変わらぬ空
―――10月15日 テイデ天文台
エレナはベッドから立ち上がり、枕元に置かれた呼び出しボタンを押す。
3日前から始めた、トイレへ行くというリハビリ。
1日目はきつかったが、2日目は急に楽になった。
立つだけで頭がフラフラしたが、頭の重さに慣れたのか、それとも立つバランスが良くなったのか、あるいは体が順応したのか、劇的に楽になったのだ。
そして、3日目の今日は、さらに足に力が戻った気がした。
「人間ってすごいのね・・・昨日まで足が出しにくかったけど、
今日は足が思い通りに動くわ・・・」
そこに看護師がやってきた。
カーテンがシャッと開く。
「エレ・・ナ・・・あら、もう動き出したの?」
「はい。昨日と全然違うんです。体が思い通りに動く感じ・・・
あ、でも腰回りは動きませんけど。」
そう言いながら笑った。
明るくなったエレナに、看護師も嬉しそうに笑顔を見せる。
「でも、寝る時に緩めたコルセット、絞るわよ。」
看護師はロープを引っ張るようなポーズをとった。
「ははは、どうぞ。」
エレナはバンドを締める部分を看護師に向けた。
「よし、じゃあ遠慮なく・・・。
いい? 楽になった時が一番危ないんだからね。
今日みたいに勝手に立ち上がって、腰を『グキッ』なんてやったら、
モラリス先生に私が怒られちゃうんだから。」
背中の紐が力強く引かれ、エレナの胸がぐっと押し上げられた。
「うっ」
エレナは息が詰まったような声を出した。
―――
廊下を歩くエレナと看護師。
壁の手すりにしがみついていた初日の様子は、まったくなくなっていた。
だが、看護師は歩く速度を抑えていた。
「まだ急がないで、ゆっくりと一歩一歩、確実に歩くように・・・」
「はい。」
トイレに到着した後、エレナは確認する。
「トイレが終わったら、病室ですか?」
その問いに看護師の眉が上がる。
「もっと歩きたい? 歩く量を増やすのは良いことですよ。
どこか行きたいところがありますか?」
エレナの顔がパッと明るくなる。
「じゃ、じゃあ~、仕事場まで!」
「それはダメですね。
病棟のあるここは、エレナの仕事場とは建物が違いますから・・・
外にはバリアフリーの手すりがないので、ダメです。」
「そうですか・・・」
エレナの顔はドヨンと暗くなった。
見かねた看護師が提案する。
「屋上なんてどうです? 仕事場の建物、見えると思いますよ。」
「じゃあ、それで!
トイレ、済ませてくるわ。」
そう言うと、車いすが利用できるトイレのオープンボタンを押した。
―――
トイレの“利用中”のランプが消え、ドアが自動で開く。
エレナはトイレから出てくると、クローズのボタンを押す。
看護師が車いすの後ろに立っている。
「車いすなんて、どうするの?」
「3階まではエレベーターで行けますけど、
屋上へは階段なんで、これに乗って昇降機を使います。」
「・・・?」
エレナは意味がよくわからなかった。
「まあまあ、とりあえずエレベーターで上に行きますよ。」
ボタンを押すと、エレベーターのドアが開く。
エレナが先に入るよう、看護師が促す。
入ると、車いすの押手のグリップを軽く押し、小さな前輪を浮かせてエレベーターに押し入れる。
3を押して、ドアの閉じるボタンを押す。
「エレベーターの手すり、しっかり持っててくださいね。」
「はあ・・・手すり・・・?」
エレナが手すりを握ると、ちょうどドアが閉まり、エレベーターが上へと引っ張られる。
「ぐっ!?」
上への加速がズンと足と腰に重さを響かせ、思わず握った手すりで体を支えた。
看護師が振り返って言う。
「手すり、大事でしょ?」
「ははは・・・そ、そうね・・・びっくりしたわ・・・。」
エレナの額に汗が流れた。
エレベーターが3階に到着し、電子音が鳴った。
ドアが開く。
看護師がドアの安全装置を押さえ、エレナに出るよう促す。
エレナが出た後、看護師は足で安全装置を押さえながら車いすをエレベーターから降ろした。
「こっちです。」
看護師が階段の方向を指さす。
エレナはその指の方へ歩き出し、しばらくすると階段が目の前に現れる。
「じゃあ、これに座ってください。」
「え? 車いすは私用だったの?」
「そうですよ。エレナはまだ階段なんてダメですから。
はい、さっさと座って。」
エレナはしぶしぶ車いすに座る。
看護師は車いすのブレーキを外し、昇降機に乗せ、シートベルトをはめる。
「え? 何これ? 怖いんだけど・・・」
エレナは昇降機を使っている人を見たことがなかった。
未知との遭遇に、きょろきょろと動ける範囲で自分の状況を確認する。
看護師は上下のボタンが2つ付いた操作盤を渡す。
「これを操作して、上にあがりま~~す♪」
「絶対面白がってるでしょ?」
「はい! さ、行きましょう。」
笑いながら、看護師は階段を登っていく。
エレナは恐る恐る上のボタンを押す。
ウィーンというモーター音がして、振動も少なく登っていく。
「わっ! わっ! すごい、これ!」
だが、すぐに慣れてしまう。
それぐらいの速度だった。
屋上のフロアに着く。
看護師は昇降機から車いすを降ろし、ブレーキをかける。
「もう立っていいですよ。
出入り口のドアの段差は使わないで、スロープを使ってくださいね。」
そう言って看護師は屋上へのドアを開けると、冷たい風が肌を刺した。
目の前にテイデ天文台の複数の施設が広がった。
「うわあ・・・」
手を使って、風になびく髪をこめかみの所で押さえる。
ケガをするまで、毎日見ていた風景が目の前にあった。
一部破損しているが、全施設が無事だということを確認できた。
左手にテイデ山があった。
その山はいつもの赤茶けた色で、いつもの風景だった。
だが、その下へ目を落としていくと、背の低い木々が枯れ、地面がえぐれていた。
それを見て、エレナは胸が痛んだ。
「あの場所は・・・もしかして・・・」
「そうです。あそこは死神が活動したエリアです。
天文台のスタッフが動員されて片づけましたが、酷い惨状でした。
ミンチ状の肉片があちこちに飛び散り・・・
みんな嘔吐を繰り返しながら、作業したんです・・・
ほら、あそこ。」
看護師が指さす。
エレナがその指先の方を見ると、銀色に輝く丸い物体があった。
その物体を見た瞬間、エレナは恐怖にたじろかせ、口を押さえた。
「あ、あれって・・・死神・・・?」
「そうです。
アレが・・・あなたがケガした時に現れた敵です。」
看護師は死神の残骸をにらみつけた。
その顔には、あからさまな憎しみが浮かんでいた。
「エレナ・・・私は死神を絶対に許さない。
死神に対して何の力も持っていない私だけど・・・
この悲しみ、苦しみを与えた死神は絶対悪。
だから、あなたの活動を応援する。
この思いを・・・世界を一つにして!」
そう言って、エレナの手を両手で包む。
エレナは驚いたが、言葉の強さに自分がやってきた努力を認められた気がした。
その手を握り返す。
エレナはもう一度、死神の残骸を見た。
「分かった! 絶対に人類を一つにするから!!」




