旅立ちの刻
―――10月15日 AM6:30
天文台の上には、吸い込まれるような濃紺の世界が広がっていた。
星々が鋭い光で空中に静止している。
光を遮る空気すら少ないということを改めて実感する。
高地では、宇宙が近い。
夜になると、昼間の熱は宇宙へと放射されていく。
口から吐き出される息が白く線を描き、キラキラと地面へと落ちていく。
そんな中、ペマとツェリンが厩舎から馬の手綱を引きながら出てきた。
「どう、どう・・・」
プンツォのわがままは、もはや日常茶飯事だった。
旅立ちの朝ですら、いつも通りジョーと絡み合っている。
ジョーがプンツォの足に尻尾をバシバシと打ちつけ、
プンツォは首を振ってよだれを飛ばす。
その光景をツェリンに見られているのが恥ずかしく、
ペマは苦笑しながら首の後ろを掻いた。
「この子たち、いつもこんな感じなの?」
ツェリンが、ジョーとプンツォの様子を見ながら尋ねる。
ペマは慌てて弁解した。
「いや・・・いつもは仲いいんだよ・・・
きょ、今日は・・・いつもより、そりが合わない・・・かなあ・・・」
その説明を否定するように、ジョーとプンツォは前足を踏み上げ、
何度も体を上下させた。
「ねえ、ペマ。どうも、“違う”って言ってるようだけど・・・?」
「はい・・・そうです・・・いつもこんな感じです・・・」
ペマは恥ずかしそうに一度顔を伏せ、
そのあとでプンツォを睨んだ。
その視線に、プンツォは歯を見せておどけるように
前足で何度も軽く跳ねる。
それを制するように、ソナムが体を動かし、
繋がれた手綱を引き締めた。
プンツォは前のめりに動きを止められ、
諦めたように姿勢を正した。
ツェリンはその様子に笑いながら、馬たちの背を叩く。
「いいね。あんたら楽しすぎ。
好きなだけやっちゃって。」
そう言ってゲラゲラと笑う。
その様子につられて、ペマもジョーの頭を抱えて笑った。
少し離れた場所で見ていたスタンジンが、ゆっくり近寄ってくる。
「出発だな・・・」
笑い合っていた二人が、その声に振り返る。
スタンジンは、一緒に行けない自分が情けなく、
言葉が続かなかった。
その気持ちに気づいたツェリンが声をかける。
「・・・あんたの気持ちも持っていくよ。
なんか頂戴よ。」
そう言って右手を差し出した。
「え・・・なんかって・・・?」
一瞬ぼうっとしたあと、ハッと気づく。
体をまさぐり、何かないか探す。
ポケットに手を突っ込み、動きが止まった。
バッとポケットから手を引き抜き、
左手の袖のボタンを外して袖をめくり上げる。
腕には古いアナログの腕時計が巻かれていた。
それはネジを巻く機械式の時計だった。
その時計を外し、ツェリンに差し出す。
「これを・・・オヤジから受け継いだ時計だ。
オレとオヤジも連れて行ってくれ!」
「あんた、それ、大事にしてた・・・」
「二日おきにネジ巻かなきゃ止まっちまう代物だが、
去年メンテしたばっかだ。厳しい旅でも平気だ。」
そう言ってツェリンに渡す。
ツェリンはその時計をじっと見つめ、
それからペマの方を見て声をかけた。
「ペマ、こっちおいで。」
ペマが手綱を持ったまま近づいてくる。
「左手出して。」
ペマは手綱を放し、左腕を差し出す。
ツェリンは、早朝の寒さ対策で重ね着している
ペマのチュバの袖をめくり上げた。
そして、ペマの左腕にスタンジンの腕時計をはめる。
「絶対・・・無事に戻れよ。」
スタンジンがそれを見て声をかける。
ペマは動く秒針を見つめ、それからスタンジンを見た。
「絶対、返すから!」
スタンジンは頷いた。
ペマの腕時計にジョーが耳を近づけ、
耳をピクピクと動かす。
それに気づいたペマは、腕時計を右耳に近づけた。
チチチチ……
規則正しい音が鳴っている。
小さな秒針が、確かに時を刻んでいた。
ペマはその音を聞き、目を閉じた。
再び始まる旅に、
静かだが、気持ちが引き締まっていく。
「じゃあ、そろそろ行こうか。」
ツェリンが声をかけると、
ペマは目を開いて頷いた。
二人は馬の背に乗り、スタンジンを見る。
「ラムド・・・デポ・・・チュン・チュク・・・」
スタンジンが、カタコトの口調で言葉を贈る。
それはチベットで、旅の安全を願う言葉だった。
ペマは「練習したんだろうな」と思い、笑顔になる。
「トゥジェ・チェ!!」
ペマは感謝の言葉を返し、ソナムを歩かせた。
それにツェリンが続く。
次第に小さくなっていく一行を、
スタンジンは別れを惜しむように、立ち尽くして見送っていた。




