影
「フォティ・ラ・ロード」。
道はいつしか舗装路から未舗装路へと変わっていた。
やがて岩と砂礫が積み重なるだけの道が続く。
終わりなきつづら折りを、馬たちはひたすら歩いていく。
180度のヘアピンカーブを曲がるたび、さっきまで歩いていた場所が、遥か足元へと遠ざかっていく。
谷底は、すでに白い雲の下に沈んでいた。
馬たちは一歩一歩、浮石を踏みしめる。
馬たちの鼻からは、薄い空気を求める呼気が白い霧となって吹き出している。
あと少しで道の頂上だ。 標高5400メートル。
峠を吹き抜ける乾いた強風が、一行の足取りを遅らせる。
ペマはソナムとプンツォに「頑張れ!」とかすれた声をかけ続けた。
プンツォはいつもの陽気な雰囲気はなく、まっすぐと道の先を見つめ、荒い鼻息を出しながら、足を前へと進める。
それを心配そうにジョーが振り返りつつ見つめる。
時折、ソナムが足を止め、大きく息を吸い込む。
その深呼吸で胸が膨らみ、鞍を通してペマの足へ伝わる。
ペマはその辛さを感じていた。
世界には風の音と、
馬たちの蹄が石をはじく「カチン」という高い音だけが、周りの斜面にこだまする。
そして、ついに最後のヘアピンを曲がり上がった。
道はもう登っていなかった。
山の斜面へ真横に伸びていた。
目の前の斜面の向こうから、奥の山の頂上が姿を現した。
ペマはソナムを止めて、振り返る。
息を吸うだけで胸が軋んだ。
足元から下へ下へと斜面が伸び、
二つの山の向こうには、暗いうちに通ったハンレ川が細く見えていた。
さらに、ハンレ川の上流方向にはアストロノミカル天文台が小さく見えた。
「す、すごい・・・」
ペマは目を丸くした。
世界の大きさを初めて実感した。
遠くにどこまでも山脈が連なり、
見たこともない空の色が広がっていた。
ゴウッ!!
そこに強い風が吹き荒れた。
「わわっ!」
ペマの髪と、ソナムのたてがみが激しく風になびいた。
ソナムは少しよろけ、ペマは左手でその首にしがみついた。
一瞬、ジョーが慌てて体を動かす。
「ペマ、気持ちは分かるがここは斜面に近い。
踏み外したら谷底だよ・・・先へ進もう。」
ツェリンが後ろから助言する。
「わかったぁ~!」
そう言って、ゆっくりと進ませた。
―――
少し進むと、視界が360度開けた。
平坦で広大な尾根が目の前に現れた。
道の頂上を示すオレンジ色のサインボードがあった。
「フォティ・ラ、18124フィート・・・」
「ペマ! 頂上だよ!」
ツェリンが馬を横に並べて、手を上げて待っている。
ペマは意味が分からず見つめる。
ツェリンは掲げた右手の手首を、左手で何度か叩く。
理解して、左手でツェリンの手を合わせた。
「いえーい!」
「ほら、あそこ・・・ラツェがあるよ。」
ツェリンが指さす先に、石を積み上げたラツェがあった。
棒から四方八方へ紐が伸び、そこに五色の祈祷旗が何枚もくくられていた。
強い風にあおられ、バチバチと音を立ててなびいている。
「祈祷旗なんて持ってきてないな・・・」
そう言うと、ペマはソナムから降りて、
ラツェに近づき、足元の石を拾い、ラツェに置いた。
ツェリンも石を積み上げ、目を閉じて祈った。
「ここまでの無事・・・感謝します。」
目を開けて、ペマを見る。
「さあ、ここから下り・・・はやく、こんな寒い所おさらばしよう!」
両手で肩を抱き、足をじたばたさせながら言った。
髪が激しく風になびく。
ペマも鼻水をすすって答えた。
「ズズッ!・・・そ、そうだね。」
―――
峠の頂きに広がる天空の荒野を抜け、フォティ・ラ・ロードの下りへと入る。
視界にはレケン・ヨクへと続く巨大な谷が目もくらむような深さで広がった。
道はインド軍が重機で斜面をえぐって作ったものだった。
急斜面を真横にえぐって作られた道で、左側にはむき出しの土壁が続いていた。
ヘアピンで方向を変え、えぐられた壁が逆側になった。
ジョーはヘアピンを曲がるたびに、崖側を歩き、もしもの時に備えている。
「・・・左、曲がるよ。」
ペマは手綱をわずかに引く。
ソナムは慣れた足取りで、道を曲がるが、ヘアピンは一気に高さを落とす。
途中、斜面が真下に見えると、ペマは「ひっ!」と体を反らせた。
ソナムはそんなペマの事情は知らぬまま、タタタッと向きを変えて、車道の外縁を歩く。
その瞬間、蹄で踏んだ浮石が「パラパラ」と音を立て、視界の端で真っ逆さまに虚空へと消えていった。
ジョーがその光景を、後ろをついてきながら谷底を見つめる。
ペマのこめかみに汗が流れる。
落ちれば助からない高さだった。
「ねえ、ソナム・・・わざとやってない?」
ソナムに尋ねると、ソナムは耳を回す。
(下りのテクニックを教えてあげる。)と言っているようだった。
ペマはえぐられた壁の上をふと見上げた。
頂上はもう遥か上だった。
「なんて所に道を作ったんだろう・・・ん?」
上の方で何かが砂煙を上げていた。
「ソナム止まって!」
ソナムを止めて、砂煙の正体を探る。
「あれはキアンだ。」
後ろのツェリンが言った。
ペマは一瞬後ろを見て、もう一度斜面を見る。
四足の馬のような姿が見えた。
茶色と白の毛並みのキアンだ。
斜面をものすごいスピードで飛び跳ねながら走っている。
彼らはこの希薄な空気の中を、まるで平地のように軽々と走っていた。
その斜面を蹴る衝撃で、石が転がり落ちてくる。
慌てて、えぐられた壁の方へとソナムを誘導し、壁にへばりついた。
石がガラガラと音をたて、先ほどまで立っていた位置に降り注ぐ。
そして、キアンの影が上からジャンプして、ペマたちを乗り越えて下っていった。
数頭は、路面に降り立ちこっちを見る。
足をカツカツと鳴らし、再び斜面へ降りていった。
ペマとツェリンは斜面を覗き込む。
キアンはもう数十メートル下を走っていた。
「いやあ~、野生動物はすごいねえ~・・・」
「ソナムも私を乗せてなかったら、あれできる?」
ソナムは耳を伏せた。
それを見てペマは笑った。
再び斜面を見る。キアンたちは下るのをやめ、隣の斜面を登っていた。
「ほんとすごい!」
―――
何度折り返しただろうか。
そんなことすら覚えていない。
だが、ついに道はまっすぐ斜面を下るようになり、下りも終わりを見せた。
道もまともに整備された道路に変わっていた。
分かれ道があり、黄色い案内板が見えた。
「コイル、15キロメートル・・・?」
ペマは地図を取り出して確認する。
アミットが指定しているキャンプ地がある場所だった。
ツェリンが地図を覗き込む。
「そこ、街だね・・・どうする?」
「ここにも集落があるね・・・レケン・ヨク・・・」
ペマの手が震える。
そして、空を見回す。
「ふう・・・」
ドローンは見当たらなかった。
ペマの様子を心配し、ツェリンが地図を指さす。
「このレケン・ヨクの手前で今日はキャンプしようか。
この道に沿って川も流れてるし、場所には丁度いいんじゃない?」
ペマは地図の道をたどっていく。
「この辺がいいかな・・・あと4キロぐらい。」
「いいんじゃない。」
「じゃあ、あと少し、みんな頑張って。」
―――
太陽は傾き、越えてきた峠の方へと次第に近づいていた。
山が急こう配なので、まだ4時過ぎなのに日没が近い。
キャンプ予定地に到着し、
ソナムの背の上で見回すと、川の周りには草が茂っている。
「うん、よさそうだ。
みんな、よく頑張ったね!」
ソナムから降りて、手綱を引きながら川べりへ近づいていく。
そして、二人は急ぐようにキャンプの準備に入る。
プンツォの荷をてきぱきと降ろす。
この旅を始めて、もう何度も行った動作だ。
そしてジョーにソナムとプンツォを任せ、
荷にぶら下がった小さなポリタンクを持って川へ近づく。
川の水はクリスタルのように澄み渡っていた。
「お~、ツォモリリの水みたいに綺麗だな~。」
それを、ポリタンクを川に沈め、タンクを水で満たした。
片足だけではなかなか辛い重さだった。
なんとか荷の所まで持ってきて、折りたたんだ木綿の布で、タンクの水を濾しながら鍋へと注ぐ。
真っ白な布は、瞬く間に茶褐色の細かな砂と、氷河が削り出した銀色の岩粉が溜まっていく。
ツェリンも馬から荷を下ろして荷ほどきする。
そして、慣れた手つきでテントを張っていく。
ペマはコロコロとしたヤクの糞を袋から取り出し、火を起こして鍋に火をかけた。
ツェリンは二つのテントを設営すると、ペマの所へとやってきた。
「ごめん、ペマ・・・私、用を足してくる。」
「はーい! いってらっしゃい。」
ペマはバター茶の用意中で、確認もせず適当にツェリンを送り出した。
ツェリンは川とは逆の山の斜面を登っていく。
火にかけた鍋の水がコポコポと泡立ち始める。
荷から出したバターの塊にナイフを立てようとした時だった。
フッと影が、ペマの座っている場所をものすごい速度で横切った。
音はない。
「えっ?」
ペマは太陽の方を振り返る。
稜線を見上げると、ドローンが静かに斜面に沿って高度を下げていた。
ペマはツェリンのノルブを探す。
だが、ノルブはソナムの隣で草を食んでいた。
背中に汗があふれ出る。
悪い予感がペマを襲う。
ツェリンが向かった斜面へ向かって叫んだ。
「ツェリーン! 逃げてぇー!」
ペマの悲痛な叫びがこだました。




