第4部 第6話 仮面の社交――毒婦の帰還
翌朝、ハクザン公爵邸から学院へと戻る馬車を見送ったシオンは、屋敷の奥深く、主寝室の扉を叩いた。
「エレオノーラ様。お目覚めでしょうか」
返事はない。だが、扉を開けた先にいたのは、昨夜の狂乱が嘘のように、完璧に身なりを整えたエレオノーラの姿だった。
鏡に向かって紅を引き、宝飾品を選ぶ彼女の指先は、微かに震えている。
「……ルーニーは、もう行ったのね?」
「はい。先ほど、学院へ向かわれました」
鏡越しに目が合う。エレオノーラの瞳には、もはや以前のような「迷い」や「情緒不安定な母性」は微塵もなかった。あるのは、ルーニーに刻まれた「痛み」と「言葉」を唯一の福音とする、狂信的なまでの忠誠心だ。
「そう……。彼は私を『駒』だと言ったわ。なら、最高の働きをしてみせなくてはね」
椅子から立ち上がった彼女の足取りは、どこか危うい。昨夜の「躾」の痕跡が、一歩歩くたびに絹のドレスの下で疼き、彼女に主君の存在を思い出させる。
彼女は、その疼きさえも愛おしむように、艶やかな微笑を浮かべた。
一方、魔法学院。
ルーニーが教室へ入ると、室内は一瞬で水を打ったような静寂に包まれた。
昨日の「母親への冷淡な態度」と「上級生への惨劇」が重なり、彼への恐怖はもはや不可侵の領域に達している。
だが、その静寂を切り裂くように、一人の少女がルーニーの席へ歩み寄った。
緩やかに波打つ銀髪と、勝気そうな碧眼。
この国の第一王女、アイリスである。
「あなたがルーニー・ハクザン? 私の兄(アリスト王子)に、不敬な条件を突きつけたという……」
アイリスはルーニーの机に手を突き、至近距離から彼を睨み据えた。
周囲の生徒たちが息を呑む。王女と「腕斬り神童」の衝突。だが、ルーニーは本から視線を上げることなく、淡々と応じた。
「不敬……。ああ、妹君を頂きたいという話ですか。冗談のつもりだったのですが、殿下が乗り気なものでして」
「冗談!? 私は王家の人間よ。それを、公爵家の子供が……っ!」
「……殿下。声が大きいですよ。私を威圧したいなら、言葉よりも先に、その震えている『魔力』を抑える練習から始めた方がよろしいかと」
ルーニーが視線を上げ、アイリスの瞳を真正面から捉えた。
瞬間、アイリスは自分の心臓が掴まれたような錯覚に陥った。
目の前の少年から溢れ出したのは、10歳のものとは思えない、戦場を幾千も渡り歩いた「本物の強者」だけが放つ重圧。
「な……っ」
「私は、退屈な人間は嫌いです。……貴女は、私を愉しませてくれる『王女』ですか?」
ルーニーの薄い唇が、弧を描く。
アイリスは反論しようとしたが、喉が引き攣って声が出ない。
その時、教室の入り口で、眼鏡の奥の瞳を冷たく光らせたテイラーが、何食わぬ顔で手帳を捲っていた。
――王女アイリス。性格、剛毅。だが、深層心理に強い承認欲求あり。




