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第2部 第5話  水底の要塞――ハクザン辺境伯情報局の誕生

ハクザンの北方に位置する「黒角こっかくの要塞」。切り立った断崖に張り付くように築かれたその城郭は、魔族の一派「黒角族」の不落の拠点であった。

長・ゴルザは、魔族特有の強靭な肉体と闇魔法を操り、周辺の村々を長年脅かしてきた。

「ハクザンの若造が、何を血迷ったか。あんな泥遊びで我らを屈服させられると思うたか!」

要塞の窓から見下ろすゴルザの視線の先には、数千の領民と兵士が、不気味なほど整然と土を盛り、巨大な堤を築き上げる姿があった。ラインハルトが命じたのは、要塞の脇を流れる大河「ルナ河」の流れを完全に変え、盆地にある要塞を巨大な「器」に見立てた、前代未聞の水攻めであった。

「……ラインハルト様、天のときが参りました」

シオンの報告とともに、ハクザンの空を重い雲が覆い、数十年ぶりと言われる豪雨が降り始めた。

一晩明けると、光景は一変していた。

逃げ場のない黒角の要塞は、瞬く間に濁流に呑み込まれ、自慢の石積みの壁は水圧に悲鳴を上げた。食糧庫は浸水し、武器は錆び、最強を誇った魔族の戦士たちは、膝まで浸かった水の中で動くことさえままならなくなった。

その静まり返った湖面に、一艘の小舟が音もなく現れた。

船首に立つのは、20歳を迎え、冷徹な覇気を纏ったラインハルトである。

「ゴルザ。……水の中では、自慢の剛腕も、闇の魔法も無力だな」

水没した玉座の間へ、ラインハルトは平然と足を踏み入れた。ゴルザは震える手で剣を握り直すが、ラインハルトの背後に控えるシオンの殺気、そしてこの「天災を操った男」への根源的な恐怖に、ついに膝を突いた。

「……負けだ。我ら一族の命、貴様に預ける。煮るなり焼くなり好きにしろ」

「殺しはせん。……お前たちの『能力』を買いに来たのだ」

ラインハルトは、ゴルザの前に一枚の羊皮紙を広げた。そこには、複雑に絡み合う人間社会と魔族領の地図、そして『組織図』が記されていた。

「ゴルザ、お前たちの闇に溶け込む力と、魔族独自のネットワーク。それを略奪ではなく、『真実を掴むため』に使え。シオンが率いる人間側の隠密組織と合流し、【ハクザン辺境伯情報局】を設立する」

「……我らに、スパイをしろと言うのか?」

「そうだ。シオンが国内の腐敗した貴族の動向を洗い出し、お前たちが魔族領と帝国の裏側に潜り込む。二つの『影』が交差する時、この世界に私の知らぬ秘密はなくなる」

ゴルザは驚愕した。ラインハルトは単に敵を屈服させたのではない。彼らという「毒」を、自領を守るための「薬」に変えようとしているのだ。

「だが、どうして我らが裏切らぬと言える? 隙あらば貴様の首を……」

「裏切りは合理的な判断ではないからだ」

ラインハルトは、ゴルザの目を真っ直ぐに見据えた。

「お前たちの家族はハクザンへ招く。そこには魔族専用の居住区と、最高の医療、教育を用意した。……人質としてではない。私に仕える者の家族として、この世で最も安全な場所を提供するのだ。……裏切り、家族を路頭に迷わせるか。それとも私という神輿みこしを担ぎ、一族の繁栄を勝ち取るか。選ぶのはお前だ」

ゴルザは、ラインハルトの痣のある顔に浮かんだ「深い慈悲」と「底知れぬ非情」が同居する瞳に、抗いようのないカリスマを感じた。

強きに従う。それが魔族の絶対的な摂理。ならば、この男以上に強い主は、この世のどこにもいない。

「……承知した。我が一族、今日より貴殿の『影』となり、世界の裏側を暴こう」

数カ月後。ハクザンの地下、深く閉ざされた一室。

そこでは、シオンとゴルザという、本来相容れないはずの二人が、王都から届いた暗号文と魔族の伝承を突き合わせ、世界の動向を監視していた。

「ラインハルト様、王都のエレオノーラ王女殿下の周囲で、不穏な動きが観測されました。……第一王子の派閥が、彼女の『排除』に動き出したようです」

ゴルザが魔族の影を通じて得た報せに、ラインハルトの瞳に鋭い火が宿った。

かつてハクザンの門で交わした約束。……ついに、その時が来たのだ。

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