夜が近づく
―― 2033年7月20日
最適化の日からすでに20日が経過していた。
月基地の管制室。
管制室と言っても狭い。
地球から送り込まれる資材で作られる世界では、大きな空間を贅沢に使うことはできない。
レゴリスを使い3Dプリンターで作られるものは、基地の外壁や補修材が中心で、
こうした精密機器の部屋は、ほぼ地球産だ。
壁にはモニターと折り曲げ式のアームに取り付けられたキーボードが並び、
その前に固定式の椅子が床から生えているように設置されている。
どれも最低限の機能しか持たず、余計な装飾は一切ない。
天井のパネルは復旧のために外され、配線がむき出しのまま絡み合っている。
そのせいで空調の低い唸りが直接響き、
クルーたちのキーボードを叩く音や電子音と混ざり合って、
この狭い部屋の“生きている音”になっていた。
フィリップは、管制室の一段上がった床の中央に立ち、
天井からぶら下がる復旧したばかりのモニター群を睨みつけていた。
照明は明るい。
空調も動く。
通信も戻った。
クルーたちは笑い声すら漏らし始めている。
だが、彼の胸の奥だけは、冷たい石を抱えたままだった。
モニターの一つに、基地全体のエネルギー残量が表示されている。
「稼働率:90%」
その下に、無慈悲な赤文字が灯る。
「蓄電池:0%」
――7月7日。
バッテリールームから、凍りついたバッテリーを廃棄した日だ。
あの日、基地が沈黙してから続いた“月の夜”。
月の夜の極寒で、バッテリー内部の電解液が完全に凍りつき、
セル構造が破壊された。もはや蓄電池としての機能は戻らない。
だから、蓄電池は0%のまま。
どれだけシステムが復旧しても、夜を越える力だけは戻らない。
そして――
5日後、再び“夜”が来る。
「このままでは・・・夜が来た瞬間に、基地はまた死ぬ。
次の凍結は――我々全員の終わりだ。」
月には14日の昼と14日の夜が交互に訪れる。
夜になれば気温はマイナス170度。
金属すら脆く砕ける、死の温度だ。
太陽光パネルは14日の夜のあいだ、当然ながら一切発電できない。
基地への電力供給は完全に途絶える。
そのため月面基地には、夜を越えるためのバックアップが2つ用意されていた。
ひとつは燃料電池。
水素と酸素を反応させて電力を生み出す、基地の“第二の心臓”だ。
だが、この燃料電池は連続運転が前提のシステムだった。
7月1日のシステムダウンで停止した、
その後、極寒の環境にさらされ、内部の配管もセルも凍りつき、破壊された。
今はもう、再稼働の見込みはない。
もうひとつは蓄電池だ。
本来なら、燃料電池が停止した場合でも、
その巨大なバッテリーが夜の14日間を支えるはずだった。
だが、今は0%。
夜が来れば、すべてが終わりだ。
「次から次へと・・・また危機が迫ってきましたね。」
トーマスの声がして、フィリップがモニターから目線を上げた。
「・・・トーマス。」
「やっと、皆が睡眠を削り、基地の機能が90%まで復旧できたというのに、
次は夜ですか・・・」
「ここまで忙しかったから、見落としていた・・・」
「しょうがないです。
配電系は凍結で損傷し、交換作業。
それによって、制御ユニットの再起動には時間かかりましたし・・・」
「外にあるバッテリーには電気は入ってないんだよな?」
「保管だけで、充電はしてませんから・・・」
フィリップは小さく息を吐いた。
予備があるのに使えない――その事実が胸に重くのしかかる。
基地には、劣化時に交換できる予備バッテリーが用意されていた。
それが“バッテリー保管コンテナ”である。
大型蓄電池は温度管理が生命線だ。
月の夜と昼の極端な温度差に耐えるため、
専用の太陽光パネルと独立した温度管理システムが組み込まれ、
コンテナ内部は常に一定の温度に保たれていた。
さらに、大型蓄電池は発火やガス発生の危険がある。
密閉された居住区に保管することは禁じられており、
保管コンテナは基地から離れた場所に、完全独立で稼働していた。
その独立性が功を奏した。
7月1日のシステムダウンの影響をまったく受けず、
予備バッテリーだけは無傷で生き残っていた。
まさに奇跡だった。
フィリップは、今やる事を思い出し、気持ちを切り替える。
「マーカスは何と言っている? あいつの判断が今は最も重要だ。」
「とりあえず、バッテリーをロッカーに運び入れる作業を開始させたようです。
あとは、充電時間との勝負だと。」
「これからの残り時間で、バッテリーはどれぐらい充電可能なんだ?」
「・・・約80パーセント、と」
「・・・・・・。」
フィリップは眉を寄せた。
80%では足りない。
これまでの経験上、夜の14日間を支えるには、90%以上必要だった。
「・・・基地の必要最低限の機能まで、活動を停止させることはできないか?」
トーマスは首を横に振った。
「生命維持、空調、通信、配電系の監視・・・どれも切れません。
どれか一つでも止めれば、別のシステムが連鎖的に落ちます。
節電で稼げるのは、せいぜい1~2パーセントです。」
「そうか・・・」
フィリップは短く息を吐いた。
消費を減らす道も、ほぼ閉ざされている。
それを見たトーマスが、追加で提案を示す。
「・・・実は、マーカスから、ひとつ提案がありました。」
フィリップは、その一言に目を開き、トーマスを見つめた。
トーマスがタブレットを確認しながら言った。
「予備電池のコンテナに付いている太陽光パネルを、
基地側に引き込めないか、だそうです。
あれを使えば、充電速度を上げられる可能性があると。」
フィリップは眉をひそめた。
「コンテナのパネルを・・・引き込む? あれは独立系統だろう。」
「ええ。だから簡単ではない、とも言ってます。
配線の規格が違うし、変換器も必要です。
それに、外での作業になりますし・・・」
トーマスは言葉を濁した。
「ただ、やる価値はあるかと。
80パーセントでは夜を乗り越えられない可能性が高いので。」
フィリップは黙り込み、モニターに映る残り時間を見つめた。
「ここで四の五の言っている状況じゃないな。
やる方向で進めよう。 ・・・作業時間はどれぐらいかかる?」
トーマスは一瞬だけ言葉を探し、タブレットを見下ろした。
「・・・最短で6時間。
ただし、これは“外作業が順調に進んだ場合”の数字です。」
「6時間・・・」
「はい。
コンテナのパネルは独立規格なので、変換器の仮設が必要です。
それに、外のケーブル敷設も。
砂塵が舞えば作業は止まりますし、エアロックの稼働回数にも制限がある。」
フィリップは黙り込み、残り時間のカウントを見つめた。
「・・・間に合うかどうかは、運にも左右されます。」
トーマスの声は静かだった。
「わかった。 作業チームを呼べ。 それと、作業説明できる技術班を。」
トーマスは即座に頷き、端末に指を走らせた。
「作業班、すぐにブリーフィングルームへ向かわせます。
技術班からハワードを呼び出しました。」
「よし、ブリーフィングルームへ行こう。」
管制室の空気がわずかに変わった。
先ほどまで復旧の安堵が漂っていた空間に、
再び緊張の糸が張りつめていく。
フィリップは腕を組み、モニターに映る残り時間を見つめた。
――間に合うかどうかではない。 やるしかない。
――ブリーフィングルーム
ブリーフィングルームの中には集められたクルーが16人
その中に、レオン、ミラー、サム、リードの顔も見える。
サムが手元の簡易資料をめくりながら、ぼそりと呟いた。
「なあ、この資料。外での緊急作業って書かれているが、どういう事だ?」
レオンは腕を組んだまま、短く息を吐いた。
「・・・・・・。」
ミラーは椅子に寄りかかり、気怠げに答える。
「しらん。 俺らに説明が来るのはいつも最後だろ。」
リードが静かに二人を制した。
「これから説明があるんだ。 黙って聞いてろ。」
その瞬間、ドアが開き、フィリップと技術班のハワードが入ってきた。
室内のざわつきが一気に消え、空気が張りつめる。
フィリップは前に立ち、全員を見渡した。
「皆。 疲れているところ、すまん。
状況は急だ。説明に入る。」
作業班の視線が一斉に前へ向けられた。
ハワードが端末を抱えて前に出る。
「今回の作業は、通常の整備ではありません」
スクリーンに、基地外部の地図と一本の赤いラインが映し出される。
「予備バッテリー保管コンテナの太陽光パネルを、
基地側の配電系に“仮接続”します」
レオンが眉をひそめた。
「・・・外作業ってことですか」
サムが手を挙げて質問する。
「なんで、こんな作業をする必要が?」
フィリップが説明する。
「皆の頑張りのおかげで基地の復旧は進んで、現状不必要な物以外は復活した。
ようやく、バッテリーに余力を回せるようになった。
だが、今のままでは、次の夜を越えられない。
次の夜までの残り時間では、バッテリーは80パーセントまでしか
充電できない見込みだ。
それでは足りない。 だから外部のパネルを引き込む。」
レオンが引き込む理由が分かった。
「なるほど、充電速度を上げたいわけですね。」
サムは、レオンの補足を聞いて、あー!という顔をする。
ミラーが低く息を吐いた。
「80じゃ・・・確かに無理ですからね。」
リードは静かに手を挙げた。
「規格の違うケーブルをつなぐ変換機ですが、動く見込みがありますか?」
技術班のハワードが前に出て、端末を操作しながら答える。
「予備の変換機が一台、倉庫に残っていました。
ただ・・・外気温に長期間さらされていたため、動作保証はできません。」
ミラーが苦笑混じりに肩をすくめた。
「つまり・・・また運任せってわけだ。」
ハワードは否定も肯定もせず、淡々と続ける。
「内部のセルは凍結していませんでした。
温度管理はギリギリ保たれていたようです。
ただし、接続後にどれだけ安定して動くかは・・・実際に通電してみないと分かりません。」
サムが不安げに眉を寄せた。
「もし途中で止まったら?」
「その時点で作業は中断です。
ケーブル敷設も、変換機の仮設も、すべて無駄になります。」
レオンが息を吸い、短く言った。
「でも、やるしかないんですよね。」
フィリップが頷く。
「そうだ。80パーセントでは夜を越えられない。
この作業が成功すれば、90に届く可能性がある。
失敗すれば・・・次の夜で基地は終わる。」
室内の空気が重く沈む。
リードが静かに立ち上がった。
「作業手順を確認させてください。
外に出る前に、全員で段取りを共有したい。」
フィリップは短く頷いた。
「ハワード、説明を続けてくれ。」
ハワードは画面を切り替えて、外作業のルートと手順を表示し、
スクリーンを指し示しながら説明を続ける。
「ルートはここです。
コンテナまでの距離は約1.2キロ。 砂塵の影響を受けやすいエリアを通過します。
作業時間は最短で6時間。
ただし、これは“何もトラブルが起きなかった場合”です。」
室内に重い沈黙が落ちる。
フィリップが全員を見渡し、低く言った。
「失敗は許されない。
夜まで残り――112時間。
この作業が遅れれば、充電率はどんどん90%を下回る。
その瞬間、我々は終わりだ。」
サムが小さく息を呑む音が聞こえた。
リードが静かに立ち上がり、言葉を絞り出す。
「・・・作業チーム、準備に入ります。」
フィリップは頷き、最後に一言だけ告げた。
「外は死の温度だ。
だが、ここで止まれば、もっと確実な死が待っている。
――頼んだぞ。」
作業班は厳しい寒さと残り時間の制約の中、決死の任務に踏み出す。慎重な準備と管制からの激励を受け、彼らは生き残りを懸けて外の世界へ向かった。




