第5部 第1話 境界の獣――泥と血の三年
魔族領の深部、常に毒々しい紫の霧が立ち込める「腐り果てた大峡谷」。
そこには、かつて「神童」と呼ばれた少年の面影はなかった。
13歳になったルーニー・ハクザンは、獣の皮を繋ぎ合わせた粗末な服を纏い、岩陰で低く息を殺していた。
その瞳は、もはや人間のそれではない。周囲数キロの殺気を敏感に察知し、生き残ることだけに特化した「野生の獣」の目だ。
手元にあるのは、さっき仕留めたばかりの魔物の後ろ足。
ルーニーはそれを生に近い状態で貪り食う。火を使えば煙で魔族に居場所を悟られる。この3年間、彼は「温かい食事」も「安らかな眠り」も完全に捨てた。
「……ハァ、ハァ……」
どれほど軍神の魂を持っていても、魔族領の圧倒的な「数」には勝てない。
24時間、全方位から襲い来る殺意。魔力は常に枯渇寸前まで使い果たし、体は無数の傷跡で覆われている。
夜、目をつむる間も、ナイフを握る指先は微かに震えていた。
「……なんぼ俺でも……できないことは……あるんだな……」
10歳の夜、笑いながら国を捨てた時の全能感は、この過酷な地獄がすべて削り取った。
自分がどれほど脆い存在か。戦い続けても、戦い続けても、終わりが見えない絶望。
だが、その限界の淵で、ルーニーの魔力は変質していた。
洗練された魔法ではない。泥を啜り、怨嗟を飲み込み、生きることに執着した「どす黒い生命の奔流」へと。
その時、風が「異物」の匂いを運んできた。
魔物でも魔族でもない。懐かしく、そして忌々しい「人間」の匂い。
「……追手か? いや、この匂いは……」
ルーニーは泥にまみれた剣を抜き、音もなく岩場を跳んだ。
3年間の地獄が作り上げた、最強の「野生」が牙を剥く準備を始める。




