第4部 第3話 狂気への招待状――王子の提案
「腕斬り事件」の衝撃は、瞬く間に学院中を駆け巡った。
中庭を歩けば、生徒たちは一斉に道を開け、遠巻きに怯えた視線を投げかけてくる。10歳の少年が、一切の躊躇なく上級生の肢体を断ったという事実は、彼を「神童」から「理解不能な怪物」へと変えていた。
(……やはり、こうなるか。静かに過ごすつもりが、随分と遠い場所に来てしまったな)
だが、恐怖だけではなかった。
一部の「特殊な嗜好」を持つ貴族の女子生徒たちは、ルーニーが通り過ぎるたびに、頬を紅潮させ、熱に浮かされたような羨望の眼差しを向けてくる。
「見て……あの冷たい瞳。斬った後に笑うなんて、なんて素敵なの……」
「ハクザン公爵様に、私も壊されてみたいわ……」
「……これだから貴族という人種は、底が知れない」
ルーニーは、背筋に走る不気味な寒気を無視して読書に耽ろうとした。
そこへ、一人の少年が従者も連れずに近づいてきた。第一王子、アリスト。入学試験1位の「太陽」のような男だが、その瞳にはどこか壊れた輝きが宿っている。
「やあ、ハクザン公爵。……君、最高に面白いな。あの腕の斬り方、魔法の練り、そしてあの笑い声。一目で気に入ったよ。どうだい、僕の『片腕』にならないか?」
王子の突然のスカウト。そこには権力欲よりも、強烈な「同類」への執着が透けて見えた。
ルーニーは本から視線を上げず、面倒くさそうに吐き捨てる。
「お断りします。私は自由でいたい。……どうしてもと言うなら、代償を頂けますか?」
「代償? 金か、名誉か? 何でも言ってみるといい」
「……では、貴方の妹君、第一王女殿下を私にください。そうすれば、考えなくもありません」
王女を寄越せ。それは王家に対する最大の不敬であり、実現不可能な「無理難題」だった。これで王子も呆れて去るだろう。そうルーニーが確信した、その時。
「はは……はははは! 素晴らしい! それはいい考えだ!」
王子は腹を抱えて笑い出した。
「妹か! 確かに彼女は美しいが、少し退屈でね。君のような怪物に飼われるなら、彼女も少しはマシな女になるかもしれない。……いいぞ、父上には僕から話しておこう。前向きに検討しようじゃないか」
「…………は?」
ルーニーは、生まれて初めて「計算が狂う」という感覚を味わった。
王族の常識も、この王子の倫理観も、ルーニーが想定していた「人間」の枠を遥かに超えていた。
「じゃあ、決まりだ。歓迎するよ、未来の義弟」
王子は満足げに去っていく。
残されたルーニーは、呆然と空を見上げた。
影で控えていたテイラーが、眼鏡を光らせながら音もなく寄り添う。
「……主様。王女殿下の身辺調査と、輿入れの準備、進めてよろしいでしょうか?」
「……テイラー、お前まで冗談を言うな」
魔王の再来と恐れられた少年は、今、自らが仕掛けた罠に自ら嵌まり、底知れぬ王家の「狂気」に頭を抱えることとなった。




