知らなかった世界
10月7日
ツォ・モリリ湿地のキャンプ地は、テントの数が減っていた。
いくつかの遊牧民のグループは、すでに標高の低い南斜面へ移動していたからだ。
遊牧民がすべていなくなれば、NOBUNAGAの攻撃が来るかもしれない。
部隊は、最後の遊牧民とともに移動する予定になっていた。
羊の囲いの岩にペマが座っていた。
その横には、小さな馬の手綱を持ったラフルが立っている。
ジョーは地面に座り、足で頭を掻いていた。
彼らの吐く息が白く伸びる。
「断端袋、厚手の物に変えたのか?」
ペマは断端袋を厚手の物に変えたようで、義足の付け心地を確かめている。
「この間の厚さだと、皮剥けちゃったからね・・・
まあ、馬に乗る練習だから、同じ厚さでも大丈夫だとは思うけどさ~」
そう言いながら立ち上がり、右へ左へと方向を変えながら歩いていく。
ジョーはついていかず、その動きをじっと見ていた。
「うん! 大丈夫そうだ。」
ペマは右足を横に広げ、小さく片足で垂直ジャンプする。
ラフルがペマの方へ近づいていく。
その動きを見て、ジョーも起き上がり、ペマのそばへ移動した。
ラフルは指さして言う。
「向こうに残ってる草の所で乗馬の練習をしよう。」
「オッケー!」
二人と二匹は、湖の方へと歩いていく。
―――
足元に広がる短い草が、風を受けてそよそよとなびいている。
「この辺で良いだろう。」
ラフルは周りを見渡し手綱を渡す。
ペマはそれを受け取り、口に挟むと、左手で馬の首をなでた。
「名前は?」
「ソナムだ。」
ソナムと呼ばれるこの馬は、チベタン・ポニー。小型の馬だ。
小型だが胸囲が広く、骨太で、蹄が硬い。
チベットという環境に適応したポニー種である。
また、片足がないペマには、体高の低いポニーが乗り降りしやすく、ちょうど良かった。
「ソナム、よろしくね。」
ジョーがソナムの前へ移動し、じっと見つめる。
ソナムも見つめ返す。
しばらくの沈黙のあと、ソナムはブルルッと息を吐きながら、縦に首を揺らした。
すると、ジョーはペマの横へと移動した。
「まず、乗ってみろ。」
ペマはラフルの言葉に頷き、手綱を左手に持つ。
義足で立ちながら、鐙に左足を乗せようとした。
だが、義足がぐらついて安定せず、足を入れる前にバランスを崩す。
支えようと手綱を引いたが、右足は踏ん張り切れず、左へ倒れ込んだ。
その背に、ジョーがすっと入り込んで支える。
「あはは、ジョーありがとう。」
ラフルはペマに手を貸さず、一歩下がった位置で腕を組み、様子を見ていた。
「やっぱ、ムズイね。」
そう言って、ペマは再挑戦する。
今度は手綱を持たず、ソナムの鞍をつかんだ。
鞍はしっかり固定されており、その安定のおかげで義足もぶれない。
今度はゆうゆうと鐙に足が入る。
次に左足と左手で体を持ち上げ、義足をソナムの体の上へ回し、鞍にお尻を滑り込ませた。
だが、その勢いが強すぎた。
右手がないペマは体を制御しきれず、ソナムの反対側へと落ちてしまう。
ジョーもさすがに予測できなかったようで、慌てて反対側へ駆け寄った。
「いててててて・・・」
ラフルも一歩足が出たが、すぐに何事もなかったように引き戻した。
ジョーがペマの痛がっている部分をべろべろと舐める。
「ジョーやめろよ! 大丈夫だって!」
そう言って、ジョーの顔を押し返す。
「縦だな。」
ラフルが言った。
「縦?」
上半身を起こしたペマがラフルを見る。
「そうだ。 縦移動だよ。 オマエは早く乗ろうとして左手で引き寄せただろ?」
ラフルは体を使って説明する。
両足を曲げ、左手で空中をつかむようにし、足を伸ばしながら左手を体の方へ寄せる。
「そのせいで横移動が強くなった。
でも、その勢いを受け止める右手がない。 だから右側へ落ちたんだ。」
手を体の方へ寄せながら、体を右前へと回転させ、“右手がない”とぶらぶらと振る。
そのまま右足側に体を乗せ、地面に右手をつく動きをして見せた。
「なるほど。」
「だから、縦なんだよ。」
ラフルは立ち上がり、再度両足を曲げて同じ姿勢を取る。
「この状態から左手で寄せるんじゃなくて、左足で立つように鐙に乗る。 左手は添えてバランスをとるだけだ。」
ラフルは左足だけで立ち、左手を鞍の位置あたりに開いてぶらぶらと振った。
「あとは、右足をソナムの右側へ回して・・・」
体をひねって右足を回し込む。
「あとは、下へと落ちるだけだ。」
右足を地面につき、腰を落として相撲取りの四股のような体勢を取って見せた。
「おお~、アニキすげえ!」
そう言うと、ペマは左手と左足だけでさっと立ち上がる。
「よっ!」
その様子をソナムが首を曲げて見ていた。
勝手に動き、体の左側をペマに向ける。
その動きに、ペマがソナムの体をポンポンと叩く。
「ソナムもありがとう。」
そして、ラフルが説明してくれたように、縦方向を意識して立ち上がると、
縦にストンと鞍へと落ちる。
縦に落ちてきた体は、横方向にぶれることなく鞍に座れた。
「アニキ! やったぜ!」
ペマは勢いよくラフルの方を振り返る。
ラフルは笑い、腕を組んでいた手をグッドサインに変えた。
ラフルはペマのそばへ歩み寄る。
「義足の方の鐙はどうだ? 入れれるか」
「う~ん、手でやれば入れれるけど、まったく踏ん張れないね。」
「断端部分はどうだ?」
「ちょっとグラグラしそう。」
「そうか、これぐらいならどうだ?」
ラフルが鐙を持ち上げる。
「あ、そっちがいいね。」
「そこは、あとで短くしよう。」
「鞍はどうだ?」
「わかんないな・・・ちょっと歩いていい?」
ラフルは頷き、一歩下がる。
「ソナム・・・行ってみようか。」
ペマは舌でペロリと唇をなめ、左足のふくらはぎで軽く挟む。
ソナムが耳を回す。両足ではなかったので、一度ジョーへ目線を落とす。
「ウォン。」
ジョーが軽く吠えて合図すると、ソナムが歩き始めた。
「おっ・・・とっ・・・うぉ・・・」
ペマは手綱を引いてソナムを止める。
「手綱を持つ位置悪いな・・・このぐらいかな。」
手綱を短く持ち、本来は右手が持つ位置も一緒に握る。
そして、再び合図を送る。
「・・・よし、割と安定した。」
左の踵で二度叩く。
ソナムが早足になると、ペマの体が上下に跳ねる。
「おおおお・・・直線はなんとか・・・」
ペマは手綱を右に引く。馬の頭が少し左を向く。
左のふくらはぎで圧迫を加えると、ソナムが左へ曲がる。
ペマは体を左に傾けてバランスをとる。
「ははは、すごい。」
その速度で移動したのは久しぶりだった。笑いがこぼれる。
次に左に引いて顔を右に向ける。右足に力を入れるが挟めない。
ペマは顔をしかめる。
並走していたジョーが合図を出す。
ソナムが右へと方向を変える。
ペマは右側にバランスを取ろうとしたが、右足が踏ん張れず行き過ぎてしまう。
「おわっ!!」
落馬した瞬間、ジョーが上半身を受け止めて、草原に落ちる衝撃を減らす。
ペマは草原に大の字になって空を見つめる。
ジョーはその周りをウロウロしながら見つめる。
「ペマ!!」
見ていたラフルが走り寄る。
草原にあおむけで目をぱちくりさせて、ペマは笑った。
「あははははは!! すげえ~!すげえ~!」
その笑い声を聞いて、全力で走っていたラフルが駆け足に変わる。
ペマの顔にジョーが顔を近づけ見つめる。
ペマはジョーの首に左手を回して喜ぶ。
「こんな世界があるなんてな・・・ジョーありがとう!」
そこにラフルが歩み寄ってきた。
「大丈夫みたいだな。」
ラフルは一度ソナムを確認する。
ソナムはペマが落ちたあと止まり、こちらを見ながら草を食んでいる。
ペマは上半身を起こす。
「アニキ、鞍右側を大きくしてくれ。」
「鞍のどこを?」
「この辺だよ。 右の太ももを受け止める形が欲しい。」
ペマは自分の右足の太ももの裏を叩いて説明する。
「なるほど・・・盛った方がよさそうだな。
どうする? 今日はやめておくか?」
「いや、速歩の右側は無理だけど、常歩なら大丈夫。 練習続けるよ。」
「分かった。」
ラフルは指笛を鳴らし、ソナムを呼ぶ。
ペマが立ち上がると、ソナムが走り寄ってきた。
「ソナム。 今日はいっぱい付き合ってね。」
ソナムは首を振ってブルルッと息を吐いた。
四つの影が、草原に次第に伸びていった。
その先に、ペマの知らなかった世界が広がっていた。




