第5部 第28話 美食の罠――魔王軍幹部グラトニーの誘惑
西の砦を包囲するように、突如として漂ってきたのは、戦場の硝煙ではなく「暴力的なまでに美味そうな香り」だった。
砦の向こう側に陣取ったのは、魔王軍幹部の一人、「暴食のグラトニー」。彼は巨大な鍋を戦場に据え置き、魔族領屈指の高級食材をその場で調理し始めたのだ。
「……ふむ。西の砦を奪ったのは、可愛らしい小娘たちと聞く。ならば、この『極上魔獣のバターソテー』と『とろける聖乳のクリームシチュー』からは逃げられまい?」
風に乗って、香ばしいニンニクの香りと濃厚なクリームの匂いが城壁を越えてくる。
「(ピクッ)……な、何ですの、この香りは……。脳が、脳が溶けてしまいそうですわ……」
アイリスが、訓練用の槍を杖にして、鼻をヒクヒクさせながら城壁の端へ吸い寄せられていく。
「いけません、アイリス様……(ゴクリ)。これは敵の罠ですわ。……でも、あの大きなステーキ、肉汁が滝のように流れていますわ……!」
エヴァも、少し余裕の出てきたメイド服のウエストを握りしめ、欲望に負けそうになって膝を震わせている。
ハクザン軍の屈強な兵士たちですら、「ぐっ……。昨日の残飯とは大違いだ……」「一口、一口だけでいいから食べたい……」と、武器を持つ手が緩み始めていた。
「おい、しっかりしろ! 武器を構えろ!」
ルーニー・ハクザンが叫ぶが、3人のメイドたちはもはや、空腹で瞳孔が開き、フラフラと砦の門へと歩き出していた。
(……何なんだよ、こいつら! さっきまで『もう間食はしません!』って泣きながらスクワットしてただろ! あの決意は数時間しか持たないのか!?)
ルーニーはこめかみに青筋を立て、グラトニーの「飯攻め」によって腑抜けになった軍勢の前に立ちふさがった。
「いい加減にしろ、このブタ共!!」
ルーニーの怒号が、料理の香りを切り裂くように響き渡った。
「アイリス! お前はさっき『痩せてルーニー様に可愛がってもらう』と言ったばかりだろうが! エヴァ、テイラー! お前ら、その一口を食ったら、今までの特訓がすべて無に帰すんだぞ! 昔の可愛さを取り戻したくないのか!?」
「う、ううっ……ルーニー様……。でも、あの脂身が、私を呼んでいるんですの……!」
涙目になりながら、ステーキを指差すアイリス。もはや中毒者のような顔だ。
(……ダメだ、言葉じゃ届かない。こいつら、胃袋に魂を売ってやがる!)
「全軍、耳を貸せ! 今この場を耐え抜いた者には、俺が後で『お尻ぺんぺん』……ではなく、俺直伝の、健康で、かつ最高に美味い特製ヘルシー肉料理を振舞ってやる! だから、その毒入りのエサに食いつくな!!」
「「「えっ!? ルーニー様の特製料理!?」」」
3人の目が、食欲の矛先を変えた。敵の豪華料理よりも、ルーニーに直接振る舞われ、そして(叱られながら)食べられる喜びの方が、わずかに上回ったのだ。
「……ふん、しつけ直しはまだまだこれからだな」
ルーニーは剣を抜き、美食を並べるグラトニーを睨みつけた。
「グラトニー。俺の家臣をエサで釣ろうとは、一万年早い。その鍋、俺がひっくり返してやる!」




