1. 聖域への侵入者
この学園には、二種類の人間しかいない。
一つは、欲望に忠実すぎて頭のネジが飛んだ「変態」。
もう一つは、その変態たちに気づかない「その他大勢」だ。
俺、栗原 堅は、間違いなく後者だった。
とある進学校の昼休み。俺はいつものように、旧校舎の裏庭にいた。
ここは俺が部長を務める園芸部の部室兼、活動場所だ。部員は俺一人。つまり、俺だけの聖域である。
俺はしゃがみ込み、プランターの土の状態を確認する。
今日の手入れ対象は「栗」ではないが、それに似た鋭いトゲを持つ植物――アザミだ。
不用意に触れば刺さる。だが、距離感さえ間違えなければ、凛として美しい。
人間関係もこうあればいいのに、と俺は思う。
「はぁっ……、はぁ……っ!」
聖域の静寂は、無粋な呼吸音によって破られた。
俺は不機嫌に眉を寄せ、背後を振り返る。
そこに立っていたのは、この学園のカーストトップに君臨する少女だった。
白川 ゆりね。
透き通るような肌に、色素の薄い茶色の髪。誰にでも微笑みかける姿から「聖女」なんて呼ばれている。
だが今、彼女の顔に笑顔はない。
制服のリボンは曲がり、上履きは泥だらけ。まるで何かに追われる小動物のように震えている。
「……何の用だ」
俺は努めて低い声を出した。俺の全身から放つ「関わるなオーラ」を感じ取ってほしかったからだ。
彼女はビクリと肩を跳ねさせたが、逃げ出す代わりに、縋るような目を向けてきた。
「か、隠れさせて……っ! お願い……!」
「断る」
俺は即答した。
彼女がここに来た理由は見当がつく。どうせ、あの狂信的なファンクラブ――通称『白川親衛隊』に追われているのだろう。
さっきから校舎の方で、「白川様の二酸化炭素濃度が高い場所はどこだー!」「リコーダーを舐めさせろー!」という地獄のような叫び声が聞こえている。
関わりたくない。
俺はアザミのトゲを指先で弾いた。
「ここは園芸部の敷地だ。部外者は立ち入り禁止だ」
「そ、そんな……」
「帰れ。お前がいると、害虫(変態)まで寄ってくる」
冷たすぎる言葉かもしれない。だが、俺は自分を守るために「イガ」を纏っているのだ。中途半端な情けは、自分の平穏を殺すことになる。
白川ゆりねは、絶望したように顔を歪めた。
その瞳に涙が溜まる。
……チッ。泣くのかよ。これだから「聖女」様は面倒なんだ。
彼女がよろりと後ずさりした、その時だ。
「おい」
「ひっ!?」
俺の声に、彼女が怯える。
俺はアザミのプランターから立ち上がり、スコップを彼女の足元に向けた。
「後ろ。踏むな」
彼女の踵のすぐ後ろには、植えたばかりの球根の芽が出ていた。
それを踏まれたら、俺はこの聖女様を堆肥に突っ込んでいたかもしれない。
「え……?」
「そこは百合根だ。食用のな」
「ゆり……ね?」
「お前と同じ名前だろ。共食いしてどうする」
俺が言うと、彼女は呆気にとられた顔で自分の足元を見た。
そして、ふっと力が抜けたようにへたり込んだ。
「……あ、あはは。そうね。私、ただの百合根だもんね……」
乾いた笑い。
それは、いつも教室で見せている「完璧な聖女」の笑顔とは程遠い、ひどく人間臭くて、弱々しい表情だった。
校舎側からの叫び声が近づいてくる。
俺はため息をついた。
目の前で、自分と同じ名前の球根を踏み潰しそうな少女を見捨てるほど、俺の寝覚めは良くない。
「……おい」
「え?」
「そこは外から丸見えだ。入るなら奥に入れ」
俺は顎で、プランターと道具小屋の隙間をしゃくった。そこなら外からは死角になる。
白川ゆりねが、驚いたように目を見開く。
「い、いいの……?」
「勘違いするな。お前が捕まってここで騒がれると、俺の植物にストレスがかかる」
「っ、ありがとう……!」
彼女は慌てて隙間に潜り込んだ。
俺はその前に立ちふさがり、壁になる。
背中の後ろで、小さく衣擦れの音がして、彼女が膝を抱えている気配がした。
「……栗原くん、だよね」
「喋るな。見つかるぞ」
「ごめんなさい。……でも、ありがとう。栗原くんって、見た目はトゲトゲしてるけど、中は甘いのね」
「は? 意味わかんねーよ」
俺は悪態をつきながら、スコップを握り直した。
間もなく、あの変態たちがここへ雪崩れ込んでくるだろう。
俺の平穏な昼休みは終わりだ。だが、背中の後ろで震えている「泣き虫な百合根」を守るためなら、少しだけトゲを使ってもいいかと思った。




