第4部 第2話 タイトル:影の差配――神童の免罪符
「……やってしまったな」
王立魔法学院の、重厚な石造りの廊下。10歳になったルーニー・ハクザンは、自分の小さな掌をじっと見つめながら、内心で苦笑した。
いくら父と母を侮辱されたとはいえ、入学初日に上級生の腕を切り落とすのは、いささか「短気な子供」が過ぎた。もっと冷徹に、相手の逃げ道を塞いでからじわじわと潰す方法はいくらでもあったはずだ。
(心が壊れている自覚はあるが……感情の制御が甘くなっているのか。さて、どう言い訳したものか)
ルーニーは、退学、あるいは厳しい謹慎を覚悟した。今の自分にとって学院という場所は、公爵家の体面を保ちつつ、次なる盤面を整えるための重要な拠点だ。ここでつまづくのは本意ではない。
彼は神妙な面持ちを作り、彫刻が施された校長室の扉をゆっくりと押し開けた。
部屋の中には、厳格な面持ちの老校長と、数名の主任教師たちが待っていた。
だが、ルーニーが一歩足を踏み入れた瞬間、室内の空気に妙な「震え」が混ざった。
校長はデスクの上で指を組んでいるが、その指先は微かに白くなっている。隣に立つ教師たちは、10歳の少年であるルーニーと目を合わせるのを避けるように、視線を泳がせていた。
「ハクザン君。君のしでかしたことは、学院の規律を根底から揺るがす重大な過失だ」
校長が、どこか芝居がかった重苦しい声で告げる。
「……申し訳ありません。あまりに父と母を侮辱されたもので、つい。どのような処分も受ける覚悟です」
ルーニーが、子供らしい「後悔」を演じながら頭を下げようとした、その時だった。
「――だが! 今回の件は、相手側の無礼があまりに過ぎた。言葉の刃こそが先に振るわれたのだ。よって、今回は『厳重な口頭注意』に留める。この件はこれ以上蒸し返さず、ここで手打ちとする。……いいな?」
「……え?」
ルーニーは思わず、素の声を漏らした。
相手は上位貴族の息子だ。腕を斬り飛ばしたのだ。治癒魔法で繋がったとはいえ、本来なら退学どころか法に触れる事態。それが、ただの「注意」だけで終わるというのか。
校長は額の汗をハンカチで拭い、まるでルーニーに「これで満足してくれ」と懇願するような、奇妙な視線を送ってきた。
ルーニーは、背後に漂う「冷徹な知性」の気配を悟った。
校長室を出ると、廊下の陰に、無表情なシオンと、そして一人の女性が音もなく控えていた。
濃紺のスーツを完璧に着こなし、銀縁の眼鏡の奥で知的な瞳を光らせる美女。ハクザン家情報局長、テイラーである。
「お疲れ様でございました、主様」
テイラーは優雅に膝を折り、鈴を転がすような、それでいて氷のように透き通った声で迎えた。
「テイラー、……何をした?」
「大したことではございませんわ。この学院の運営資金の一部が、校長の愛人の口座へ流れている記録……そして、そこに並ぶ教師たちの、教育者としては少々刺激の強い夜の記録。それらを入学前に『ご挨拶』としてお届けしておいただけですわ」
彼女は眼鏡の位置を直し、薄く微笑んだ。
「主様がこの学び舎でどのような『遊戯』をなされようとも、誰も貴方を裁くことはできません。ルールを運用する側の弱みを握る……。それが、私共『情報局』の務めにございます」
ルーニーは、思わず声を上げて笑いそうになった。
自分が公爵邸の奥で牙を研いでいたこの2年。
シオンが影を統制し、ゴルザが最強の私兵団を作り上げる傍らで、このテイラーという女は、学院から国の中枢に至るまで、あらゆる「人間の急所」をリストアップし、ルーニーが自由に振る舞えるための環境を整えきっていたのだ。
「……先回りしすぎだ、テイラー。私の反省が台無しじゃないか」
「滅相もございません。貴方はただ、気高く、自由にお振る舞いください。……不浄な後始末こそ、私共『道具』の悦びにございますから」
シオンが静かに歩み寄り、ルーニーの背後で影のように佇む。
「主よ。お望みならば、この国の法そのものを書き換える準備もできております」
ルーニーは、自分を「甘い」と断じた数分前の自嘲が馬鹿らしくなった。
ここは学び舎ではない。
ハクザン家の知性と暴力によって、既にルーニーにとっての「完全な安全圏」へと作り替えられた、箱庭に過ぎなかった。
「はは、はははは……!」
廊下に、ルーニーの突き抜けた笑い声が響く。
魔王の行進を阻むものは、もう、この学院のどこにも存在しなかった。




