第5部 第40話 深淵の進軍――絶望の包囲網
夜明け前の静寂を切り裂いたのは、地平線の彼方から響く、数万の軍靴の地鳴りだった。
山麓のキャンプ。アイリス、エヴァ、テイラーの三人は、ルーニーの命を待つまでもなく、即座に武装を整え、主君のテントの前に整列していた。その肌には、昨夜の蒸気爆発で負った赤みがまだ残っているが、瞳には一切の揺らぎはない。
「……来たか。案外、早かったな」
ルーニー・ハクザンがテントから姿を現すと、その視線の先――霊峰の麓を埋め尽くすほどの漆黒の軍勢が、じりじりと距離を詰めていた。
魔王軍直属、「黒鋼の騎士団」。セラフィナのような搦め手ではなく、圧倒的な数と暴力で踏みつぶす、魔王の「本気」の軍勢だ。
「報告します。敵軍、推定二万。対する我が方は……工兵を含めても三千足らず。……ルーニー様、これはいささか、シゴキのしがいがありますわね」
アイリスが槍の柄を短く持ち直し、冷徹な笑みを浮かべる。
「……エヴァ、テイラー。お前たちに、最後の確認だ」
ルーニーは迫りくる敵軍を見据えたまま、低く、重い声で語りかけた。
「この戦い、もはや訓練でも再教育でもない。……死ぬぞ。俺も含めてな。……今ならまだ、俺の首を持って魔王に降伏すれば、お前たち三人の命だけは助かるかもしれんぞ?」
「(フッ)……」
エヴァが、細マッチョに鍛え抜かれた指先で魔力を練り上げる。
「ルーニー様。……貴方は、私たちに『命を惜しむな』と教えてくださったはずです。……貴方の隣で果てることが、私たちに許された唯一の贅沢。それを奪う権利は、たとえ主君であってもございませんわ」
テイラーもまた、無言で影の中に姿を消し、敵の先遣隊の喉元を狙う位置へと移動した。
(……ああ、そうか。こいつら、もうとっくに『人間』の枠を捨ててやがるんだな)
ルーニーは自嘲気味に口角を上げると、腰の剣を抜き放った。
「……いいだろう。なら、見せてやれ。……俺がしつけ直した、この世界で最も美しく、最も狂った三人の力を!!」
「「「御意!!」」」
先頭の魔族騎士が突っ込んできた瞬間、アイリスの槍が空気を引き裂き、その頭部を一撃で粉砕した。
同時に、エヴァの放った極大の火炎魔法が敵の陣形を焼き払い、テイラーの刃が影から影へと渡り歩き、死の旋風を巻き起こす。
三人の戦いぶりは、もはや優雅なメイドの面影など微塵もない。
それは、ルーニー・ハクザンという一人の男にすべてを捧げた、凄絶なまでの「暴力の舞」だった。
だが、敵は二万。
ルーニーのイライラは、かつてないほどに高まっていた。……自分への怒り、そして、この絶望的な状況を「楽しんでいる」自分自身の狂気に対して。
「……チッ。どいつもこいつも、熱くなりすぎなんだよ……!!」
ルーニーの怒声が戦場に響き渡り、狂王の軍勢による、生存率ゼロの防衛戦が幕を開けた。




