第3部 第8話 侵食する闇――背徳の境界線
3歳から4歳にかけて、ルーニー(ラインハルト)は、内なる魔力を練り上げる日々を送っていた。
習得したのは、情報収集に特化した【超聴覚】と【広域気配察知】。
それは、平和な公爵邸を守るための力のはずだった。しかし、完成したその魔法が最初に捉えたのは、屋敷の「澱み」そのものだった。
深夜。気配察知が、母エレオノーラの寝室に「二人の人間」がいることを告げる。
一人はエレオノーラ。そしてもう一人は、かつてラインハルトが弟のように信頼していたシオンだった。
(……シオン? なぜ、こんな時間に母上の部屋に……)
ルーニーは胸のざわつきを抑え、超聴覚の焦点を絞り込んだ。
聞こえてきたのは、エレオノーラの震えるような啜り泣きだった。
「……もう、耐えられないの。夜が来るたびに、あの方の温もりが恋しくて、狂いそうになる……っ」
「……分かっております、殿下。ラインハルト様が逝かれてから、貴女がどれほど孤独な戦いを強いられてきたか」
シオンの声は、かつての忠義に満ちたものとは違っていた。甘く、ねっとりと、弱った獲物を追い詰める蜘蛛のような響き。
「あの方は英雄でした。ですが、貴女を一人残して死んだ。……私なら、貴女を一人にはしない。その涙を拭い、この国と共に貴女を抱きしめましょう」
「……だめよ、シオン……そんなこと……っ……あぁ……」
拒絶の声は、シオンが強引に重ねたであろう口づけによって、湿った吐息へと変わっていく。
ラインハルトを失った絶望。その隙間に忍び寄ったシオンの「偽りの優しさ」。
エレオノーラは、死んだ夫への罪悪感に苛まれながらも、目の前の肌の温もりに抗えず、ずるずると背徳の泥沼へ沈んでいく。
衣が擦れる音。そして、愛を囁きながら、同時に「権力の味」を噛みしめるようなシオンの低い笑い。
(……エレオノーラ。君は、これほどまでにも脆かったのか。シオン、貴様は……私の遺したものを、そうやって喰らい尽くすつもりか)
ルーニーは寝床の中で、4歳児の小さな拳を血が滲むほど握りしめた。
かつて共に戦場を駆け、信頼を寄せた軍師。そして、命を賭けて守ると誓った妻。
その二人が、自分の死を「好機」として、欲望に耽っている。
「……ふふ、あの子……ルーニー様は、お父上に似て、夜更かしもしない良い子です。今頃、何も知らずに夢の中でしょう……」
シオンの嘲笑が、魔法を通じて鼓膜を突き刺す。
(……ああ、夢の中だよ。だが、その夢は、たった今『悪夢』に変わった)
ルーニーの瞳から、子供らしい光が消え、かつて魔族を戦慄させた「軍神」の冷徹な殺意が宿った。
母への失望。部下への憎悪。
4歳の幼児という完璧な偽装を纏い、彼は決意する。
「……エレオノーラ、君を救おうとした自分を呪うよ。シオン、貴様には……この世で最も残酷な『軍略』を見舞ってやる」
闇の中で、ルーニーは静かに呪文を紡ぎ始めた。
復讐の第一手は、もう打たれている。




