私はというと、笑い声を聞きながら、逆に冷静になれた。


「俺は陽だ。君は誰だ」私の口調を真似て彼は言った。からかっているつもりらしい。呆れつつ「鳴海」と答える。本名だ。


「下の名前を教えてくれよ」


「名字で充分だと思うが」


「俺は下を名乗ったんだぜ」


「勝手な理屈だ」


「君が俺んちに上がりこんだのも、たぶん、勝手な理屈だろうね」


「これで五分五分だよ」と加えて、彼は笑った。まだ幼い少年が、大人に褒められ得意気に笑うのに似ていた。どうにでもなれ、という思いで私は「幸」と名乗る。どうせ警察に捕まるのだから、と開き直っている節があった。この状況から逃れられる術は、残念ながら私にはない。


「海の幸、のサチ?」


「君は海か」末松さんは山だった。


「良い名前だ」


「悪い名前なんて滅多にない」


「とにかくよろしく、幸さん。飯食べてってよ。あ、そうそう。トマトは苦手?」まるで聞いちゃいない。私はうんざりして「何なんだ」と嘆いた。立ち上がる。再びキッチンへ行きかけた青年の手を取って、強引に振り返らせる。


「なぁ、君は何がしたいんだ。見ればわかるだろ、私は泥棒だぞ。泥棒に飯を食わす馬鹿がどこにいる。私だって好きでここにいるわけじゃないんだ、警察を呼ぶなら早くしてくれないか。ずっとわけのわからない半端な状況に立たされ続けるのは真っ平なんだよ」


 一気に捲し立てて、それから最後に「トマトは大の苦手だ」と吐き捨てる。掴んでいた青年の手を、彼の太股目掛けて叩きつけるように離した。


「幸さん」


 青年は「困ったな」という顔で私の名を呼び、それから、わざとらしく太股をさすってみせた。「先に言っておくけど」と前置きをして、口を開く。その様子は少しだけ末松さんに似ていた。


「俺は幸さんを警察に出すつもりはさらさらないよ。なにせ俺はまだ、なにも盗まれてないしね。でも、だからと言ってほいほい帰すわけにもいかないんだ。俺にはちょっと、やらなきゃいけないことがあるから」


 随分と含みのある言い方に、私は眉をひそめる。自分で言うのもなんだが、私の容姿は悪くない。


「あぁ、変な意味ではない」先回りするように、彼は苦笑しつつ断言した。今の場合はそれが考えられる一番の意味であって、むしろそれ以外が変わっているだろう、と私は思うのだが、口にはしない。変わりに出たのは、私がいつも使う、諦めの口癖だった。「なるほど」


「悪いね、じゃあ付き合ってもらうけど」


「好きにすれば良い」この男はどこまでへらへらしているのか、と思いつつ、投げやりに返事をする。世の中はいつだって理不尽だ。


 軽くも重くもない、無我の境地みたいな精神状態で空き巣に入ってみると、逃げる前に家主が帰ってきてしまった。どうなるかと思えば私は今から、その家主と食事をしようとしている。一体なんの冗談だ。


 なにもかも面倒くさくなって、私はもう一度自分の体をソファへ投げ捨てた。「ぼふ」という鈍い音とともに一瞬の反発があったあと、ゆっくりと沈み込んでいく。このまま地面にめり込んでいけたら良いのに、と思う。


「今夜はトマトソースのパスタにするつもりなんだけど」


「そうか」本音を言えば、勿論、どうでもいい。


「大丈夫そう?」


「私は食べないから、問題ない」


「ちょっと」せっかくキッチンの方へ消えていったかと思ったら、今度は不満そうに口を尖らせて出てくる。「そりゃないぜ」


「わかった、わかった」そう言いながら、実際はもうわけがわからない。様々な色のペンキをぶちまけたみたいに、頭の中がぐちゃぐちゃになっていた。目眩すらする。


「ケチャップも駄目?」


「ケチャップの味は嫌いじゃない」


「じゃあ、ナポリタンにしよう。ケチャップ多めにしとくから」


「どうも」もうどうなったって良いから、全ての思考を放棄して寝てしまおうと思った。



 ♀♂



 まさか本当に寝てしまうとは、私だって夢にも思わなかった。肩を揺さぶられる感覚と共に、目を覚ます。あの男の顔が目の前にあった。「幸さん」と安心した顔で彼は言った。


「寝てたな、私」


「ぐっすりとね、三十分ぐらい。眼鏡もずれてる」


「一生の不覚だ」本心だ。


「大袈裟な」と言って、彼はまた笑った。この男はこれ以外の表情ができないのだろうか、と眉をひそめる。


「できたから温かいうちにどうぞ」


言いながら、彼は私の向かいに腰をおろした。テーブルの上を手で示し、私の顔色を疑うように下から覗き込んでくる。相変わらず、犬のような顔だ。


 彼に倣って私も床に尻を落ち着けると、出来立てのパスタから昇る湯気に顔を打たれた。テーブルの上にはナポリタンとフォークとスプーン、そしてタバスコと粉チーズが用意されていた。ポタージュスープまである。浮かんでいる具材を見る限り、こちらはインスタントらしい。


 しつこく誘ってきただけあって、パスタの見た目はなかなか悪くなかった。たっぷりのケチャップで、鮮やかな赤色に照っている。やや子供っぽいナポリタンだ。ただ、玉ねぎにベーコン、ピーマンにほうれん草と、具材はやたらに多い。つい「凝ってるな」と口走る。


「男が作った料理は嫌い?」真顔で彼が尋ねてきた。唐突であるばかりか、内容もどこかおかしい。調子外れだった。「なんで」と逆に質問する。


 驚くことに、青年は「いや」とは言い淀んだ。決まりが悪そうに「勝手なイメージだよ」と申し訳なさそうに笑う。なるほど、と納得する。確かに笑い顔というのは便利だった。常に笑顔でいるというのは、案外合理的なことなのかもしれない。「喋り方からして、女尊男卑万歳、って感じかと思って」


「それは違う」即答する。特別、そういうわけではなかった。「というか女尊男卑主義者相手なら、男が料理を作ってなにが悪い」素朴な疑問を口にする。


「あー」と彼は短く呻いた。そうしてしばらく視線を宙に漂わせたあと、「男にはなにも任せたくない、みたいな」と呟いた。歯切れが悪い。


「それじゃあ余りにも、男性の立つ瀬がない」


 私は苦笑してスプーンを手にとり、ポタージュを掬って口へ運んだ。「美味い」と囁く。


「それはインスタントだろ」俺が作ったんじゃない、と不貞腐れるので、仕方なくパスタも口にした。一応、「悪くない」と言っておく。


 随分と懐かしい味だった。幼少期に思い出があるわけでもないのに、なぜ人々はこの味を「懐かしい」と表現するのだろう。困ったことに、その表現はやけにしっくりとくるのだ。柔らかくて、暖かい。


「ところで」ポタージュを啜りながら、青年が言った。「幸さんは俺の家で、一体なにをするつもりだったのさ」そう尋ねて、唇を舐める。私はそれを当然の質問だと認めた。


 しかし今更か、と呆れながら「なにって、泥棒しかないだろう」と開き直ってみる。すると青年は、すかさず「そこだ」と口を挟んだ。そして、手に持っていたスプーンを礼儀無く私に向けた。「人を指すな」


「そこが腑に落ちないんだよね」やはり私の注意などまるで聞いちゃいない。


「どうせ盗みに入るならこんな中途半端なアパートじゃなくて、もっと金持ちそうな家に入れば良い。そうだろ?」


 彼はどこか確信じみた調子でそう言った。それから皿の上のものを一気に詰め込んで栗鼠のように頬を膨らまし、子供臭く鼻をならした。興味というか、好奇心に満ちた目をしている。私は「そう言われてもなあ」とお茶を濁すしかない。


「私が選んだわけではないから」ここまで喋ってしまって、私はしまったと後悔する。


「私が選んだわけではない?」目ざとく、青年が指摘した。「それって、どういうことだよ」


 私は流石に言葉が見つからなかった。末松さんは、こういう状況下で取るべき言動を私に指示していない。一般の常識として、社員に罪を犯させるような会社の全容はその一社員として絶対に黙しておくべきことのように思えたが、ここまで言ってしまってはもう仕方がなかった。後悔先にたたずとはこのことだ。


「ええと」


「誰かの指示があったってことか」既に食事を終えた彼は、そう推測した。その通りなので、黙り込む。それを肯定ととったのか、彼は「そうなるとますますわからないな」と呟く。


「俺からなにを盗めって言うんだろう」


「それがわからないんだ」思わず、口にした。「盗むものは自分で考えることになっているらしい」それは、会社の存在をばらしたも同然の台詞だった。


「その人にそう言われたの?」


「人ではない」どうせ仕事は失敗しているのだし、もうどうでも良くなる。生憎、諦めるのは得意だった。所詮、妥協を重ねる人生である。


「会社だよ」


「会社」叫びに似た声をあげて、青年は目を丸くした。「秘密結社だ」とはしゃぐ。


「泥棒の会社があるのかよ」


「泥棒の会社いうより、頼まれたことをする会社だ」と末松さんが言っていた。


「世も末だ」と言うわりには、青年はどこか満ち足りた笑顔だった。ただその言葉には共感を持ったので、小さく頷いておく。それから、残り少なくなったポタージュを啜る。インスタントの割には、やはり美味かった。



 ♀♂



「そういう会社って、どう成り立ってるんだろう」思い付いたように、青年は言った。


「私はついこの間別の仕事から転職したばかりだからよくわからないが、余所からの依頼があって、それを社員にこなさせる形らしいな。仕事上のサポートもしてるらしい」


「サポートねぇ」疑わしい、というように彼は顔をしかめて立ち上がる。そうしてキッチンへ消えたかと思うと、湯気のたったマグカップを二つ持って戻ってきた。


「これまたインスタントで悪いけど」目の前にカップが置かれる。中を覗いてみると黒い液体が揺らめいている。コーヒーだ。


「今回もサポートはあったの?」


 両手で包み込むように自分のカップを持ちながら、彼は尋ねた。答えようとして、あることが気にかかる。この失敗は会社側のミスではないのか、という疑問が沸き上がる。


 私は身を乗り出して「どうして君がここにいるんだ?」と言った。ほとんど、独り言に近い。青年の顔を見る。一瞬、彼の表情が意地悪な微笑みに見えたが、まばたきを繰り返すうちに間抜けな顔がそこに現れた。どうやら、見間違いらしい。


「末松さんから渡された資料だと、君はまだこの時間は仕事中のはずだ。日曜日でもない限り」


「そんなことまで調べるのか」感心したように言って、両手をつっかえ棒のようにしながら体を後ろへ倒し、彼は真正面から私を見た。


「ねぇ、幸さん。どうして床屋は月曜日が休みだと思う?」


 意味など無さそうな問いに一瞬戸惑って、しかしすぐにその真意に気付く。


「そりゃ勿論、土日に客が多いからだろうけど、それだけじゃないんだ。組合があって、そこで正式に月曜日が定休日として決められてる。幸さんと同じように、上から月曜日は休めって指示されてるんだよ」


「じゃあ」


 すべてを悟った私に、彼は手品師が種をばらすみたいに言った。「悪いけどさ、俺にとっての日曜日は、月曜日なんだよ。幸さん」



 ♀♂



 両手をチョキの形にして、彼はまた得意気に笑った。犬が蟹の真似をしているようなその姿は、どことなく可笑しかったが、私は笑えない。代わりのように「なるほど」という言葉が、口元からこぼれる。心のそこから「なるほど」と思うのは随分と久しぶりだ。


「君は美容師だったのか」


「の卵だね、正確にいうと。だから今日は休みだったんだ」


「羨ましい」うっかり呟く。この職に就く前、労働条件の厳しい一般企業に勤めていた私にとって、月曜日が休日というのは異様に新鮮だったのだ。


 なかなか解けないパズルを完成させたような満足感に浸っていると、私の心中には、様々な疑問が浮かんできた。この際だと開き直って、私は更に身を乗り出す。




「最初に久しぶり、と言ったのはなんだ」


「ああ」と青年は頷く。「あれは刺されないために」当然だろ、とでも言いたげ口ぶりだった。


「刺されないため?」


「帰宅して、知らない人がソファに座ろうとしてたら、居直り強盗か何かだと思うじゃないか。いきなり刺しに来られたくはなかったから、試しに適当なことを言ってみたんだ。初対面の人に久しぶりと言われたら、大抵の人は動揺する」


 意外にも彼は、真顔でまともな答えを返してくる。あのとき私は確かに動揺した。彼の言動の効果は、少なからずあったのだ。


「死因が若い女性に刺される、だなんて、最高にかっこ悪いじゃないか」


「食事を勧めたり、やることがあると言ったのも?」


「幸さんが混乱してくれると思って」おどけた調子でそう言って、いたずらっぽく笑う。「してやられたよ」言葉の通り、私はまんまと嵌められていたわけだ。


「まさか寝られるとは思わなかったけどね」と彼は快活に、また、笑う。


 私は思わず俯いた。顔が火照っているのが、自分でもわかった。しかし、妙に違和感を覚える。


「やらなきゃいけないことがある、というのがはったりなら、どうして私が寝てるうちに警察を呼ばなかった?」


 なんとか顔をあげ、私は素直に疑問を口にした。彼は両手で持ったカップから音をたててコーヒーを啜り、ゆっくりとした溜め息をついてから答えた。


「もし汝の兄弟が罪を犯せば、これを戒めよ。もし悔い改めれば、これをゆるせ、ってね」


 私は呆気にとられ、「へ?」と間抜けな声をあげた。喉の奥から絞り出したような、嗄れた音だった。口調の変化を素直に受け止めすぎたせいで、それがなにかの引用らしいということに気付けない。


「マタイの福音書に載ってる言葉。新約聖書だよ」と彼は言った。そうして僅かに尻をあげ、ポケットから手帳ほどの冊子を取り出す。


「幸さんが盗むべきものがなにかはわからないけど、俺が一番大事にしてるのはこれだね」


「キリスト教信者だったのか」


「いや」頭を振って、彼は否定をする。「そうじゃなくて、聖書の一部を信じてるだけだよ」その顔に、自嘲じみた笑みが浮かんでいた。


「まあとにかく、幸さんが悔い改めるなら、許すのもありかなってね」


「なるほど」


「でも聖書の中には、罪の報いは死なり、って言葉もある」


「過激だ」そして、私にとってはだいぶまずい金言だ。


「けど俺は、この教えには従わないことにしてる」


「それまた、どうして?」


「自分に都合の悪い教えには、従わないことにしてるんだよ」


 そう言って片眉をあげた彼の表情は、泣いているようにも、笑っているようにも見えた。



 ♀♂



「人の罪を許せば、また汝も許されるだろう」手元の本を開いて、青年は重々しく口にした。「素晴らしいよね、この教え大好き」うってかわって、軽々しい。


「それで私を許すのか」


「そういうこと」


「自分のために」


「感謝してるって」と、彼は苦笑しつつにやけた。気持ちの悪い笑い方だ。


「どうしてわざわざ泥棒なんかする会社に入ったのさ」


「色々あったんだよ」


「その色々をきいてるんだけど」と言って、彼は肩をすくめる。「そういうのを知っておかないと、許すに許せないだろ」


 嫌な質問に、私は思わず大きな溜め息を漏らした。そうして、「前の会社で」と口火を切った。


「人間関係で、揉めた。それなりの出版社でな。そこで記者をやってた」


「どうして揉めたの」不思議そうな顔をする。


「女が活躍するのを許せない男というのは、案外いるから」本音を言えば、私の方が奴等に「なんで」と問い詰めてやりたい。「まぁ、私の態度が気に入らないというのもあるんだろう。こういう性分だ。私は愛想を知らないからな」


「それで辞めたの?」


「人の言うことをほいほい聞いてしまう癖がついた辺りから、身の危険を感じたよ」


「なるほど」と彼は感心したように言った。自分だけの特技が誰かに真似されたような、妙な気分をになる。そして、それが問題だった。諦めや妥協というものが、これ以上この身に染み付いていくのに堪えられなかったのだ。


「まぁ、正直あまり興味はないんだけど」


「君がきいたんだろ」流石に怒る。


「それで、そいつらを許す気はある?」


 唐突な話題転換に、私は「ふむ」と手をつかねた。少し考えて「私の罪が許されるなら」と答える。ユーモアのセンスは、無いわけではない。


「許すっていうのは、忘れるってことだよ」彼はどこか悟ったように言った。


「それも聖書の言葉か?」


 短く「違う」と呟いて、青年は数瞬、何かに思いを馳せるような表情を見せた。そうして私の目を見て、へらりと笑った。


「それで、自棄になって泥棒を始めたわけ」


「仕事を辞めてから、かなり厳しい生活をしてたからな。ネットカフェで寝泊まりをして、貯金もつきかけた頃に、声をかけられた」


「泥棒をしないか、って?」


「いや」馬鹿にするような彼の言い草に、少しだけむっ、とする。「仕事がある、って」それが末松さんだった。


「いくら切羽詰まってても、知らない男にほいほいついていっちゃいけないよ。そんな口説き文句なら、特にね」


「どうにでもなれ、という感じだったからな。あの時は」と言っても、つい二週間前かそこらの話だ。


「今は?」


「なにが」


「今も、どうにでもなれ、って感じなわけ?」


「今は」答えようとして、詰まる。随分と間を置いて、「どうだろうなあ」としか言えない。なんだか不思議な気分だ。


「幸さんは、会社が人を殺せ、と言ったら殺すの?」


「それは」やっとの思いで、絞り出す。「わからない」本当に、そう思うのだ。


 青年は真面目な顔で「俺が思うに」と前置きをした。そのときの雰囲気はますます末松さんに似ていて、私は妙な違和感を覚え始める。


「その仕事をやっていける人っていうのはきっと、罪の意識を感じない極悪人か、罪の意識を感じようとしない無気力な人間だけだよ。ちょうど、そのときの幸さんみたいに」


 芽生えた小さな違和感が、私の中に力強く根をはり、少しずつ育っていくのを感じながら、私は真っ直ぐに彼を見つめていた。そして、彼も真っ直ぐに私を見つめていた。


「だからもし幸さんがその仕事を続けたいってのなら、幸さんはすべてを放棄するべきだ。それこそ人が言うことをほいほいきくような、そんなロボットみたいな存在になるべきだ」小さな、しかし熱の籠った彼の言葉を受け止めながら、私は必死で考える。この違和感の正体を、懸命に探す。


「だって幸さんはどうやったって、悪人にはなれなそうだもの」


 ふいに違和感は化け物のようにその大きな首をもたげ、ついに私を見た。


「そうだな」私は答えて、スーツのポケットを探る。「私は悪人にはなれない」そこに、末松さんがくれた鍵があった。


「陽くん」初めて、彼の名を呼ぶ。


「なに?」


「私は、この仕事に向いてるかな」


 彼は不思議そうに目をしばたかせた。覇気のない笑みを滲ませ「俺に聞かれてもなぁ」と言った彼の言葉を、私は「いや」と否定する。「君ならよく知ってるかもしれないと思って」


「どういうこと?」


「陽くん」自分の推測が見当違いにならないことを祈りつつ、私は言った。


「今すぐこの部屋の鍵を出してみろ。君がこの部屋の住人だっていうのなら」



 ♀♂



 部屋の中は、すっかり暗くなっていた。私が見たあの夕日は、恐らく既に沈んでしまったのだろう。薄暗い部屋の中で私たちは、睨み合うように対峙した。長い沈黙のあとで彼は、はりつめた糸が緩んだように笑い、「まいったな」と言った。そうして、「名推理をどうぞ」とおどけた。私はポケットから、末松さんに与えられた鍵を出す。


「この部屋の鍵は、これなんだろう。末松さんは会社で用意した合鍵だと言っていたが、それは嘘だと思う」


「どうしてそう思う?」楽しそうに、首を捻る。


「私がこの部屋に入ったとき、扉には鍵がかかっていたんだ」青年が首だけで振り返って、ちらりと扉を見た。「それで?」


「私は鍵を開けて部屋に入ったから、勿論、扉の鍵は開いたままだった。それなのに君はごく普通に扉を開けた。かけたはずの鍵が解かれていることに気付いたら、普通の人間は部屋の中に入らないか、それなりの用心をする」


「やっぱり、無理があったかな」と、青年は悔しさに地団駄を踏む少年のような顔をした。もはや認めたも同然の言動だった。


「なら俺は誰なんだろう?」自分でもわからないというような言い草をする。


「君は私が末松さんに声を掛けられた話をしたとき、君は知らない男、と言ったな。私は一言も男なんていってない」


「それじゃ、俺が会社の人間だと?」


「そうだ」


「弱い」と彼が唸る。


「人は思い込む生き物なんだ、勝手なイメージで男と思ってしまっても仕方ない」そう言って彼は立ち上がり、数歩歩いて部屋の電気をつけた。そして、そのまま座らなかった。私が彼を見上げる形になる。


「それに俺がもし同棲者のいる青年って設定だったら、勝手に鍵が開いている扉を開けてしまう可能性も、ないわけじゃない。君の推理には、そういう風に言い訳ができる。申し訳ないけど、俺たちの資料は完璧なわけじゃないぜ。今回のケースみたいに、思いもよらないような食い違いが起こることもある。美容師には何度泣かされたかわからないね」


 自慢のおもちゃがどんどん壊れていくような気分になりながら、私はすがるように尋ねる。「けれど鍵は持ってないんだろ?」


「まぁ」と唸るように呟いて、彼は額を掻く。「持ってるよね」彼の答えに私は驚き、消沈する。「持ってるのか」


「君の推理はすべて外れってわけだ。目の付け所は、悪くないけれど。俺たちは合鍵ぐらいなら本当に作るぜ」そう言って、満足そうに笑う。私はまた、顔が火照るのを感じる。


「テストだったんだ」と彼は言った。


「テスト?」


「面接みたいなものだよ。君の人間性を見るための」


「やることがあると言ったのはそれか」納得がいく。


「そうだね。一応君は合格だ。できれば会社のことをあんなにぺらぺら話して欲しくはないんだけど。それでも、あんな状況で眠れるほどの座った肝があれば充分だ。それと」


「なんだ」


「なかなか寝顔が可愛かった」


「茶化すな」


「怒るなよ」からかうように彼は笑って「ただ、君が男を憎んでいないことは残念だ」と言った。


「憎しみとか恨みとか怒りだとかっていうのは、この仕事をする上での強いモチベーションになるからね」


「そうだろうな」恥ずかしさで、投げ槍になっていた。


「でも、そういう感情から働く悪事は、罪だ」


「そうでなくても法を犯せば罪だと思うが」


「そういう問題じゃあないって、わかってるくせに」彼は苦笑して「実は俺はこのテストの中で、とんでもないミスをしてる」と暴露した。


「どんな?」


「俺は君に久しぶり、と言ったあと、送ってくるなら言ってくれよ、と言っちゃたんだ」照れたように笑う。私は「あ」と呆けた声をあげた。


「それって」


「びっくりしたんだよ」怒ったような口ぶりが可笑しくて、つい笑みがこぼれる。


「今回のテストは俺にとっても完全に抜き打ちだよ。末松の馬鹿がきちんと知らせてくれなかったんだ。ここ数日のうちに来るとは知ってたけど、まさか今日だとは」


「適当な会社だな」


「他人事みたいに。君はそこに入ったんだぜ」


 私は笑いながら手の中の鍵を適当に弄んで、テーブルの上に置いた。「でも」と前置きをする。末松さんや目の前の青年に似てきたな、と頭の片隅で思った。


「私が盗めばいいものって結局なんなんだ」


「ここまで来てまだわからないのか」


「君の心か」


「俺たちの仕事は怪盗じゃないぞ」彼は真顔で言った。それが堪らなく可笑しい。


「まぁ、ある意味正解だ」


 そう言って彼は、手に持っていた手帳ほどの冊子を投げた。手にとり、開く。栞のようにして挟まっていたのは、既にテーブルの上に置かれていたものと全く同じ形をした鍵で、そして手帳ほどの冊子はそのまんま手帳だった。そこに、十一桁の数字が並べられている。


「これでネットカフェに頼る生活はおさらばだ」


「家賃はそちらが持ってくれるわけか」


「幸さんが会社に残るのならね」映画に出てくる外人のように、肩をすくめる。


「ここが最終決断でもあるんだ。ここで会社に残るか、普通の生活に戻るかを決めてもらうことになってる。普通の生活に戻ることを選んでも、会社は君に危害を加えることはない。俺が保証するよ。そんで、それが」そこで言葉を区切って、彼は顎で開かれた手帳を示した。「末松の携帯番号だ」


 よく考えて決めるといい、と言って、彼は私に背中を向け扉の方へ向かった。その後ろ姿に、声をかける。


「おい」


 扉を開きかけた状態で彼は振り向いた。体はほとんど、外にある。外はやはり真っ暗だ。彼が私にした質問を数回、反芻してみた。意を決して、尋ねる。


「君は、人を殺したことがあるのか」


 まず、沈黙があった。


 彼はまた、泣いているような、笑っているような表情をする。静寂という名の音楽が私たちを襲うようなその感覚に苦しみながら、私は彼の言葉を待った。


「許すっていうのは」彼はやはり、前置きをする。


「忘れるってことなんだ。でもね」


「でも?」


「相手が忘れてくれても、自分は忘れられないことっていうのは、割りとある」


 予想通り、胸が痛んだ。その顔を見ながら、やはり笑っているのだろう、と私は思った。その笑みが自分への陶酔から生まれているのか、それとも卑屈な自嘲から生まれているのかは、私にはわからない。もしかするとそれは、激しい嫌悪からなの来ているのかもしれなかった。そして、すべてを察することはできなくとも、私もやはりこう言ってしまうのだ。


「なるほど」


 彼は自然に出てしまったような笑いを漏らして「またね」と言った。そしてその言葉を残して、扉は閉まった。まるで私が会社に残ることを確信しているような言い方だ。そんなわけ、と苦笑する。残された二つの鍵と手帳の上の数字を睨みながら、部屋中に漂う静かな音を聴いた。彼が残したものは、ここにもあったのだ。


 携帯を取り出して、ゆっくりとボタンを押す。


 啜ったコーヒーは既にすっかり冷えきっていて、それでも変わらずほろ苦い。甲高いコール音を聞きながら私は、果たして猿に彼の心が盗めただろうか、と思った。




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