結婚式のパレードで夫が番を見つけましたので、花嫁の私は転地療養に出かけます ~三年後の離縁状をお待ちください~
結婚式の当日は、朝から雲が低く垂れこめ、時おり雨がぱらつくような生憎のお天気だった。
それでも婚姻の儀を終えた私たちが大聖堂から出た時には、雲間から太陽が顔を出したので、パレードは予定通り行うこととなった。
王都の目抜き通りを、幌を畳んだ純白のランドー馬車がゆっくりと進んでいく。
「国王陛下、万歳!」
「ご結婚おめでとうございます!」
家々の窓から降り注ぐ黄色の花びらは、獅子獣人である夫の髪色であり、紋章色でもある黄金色にちなんだものだ。
「疲れてはいないか、リディア?」
沿道で歓呼する人々に手を挙げて応え、もう一方の手で私の手を握りながら、先ほど誓いを交わしたばかりの夫が優しく声をかけてくる。
「ありがとうございます、陛下。大丈夫ですわ」
「ライオスと」
「え?」
「私たちはもう夫婦になったのだ。名前で呼んでくれ」
波打つ豊かな金髪に琥珀の瞳。堂々たる体躯は、まさに王者の風格だ。
こんな素敵な人が私の夫だなんて……。
夢見心地でそんなことを思いながら、私が、
「わかりました。……ライオス」
そう答えた時だった。
ふいに夫が顔を上げ、空気の匂いを嗅ぐような素振りを見せたかと思うと、私の手を放して勢いよく立ち上がった。
はずみで馬車が大きく揺れ、驚いた馬たちが棹立ちになる。
私は咄嗟にライオスにしがみついた。
「ライオス? 一体どう……」
「見つけた!」
叫ぶや否や、ライオスは乱暴に私を押しのけ、馬車から飛び降りて沿道の人混みに駆け込んでいく。
人々が慌てて道を開けたその向こう、ただ一人呆然と立ちすくむ少女の姿が見えた、次の瞬間。
夫と少女は、互いにひしと抱き合った。
――獣人国の王、ライオス二世が自身の番を見つけた瞬間だった。
◆◆◆
降りしきる雨が、目抜き通りに落ちた黄色の花びらを濡らし、側溝へ押し流していく。
沿道を埋めていた人々は屋内に引っ込み、今ごろはついさっき起きたばかりの珍事についてあれこれ噂していることだろう。
「――今後の対策についてですが」
夕刻。王宮の閣議室。
濡れそぼったウェディングドレスを脱いで湯浴みを済ませ、簡素な普段着に着替えた私は、この国の宰相である初老の梟獣人と向かい合っていた。
国王の姿はここにない。
彼が沿道で見つけ、片時も離さず王宮に連れ戻った少女の姿も。
「ご安心ください。初夜は滞りなく執り行われます」
「……は?」
一瞬、何を言われているのかわからなかった。
初夜? あの男と?
番の少女を連れ帰るなり寝室に閉じ籠り、今も行為に耽っているというあの……。
「陛下は、抑制剤を服用されていなかったのですか」
番を判別する鋤鼻器官を鈍らせる薬。
獣人族が仕事中に番を見つけ、理性を失わないために服用が義務づけられている薬を、国王は飲んでいなかったのか。
宰相は、申し訳なさそうに目を伏せた。
「……その、陛下は昔から抑制剤がお嫌いで……」
「好き嫌いの問題ではないでしょう」
「今宵は必ず使われます」
「あの陛下が、おとなしく抑制剤を飲むとお思いですか」
「…………」
「お断りします。正気ですか。大勢の国民があれを目撃したのですよ」
「妃殿下」
「こうなった今、婚姻はもはや無効でしょう」
「ではありますが!」
――この結婚は、国と国との約定にございます。
そう言われてしまえば、人間族の国の皇女として嫁いできた私に、それ以上離縁を主張することはできない。
「では、今宵に向けてご準備を」
宰相は恭しくそう言うと、侍女たちに私の世話を任せて退室した。
◆◆◆
「こうなってしまった以上、私が君を愛することはない」
その夜。
隅々まで清められ、香が焚かれ、黄色の花びらが散らされた初夜の床を前に、私と、書類上の夫である国王陛下は立ったまま向かい合っていた。
身体中磨き上げられ、夜用に整えられた金髪の鬘に香油を塗られ、真新しい夜着をまとった私に対し、陛下はトラウザーズこそ穿いているものの、上半身は素肌の上に絹のシャツをゆるく羽織っただけの姿だった。だらしなくはだけた胸元からは、噛み痕や小さな赤い痣がいくつものぞいている。
極めつけに、その片腕にはシーツを巻きつけただけの裸足の少女を抱いているのだから――これがあの、賢王となることを嘱望されて玉座に就いた若き王かと、私は内心呆れるばかりだった。
「だが君との結婚は政略だ。我が国との通商条約の締結には、君を正妃に据えることが絶対条件となっている」
苦々しげに続ける彼の琥珀の瞳には、もはや私に対する愛情どころか、一片の気遣いすら残っていない。
「だから君は正妃の椅子に座るがいい。彼女は側妃だ。名目上はな」
「ライ……」
この時初めて、傍らの少女がか細い声を上げた。
「安心しろ、マリー。君は俺の大事な番だ。何人たりと、君には指一本触れさせない」
ライ。マリー。そして「俺」。
彼らが入室した時から、私はその場を一歩も動かず、最初に一瞥した時以外、少女には目もくれていない。
にもかかわらず、まるで彼の愛しい番を傷つけようとしたかのように、敵意のこもった視線を向けられた時。
私の中に、最後まで残っていた陛下に対する想いの残滓が、跡形もなく消え去った。
「……陛下にひとつ、提案がございます」
「何だ」
警戒するように身構える王に、私はたんたんと言葉を続けた。
「昼間のパレードで起きたことは、すでに多くの臣民が見ております。おそらく明日には国中、いえ、大陸中に広まりましょう」
花嫁の手を振り切って婚礼パレードの馬車から飛び降り、番の少女を抱きしめた王。
折しも雲間を割った太陽が彼ら二人を照らし出す一方で、打ち捨てられた王妃はただ一人、直後に降り出した雨の中、ひっそりと王宮に戻っていった――。
「ですので、このような筋書きはいかがでしょう。王妃は雨に打たれて発熱し、王宮で治療を受けたものの、気を病んでなかなか回復しない。そこでどこか気候の良い地方で転地療養することになった……というのは?」
これなら私を正妃の座に据えたまま、王は番と二人で王宮に留まれる。
王はしばらく顎に手を当てて考える様子を見せたが、やがてゆっくりと頷いた。
「悪くない」
「転地療養の期間は三年といたしましょう。その間、当然子どもはできませんから、陛下は大手を振ってわたくしを離縁できますわ」
結婚後、三年間経っても子ができなければ離縁できる――。
それは大陸中の王家や貴族に等しく通じる不文律。
王妃の第一の務めが跡継ぎを作ることである以上、この決定は最も重んじられるはず、と言えば、王は「確かに」と同意する。
「では、わたくしはこれにて下がらせていただきます。本来、わたくしの部屋はこの隣となりますが、番様が見つかりました以上、昨日まで寝起きしておりました部屋に戻ることをお許しください」
暗に二人の睦言を壁越しに聞きたくないのだと仄めかせば、王は初めて後ろめたそうな顔をした。
「許す。……その、いろいろとすまなかった。君のことを決して嫌いになったわけでは」
「御前、失礼いたします」
みなまで言わせず、私は静かに宮廷礼をした。王の言葉を遮るなど、普段なら不敬にあたる行為だが、さすがに咎められることはなく、そのまま一人、部屋を出る。
夜の廊下をひたひたと歩く私の背後には、いつの間にか背の高い一つの影が音もなくつき従っていた。
「シグルヴ」
「は」
「…………」
灰色がかった緑の瞳。白く見えるほど淡い灰色の髪からは、同色の毛皮に覆われた立ち耳がぴんと突き出している。
狼獣人のシグルヴは、王の婚約者としてこの国に来た時から私に付けられた護衛騎士の一人だった。
護衛の中では最も強く、そのくせ寡黙で無駄口をきかない。そんな彼の務めぶりを、私はひそかに高く買っていた。
(でも、だからといって)
それだけでこの男を信用しきっていいものだろうか。
これから私がしようとしていることには、私自身の生命がかかっている。
しばらくの間迷った末、私は結局首を横に振った。
「ごめんなさい。何でもないわ」
◆◆◆
王の婚約者として半年間を過ごした部屋は、すでにきれいに片づいていた。
私物はすべて王妃の部屋――主寝室の隣に移され、家具には埃避けの布が掛けられている。四柱寝台のカーテンと寝具も剥がされて、柱とマットレスだけが残っていた。
(今の陛下は、そんなことすら思い及ばないほどあの少女に夢中なのね。……まあ、私にとっては好都合だけど)
廊下にシグルヴを残し、背中でドアを閉めた私は、そっと寝台に歩み寄った。
ベッドの下に手を入れれば、床板の裏に隠しておいた革鞄の把手に指先が触れる。
(よかった)
非常時に備えて隠しておいた着替えと路銀。いざという時に換金できる宝石がいくつか。
私は手早く夜着を脱ぐと、鞄から出した地味なドレスに袖を通した。金髪の鬘をはずし、梳き下ろした髪を素早く編み上げる。
バルコニーに通じる扉を開け放って左右を見れば、雨はいつの間にかやんでいた。濡れ光る細いキャットウォークが建物の角まで続いている。
私は石造りの手すりに手をかけて――、
「おやめなさい。その靴であそこまで行くのは無理だ」
「っ!」
文字通りその場で飛び上がった。
いつの間に部屋に入ってきたのか、背後にシグルヴがうっそりと立っている。
月明かりに照らされたその顔からはどんな感情も読み取れず、私は俯いて唇を噛んだ。
「……それで? わたくしを誰のところに連れていくの? 宰相閣下? 王弟派の外務大臣? それとも」
「妃殿下。私はあなた様の護衛です」
その言葉の真意をはかろうと、私は顔を上げて彼の瞳をのぞきこむ。
「つまり?」
「あなた様のご命令に従います」
「誰の首輪もついていないと?」
わざと相手の癇に障るような言い回しを選んでも、「はい」と頷くシグルヴの表情は崩れない。
私はため息と共に肩の力を抜いた。
この男を信じたわけではない。けれど見つかってしまった以上、十六歳の小娘が、鍛え抜かれた騎士から逃げおおせるのは不可能だ。
「なら、わたくしを王宮から連れ出して。今夜中に」
「お望みのままに」
シグルヴはこともなげに言うと、ふと首を傾げて私を見下ろした。
「行く先ですが、お国に――帝国にお送りすればよろしいですか」
「いいえ」
私は言下に否定した。
「あそこは駄目。むしろ反対の方角がいいわ」
大陸の地図を思い描く。
中央よりやや東寄りに人間族が築いた大帝国。その西隣に南北に細長く伸びるのが、私が今いる獣人国だ。
南に下れば様々な自由都市が集まってできた共和国があり、北の果ては雪と氷に閉ざされている。
「そうね、まずは南へ」
「それでは北へ向かいましょう」
二人、ほぼ同時に口から出た言葉は真逆の方角を指していた。
「なぜ北?」
「南は真っ先に探される。それにあそこでは、あなた様のお姿は目立ちます」
「肌を褐色に塗って、黒髪の鬘を被っても?」
「あのあたりはここよりずっと暑い。染料は汗で流れるし、鬘も被りっぱなしはきついでしょう」
「わかったわ。では北で」
シグルヴは承知したしるしに頭を下げてから、私の身なりを検分するようにさっと視線を走らせた。
「その恰好なら大丈夫そうだ。……ついてきてください」
そう言うと私の手から革鞄を取って部屋に戻り、さらに廊下に出て歩きだした。
◆◆◆
この王宮で暮らすようになって半年間。それまで一度も歩いたことのない廊下を通り、古びてはいるが頑丈そうな木の扉が開くと、そこは王宮の裏庭だった。
少し先に厩舎が見え、手前には騎士たちの詰め所がある。
「失礼。お身体に触れさせていただきます」
扉の陰で囁くと、シグルヴは私の腰に腕を回して抱き寄せた。
「っ!」
咄嗟のことに反応できず、みるみる頬が熱くなる。
シグルヴの方は、平然とした様子で私の腰を抱いたまま、扉の外に踏み出した。
「これはシグルヴ隊長! 今夜はこれからお楽しみで?」
「お相手はまたしても侍女殿ですか、羨ましい」
ひゅーひゅー、という口笛と野次が方々から飛んできて、私はますます身を縮こめる。
「おんやぁ。その娘、この間の猫娘とは別人ですな」
「耳がないってことは、蜥蜴か蛇か、はたまた可愛い鳩さんかな?」
(なるほど。そう見えているわけね)
獣人族の王宮に人間族はほとんどいない。彼らの頭は、そもそも私が人間であるという考え自体が浮かばないのだ。
ならば。
私は自らシグルヴの胸に頬を寄せ、甘えるようにしなだれかかった。
同時に騎士たちには顔が見えない角度に俯くのも忘れない。
と、腰に回されていたシグルヴの手が離れ、大きな掌が私の頭を愛撫するように抱え込んだ。
次の瞬間、むせ返るような緑の匂いがよみがえる。
雑草ばかりが生い茂る古い庭。錆びた錬鉄の門に巻きついた鎖。
――ねえ、耳、触ってもいい?
ぴんと立った三角の耳が、指の下でぴくりと動く……。
(……じゃなくて!)
いいいいきなり、ななな何をするのよ、この男は!
抗議しようと顔を上げかけたとたん、その手が私の耳を覆っていることに気がついた。
(……な、なるほど)
そうよね。この場はこうするのが最適解よね。
危なかった。うっかり妙な誤解をするところだった。
ひそかに胸をばくばくさせる私をよそに、男たちはさらに盛り上がる。
「おおっと。こいつはお熱いねえ!」
「隊長にばっかりくっついてないで、こっち向いてよ、お嬢さん!」
「うるさい。黙れ」
シグルヴの声がしたかと思うと、いきなり視野がぐるんと回った。
肩に担ぎ上げられたのだ。まるで荷物か何かのように。
そうと気づいた時には、すでに厩舎の前におり、シグルヴは私を担いだまま、器用に馬を引き出している。
「申し訳ございません。今しばらくご辛抱ください」
声と同時に鞍に乗せられ、すぐにシグルヴが後ろに跨った。
「今夜は非番だ。明朝戻る!」
シグルヴは背後に向かってそう言うや、馬の腹を蹴って走り出した。
◆◆◆
このまま王都を出ていくのかと思いきや、存外早くシグルヴは馬を止めた。
場所は王都の繁華街。それも赤や橙、桃色といった艶めかしい色のランプが灯る娼館街のど真ん中である。
中でもひときわ大きな一軒、門の両脇に淡い緑のランプを灯した瀟洒な店の中庭で、シグルヴは私を馬から抱き下ろした。
「シグルヴ」
まさか私を娼館に売り飛ばすつもりだろうか。
だとしたら、私はとんだ愚か者だ。
私が中庭の四方を見渡し、逃げる算段を組み立てている間にも、どこからか寄って来た召使の一人が手綱を受け取り、もう一人がランプを手に私たちを先導する。
ほどなく通された薄暗い部屋の寝椅子には、艶めかしい夜着の上にガウンを羽織った猫獣人の娘がしどけない姿で寝そべっていた。
その向こうには、幾重にも重ねた紗の幕越しに大きな寝台が見えている。
「あーら、シグ兄。久しぶりー。その子誰?」
ハスキーな声でそう言うなり、娘は音もなく寝椅子から飛び上がり、あっと思った時にはもう私の真ん前に立っていた。
「へえ、人間族じゃん。珍し……って、うえっ、ちょ、待って! その顔! その目! 髪の色は違うけど……シグ兄が連れてきたってことは、もしかして」
「それ以上は詮索するな」
シグルヴはぴしゃりと娘の口を封じると、私のほうに向き直った。
「恐れ入りますが、その服をお脱ぎください」
「……っ!」
私は無言でシグルヴを睨みつける。
やはりこの男を信じるのではなかった。
いやしくも帝国の皇女が、このような辱めを受けるなど。
かくなる上は舌を噛んで……!
けれど次の瞬間、猫娘は目を見開いて「みゃっ!」と髪の毛を逆立てた。
「シグ兄、言い方、言い方! 完全に誤解されてるから!」
「……服を脱いで、湯浴みをなさってください」
「なお悪いわ!」
猫娘は両手で髪を掻きむしり、「はあ――」と長いため息を落とした。
「お嬢……お姫様。このアホタレがすみません。こいつが言いたかったのは、今着ている服を貸してくださいってことなんです。俺があんた……じゃない、アナタになりすませるように」
「だから、さっきからそう言ってるだろう」
憮然として言い返すシグルヴに、
「言ってない!」
「言ってません!」
私と猫娘のツッコミがきれいに重なった。
――フェリと名乗った猫獣人は、驚いたことに男だった。
「入口のランプが緑色だったでしょ。ここはそういう店なんだよ」
「…………」
「あー、お姫様は知らないか。まぁいいや。ともかく俺はほら、こんなふうだからさ。女に化けるのもお手のものってわけ」
言いながら私が脱いで渡したドレスを――ちなみに替えの服はちゃんと用意されたし、着替える間、シグルヴとフェリは部屋の外に出てくれた――素早く身に着けたフェリは、どこからどう見ても愛らしい少女にしか見えない。
「もしかして、あなた、前にも王宮に来たことがある?」
さっき裏庭で聞いた騎士たちの言葉がよみがえる。
――おんやぁ。その娘、この前の猫娘とは別人ですな――
「あるよ。仕事でね」
「…………」
私はじろりと、今度はシグルヴに目をやった。
「あなた、誰の首輪もついていないのではなかったの?」
「ついておりません」
言葉少なに言うシグルヴの背後で、化粧台の前に座ったフェリも「そそ」と口を挟んでくる。
「こいつはまだ群れを作る前の一匹狼だからね。俺はこいつに雇われてるだけ。……うーん、姫様に似せるなら、今回は耳は隠さなきゃなー」
言いながら、今度は化粧台の横の袋をごそごそと探っている。
「でもって、茶髪の鬘は……っと。お、あったあった。これをこうして――どう? 似てる?」
「まあ!」
茶色の鬘に、私が着てきた地味なドレスを身に着けたフェリは、化粧のせいもあるのだろう、雰囲気が私にそっくりだった。
二人が並べば間違いようがないが、暗い場所や遠目なら見分けがつかないに違いない。
「私はいったんこの者を連れて王宮に戻り、様子を探ってまいります」
なるほど。私に変装したフェリを連れ帰ることで、自身の潔白を証明すると同時に、宮廷内の動きもわかるわけだ。
「遅くとも明日の昼までには戻ります。それまではここでじっとしていてください」
「わかったわ。……シグルヴ」
「は」
フェリと共に部屋を出かかっていた狼獣人が振り向く。
灰色がかった緑の瞳に、今の私はどう映っているのだろう。
「……ありがとう。気をつけてね。フェリも」
「ほいほーい」
「……なるべく早く戻ります」
二人の後ろでぱたんと扉が閉じる。
私は先ほどまでフェリが寝そべっていた寝椅子に、くずれるように座り込んだ。
◆◆◆
『見て、あそこ。犬の子よ』
『まあ。噂どおり、汚い髪の色だこと』
十歳になるまで、自分が何者なのか知らなかった。
乳母と僅かな使用人しかいない古びた館。裏庭には小さな畑と鶏舎があり、食べ物は自給自足で、丈高く雑草が生い茂る前庭の先には、何重にも鎖を巻かれた、錆びた錬鉄の門があった。
時おりその向こうに着飾った子どもたちがやってきて、庭で遊ぶ私のことを指さしては『犬の子』と言って馬鹿にした。
また別の日には、錬鉄の門の隙間をすり抜けて忍び込んできた男の子が、夕暮れまで一緒に遊んでくれた。
館にはたくさんの本があり、読み書きは乳母に教わっていたから、私は毎日のように本を読み、飽きれば庭で遊んだり、畑を耕す手伝いをしたり、鶏を追いかけまわしたりして暮らしていた。
ある時、館が焼け落ちた。
私が十歳になった日の夜だった。
寝室の窓ガラスを割って飛び込んできたのは、いつか庭に忍び込んできたあの男の子だった。
ごうごうと燃える館の外には大勢の見知らぬ大人が集まっており、私は彼らの手から手へ渡されるようにして、それまでに見たこともないほど煌びやかな建物に――帝国の中心、皇宮に運ばれ、そして自分の正体を知った。
前の皇帝が平民の愛妾に産ませた娘。
『ここに座るためとはいえ、ちと殺し過ぎてしまってな』
先ごろ帝位に就いたばかりの異母兄は、玉座の肘掛けをこつこつと指で叩きながらそう言った。
好色で知られた先帝と、正妃の間に生まれた唯一の皇子。
先帝を弑し、母の異なる大勢の兄弟姉妹を殺した末に玉座に就いた新帝は、その高みから値踏みするように私を見下した。
『生憎と、皇家の血を引く女子が足りんのだ。犬の子でもおらぬよりはましだろう』
政略結婚の駒として教育を受け、行儀作法を習う間にも、何度か生命を狙われた。
相手は皇家の敵だったり、異母兄個人の敵だったり、ただ一人生き延びた私を逆恨みする、死んだ兄弟姉妹の身内だったり、様々だ。
私は常に人の顔色を窺うことを覚え、身近な人々を「敵か味方か」で判別することを覚え、常に万一に備える癖がついた。
『犬の子よ。おまえ、獣の国へ行け』
そう異母兄に言われたのは、館の火事から六年後。
大陸の西岸。帝国が持たない港を擁する豊かな獣人国。
この結婚と引き換えに、帝国は海へと続く街道の通行権を、獣人国の若き王は、帝国の後ろ盾を得る。
あの時の私は思ったのだ。
故国を出れば、もう生命を狙われずに済むかもしれないと。
誰かに嘲笑われることも、敵意を向けられることもなくなるかもしれないと。
『しかし、その汚らしい髪の色はいただけんな。誰ぞ、金髪の鬘をもて』
皇族の髪色は金か銀と決まっている。
そう言われて鬘を被せられ、決して取るなと命じられた。
それでも――。
『ようこそ、リディア皇女殿下。このように美しい姫君を花嫁に迎えられるとは、私は大陸一の果報者だな』
初めて陛下に会ったあの日、私は期待してしまったのだ。
この人ならば、私を受け入れてくれるかもしれないと。
愚かだった。
野心家の異母兄が、たかが通商条約ごときで満足するなどと。
金髪の鬘で隠さなければ人前に立てない犬の子が、誰かに受け入れられるなどと――。
夢見てしまった結果がこれだ。
ぱちぱちと火の爆ぜる音に、私はふと目を開けた。
フェリの寝椅子に座ったまま、いつの間にか眠っていたらしい。
ランプが一つ灯るきりで、窓のない部屋は薄暗く、かすかに煙の臭いがした。
遠くで何かが割れる音と、人々の騒ぐ声がする。
――火事だ!
私はがばっと起き上がり、ドアに向かって駆け出した。
ガチャガチャと把手は動くものの、押しても引いても開かない。
閉じ込められたのだ。
十歳になった日のあの夜と同じ。
(馬鹿だった)
なぜ信じてしまったのか。シグルヴを。
『私はあなた様の護衛です』
誰の首輪もついていないと言った。
(口では何とでも言える)
無駄口をきかず、けれどいつも必要な時に、必要な場所に控えていた護衛。
裏庭を通る間中、私をぴったりと抱き寄せていた頼もしい腕。
(それが何だというの。どれもこれも、今ここで私を葬るための仕込みだったに違いないのに)
バチバチと火が燃える音は、今やそこら中から聞こえていた。室内に漂う煙が濃さを増し、ドアの四角い輪郭が橙色に浮き上がる。
煙で息が詰まるのが先か、炎がこの身を焼くのが先か――。
その時だった。
「リディ!」
くぐもった男の声と、分厚い板に刃物が食い込む鈍い音。
次の瞬間、ドアが蹴破られ、炎と熱気が室内にどっと流れ込んだ。
「無事か!」
炎を背後に浮かび上がる背の高い人影。ぴんと立った三角の耳と、逆光の中でも輝いて見える灰緑色の瞳――。
「シグ……っ」
言いかけた言葉が、濡れそぼった騎士服の胸に吸い込まれる。
シグルヴは一瞬、私をきつく抱きしめてから、ぐっしょり濡れた上着を脱いで、私の頭にばさりとかけた。
膝裏と背中に腕が回り、ふわりと身体が宙に浮く。
「しっかりつかまっていてください」
「シグ兄! こっちだ。まだ通れるっ!」
耳元で囁くシグルヴの声に、遠くで叫ぶフェリの声が被る。
そうして、私を抱えたシグルヴは、炎の中を一気に駆け抜けた。
◆◆◆
「火つけの下手人は捕まったけど、その場で自害したってさ」
ぽくぽくと馬を歩かせながら、新聞を手にしたフェリが言った。
「ま、人間族だったって時点で、黒幕はお察しだよねー」
皇帝の真の狙いは――獣人国との戦争のきっかけ。
通商条約の締結と引き換えに、獣人国に嫁いだ皇女が殺される。
その賠償と称して無茶な要求を――たとえば港湾都市の割譲などをふっかけ、受け入れられれば帝国の利、断られれば戦を仕掛けて領土を削り取る。
「ということは、あの日、陛下の番が見つかったのも……?」
がたがたと揺れる荷馬車には、大量の干し草が積まれていた。
その干し草に埋もれるように、私とシグルヴは並んで横になっている。
別に特別な意味はない。
この後立ち寄る街の門で、衛兵たちに見咎められない用心だ。
「あー、あの番もねー。どうやら贋物だったみたい」
「えっ」
そんなことができるのだろうか。
獣人族にとって、番は絶対ではなかったのか。
「何かね、陛下はずっと昔から、抑制剤で鋤鼻器官を潰された上で、特定の匂いにだけ強く反応する薬を盛られてたんだって」
「まさか。だって陛下は抑制剤がお嫌いで飲まなかったと……」
「そんなの、いくらでもやりようはあるでしょ。食事や飲み物に混ぜるとかさ。……で、あの女の子はその匂いをたっぷり身体に塗っていた。一種の媚薬だね」
「道理で、おかしいと思っていた」
隣からシグルヴの声がした。
狭い荷台でくっつきあっているせいで、声の振動が身体に直接伝わってくる。
「番に対する反応は、あのように即物的なものではないからな」
「そうなの?」
「ええ。肉体よりも、精神が先に感応する。この人が大切だ、生命に代えても守らねば、と」
「…………」
火事のどさくさに紛れ、王都を脱出して一週間。
その間、ずっと考えていたことがある。
――リディ!
その愛称で私を呼んだ人は、私の過去に一人しかいない。
錬鉄の門の隙間をくぐり抜け、荒れ放題の庭にこっそりやってきた男の子。
当時、人間族しか見たことのなかった私には、三角形の立ち耳がとても珍しく、何度も触らせてとねだったことを覚えている。
そうして、あの火事の夜、ガラスを割って私を助け出してから、あの子はどこへ行ったのか――。
「シグルヴ」
「はい」
「番は、抑制剤を使っていてもわかるもの?」
「そうですね。一度そうと認識してしまえば、匂いは必要ありませんから」
「……フェリ。新聞を見せて」
「はいよー」
王の番を偽った少女は処刑された。こちらは下手人すら捕まらず、一部では帝国と共謀した王弟派の誰かが手引きしたのではないかと言われている。
「あとこれ。陛下の寝室の屑籠に入ってた」
フェリがくしゃくしゃに丸まった紙をぽんと放って寄越す。
広げてみると、それは王の紋章入りの便箋だった。
――愛しいリディア。どこにいる。あれは番ではなかった。私は薬に狂わされていた。許されるとは思わない。だが君が必要だ。転地療養、気候の良い地方、三年。問われるたびに、君のあの筋書きを私は話す。言うたびに、初めて会った日の君の笑顔を思い出す――
では、王は結局、私のあの筋書きを採用したのだ。
「ま、表向きはそう言うしかないよねー。裏じゃ行方不明の妃の捜索に八方手を尽くしてるってさ」
「そう。……帰るべきかしら。王宮に」
呟いた途端、シグルヴが身体を固くした。
その反応を、私はひそかに喜んでいる。
「皇女の生存が明らかになれば、皇帝はこの国につけいる隙を失くすでしょうし……」
「どうかなあ。結局、何だかんだと難癖つけてくるのは一緒じゃない? 第一、王宮に戻れば、あんたまた生命を狙われるよ」
陛下の敵は帝国だけじゃないんだしさ。
そう続けるフェリの言葉は、もはや私の耳に入っていなかった。
干し草の中で向きを変えたシグルヴが、私の目を深々とのぞきこんできたからだ。
「行ってしまわれるのですか」
その声が、その灰緑色の眼差しが、過去の記憶を揺り起こす。
『ねえ。ぼくといっしょにお外に行こう?』
あの日、鎖に閉ざされた庭で、私に手を差し出した立ち耳の男の子。
『離せ! リディをどこに連れていくんだ! リディ! リディ――!』
あの夜、大人達の手で引き離された時、血を吐くような叫びを上げた少年。
「行かないわ。……でも」
頭の中で、ゆっくりと、おぼろげな未来が形になっていく。
今後、王国の各地で消えた王妃の姿が目撃されることになるだろう。
皇宮には皇女直筆の手紙が届くことだろう。
けれど、王妃は決して捕まらない。
自在に姿を変えられる上、王の寝室にまで忍び込める猫獣人を捕らえるのは至難の業だからだ。
そうして三年が経った後、陛下の元にはひっそりと離縁状が届くだろう。
隣でやきもきしているこの人に、私が本心を明かすのは、自分の首輪を外してからだ。
「ねえ。二人とも、聞いてくれる?」
晴れわたった空の下、ぽくぽくと荷馬車は進んでいく。
どこからか飛んできた白い花びらが、ひらりと私の髪に落ちてきた。
〈Fin〉




