第4部 第8話 深淵の跪拝――汚された雷光
「全力で来なさい、ルーニー・ハクザン! 後悔させてあげるわ!」
アイリスの咆哮と共に、訓練場の空が割れた。
彼女が放ったのは、王家に伝わる極大雷魔法【帝天の裁き】。幾筋もの青白い雷霆が、逃げ場のない檻となってルーニーへと降り注ぐ。観客席の生徒たちは、そのあまりの熱量に悲鳴を上げた。
だが、ルーニーは一歩も動かない。杖さえ握らぬ右手を、ただ静かに天へと翳した。
「……属性に頼る魔法は、所詮、自然現象の模倣に過ぎない」
ルーニーが指を鳴らした瞬間、降り注いでいた雷光が、まるで時間が停止したかのように空中で静止した。
そして次の瞬間、アイリスの魔法が、彼女自身の制御を離れて「黒く」変色していく。
「なっ……私の魔法が、書き換えられた……!?」
「これが本物の『魔力』の格だ。覚えておくといい、殿下」
黒い雷雲がルーニーの背後に収束し、巨大な死神の鎌のような形を成す。
アイリスが対抗しようと魔力を練るが、ルーニーから放たれた【絶望の魔圧】に当てられた瞬間、彼女の全身が、魂の底から震え始めた。
それは、10歳の子供が放っていい殺気ではなかった。
かつての戦神ラインハルトが、何万もの敵を葬り去った時に纏っていた、本物の「死」の匂い。
「あ、ああ……っ、ひ、い……っ」
あまりの恐怖に、アイリスの身体が言うことを聞かなくなる。
心臓が破裂しそうなほどの鼓動。喉の奥が引き攣り、呼吸すらままならない。
そして、その圧倒的な死の予感に直面した瞬間――彼女の「王女」としての最後の防波堤が、無残にも決壊した。
温かい感覚が、太ももを伝い、制服のスカートを濃く染め上げていく。
「…………あ」
アイリスは杖を落とした。
足元に広がる小さな水溜り。観客席からは距離があり、まだ誰にも気づかれていない。だが、目の前に立つ少年――ルーニーの瞳だけは、冷徹にその「敗北」の証を捉えていた。
ルーニーはゆっくりと歩み寄り、立ち尽くすアイリスの顎を指先で掬い上げた。
アイリスの碧眼は涙で潤み、恐怖と屈辱で真っ白になっている。
「……負けましたね、アイリス殿下。心も、体も」
ルーニーは彼女の耳元に顔を寄せ、観客には聞こえない低い、甘い声で囁いた。
「安心してください。貴女のその醜態……私以外の誰にも見せていませんよ。……今は、ね」
「……っ、あ……」
アイリスの全身に、電気を流されたような戦慄が走った。
弱みを握られた。王女として、一生消えない汚辱を、この少年に捧げてしまった。
だが、恐怖と共にこみ上げてきたのは、抗いがたい「昂ぶり」だった。
自分を完膚なきまでに破壊し、その上で秘密を共有してくれたこの少年に、彼女の魂はこれまでにない悦びを感じていた。
「今日から貴女は、三人の許嫁候補の一人だ。……せいぜい、私を退屈させないように努力することですね。私の『秘密の王女様』」
ルーニーが手を離すと、アイリスはその場に力なく崩れ落ちた。
スカートの汚れを隠すように、小さく丸まって。
敗北したはずの彼女の顔は、屈辱ではなく、征服されたことへの狂おしいほどの依存心で紅潮していた。
観客席で、テイラーが静かに手帳を閉じる。
「……一人目、完璧なまでの『陥落』ですわね」




