第3部 第9話 影の咆哮――魔王の微笑
2年の月日が流れた。
6歳になったルーニーは、公爵邸で「何も知らない従順な御子」を完璧に演じ続けていた。だが、夜な夜な超聴覚で聞かされる母とシオンの背徳的な睦み言、そして二人が私腹を肥やす証拠を集める日々は、彼の幼い心を確実に、そして深く蝕んでいた。
(……心が、壊れていくのがわかる。だが、それでいい。人としての心など、復讐には邪魔なだけだ)
ある嵐の夜。
執務室で一人、不正な裏帳簿を整理していたシオンは、背後に「氷のような殺気」を感じて凍りついた。
扉が開く音もしなかった。結界を張っていたはずの室内に、誰かがいる。
「……シオン。母上との夜は、まだ飽きないか?」
背後から響いたのは、鈴を転がすような愛らしい少年の声。だが、その言葉の内容は、シオンの心臓を凍りつかせた。
「なっ……ル、ルーニー様!? なぜここに……」
シオンが振り向こうとした瞬間、鋭い痛みが背中を走った。
ルーニーが握った小さな短剣が、シオンの肩甲骨の下、急所をわずかに外した位置に深く突き立てられていた。
「動くな。……2年だ。2年間、私はお前たちの醜い声を、この耳で一言漏らさず聴いてきた。お前が母上の孤独に付け込み、父上の遺産を食い荒らす様を、すべて記録してきた」
「な……何を……貴様、本当に6歳の子か……!?」
シオンの額から脂汗が滴り落ちる。
背後の気配。声のトーン。そして、迷いのない刃の感触。
目の前にいるのは「子供」ではない。自分たちが裏切り、汚してきた「ラインハルト」の血から生まれた、底知れぬ怪物だ。
「……殺しはしない。殺せば母上が悲しむからな」
ルーニーは短剣をゆっくりと抉りながら、シオンの耳元で囁いた。
「魔法の契約などいらん。お前が私を裏切れると思うなら、やってみるがいい。だが、その瞬間に母上との情事の記録、そしてこの2年の不正の証拠をすべて王都にばら撒く。お前は反逆者として処刑され、母上は汚らわしい未亡人として歴史に名を刻むだろう」
「くっ……ああ……っ」
「それが嫌なら、私の『影』となれ。光を捨て、一生をかけて私の汚れ仕事をこなす道具になれ。……お前に拒否権はない。私はお前が思うよりずっと、お前のすべてを把握しているのだから」
「ははは……ははははは!!」
執務室に、幼児のものとは思えない、低く、狂気に満ちた笑い声が響き渡った。
シオンはその笑い声に押し潰されるように、その場に崩れ落ちた。魔法で縛られたわけではない。ただ、目の前の少年の「格」が、自分を遥かに超越しているという絶望的な事実が、彼の心を完全にへし折ったのだ。
「……お答えは、シオン?」
ルーニーは冷たく微笑み、短剣を引き抜いてその血をシオンの服で拭った。
シオンはもはや、抗う気力さえ奪われ、得体の知れない「魔王」の前に膝を屈するしかなかった。




