第伍幕 試運転終了
しばらくたって今日の分を描き終えると、雪子は片付け始めた。
「今からお昼食べに行くけど、京子さんも行く?」
雪子は京子に声をかけた。
「私はもう少し描いてみる。今日はお弁当を持って来てるの。」
「そう、じゃあまた明日ね。」
「はあい。」
京子を残したまま美術棟を後にすると、雪子は学食ではなく、洲原公園近くにある大学会館に向かった。
こちらにも軽食を出す喫茶スペースがあり、パスタやグラタンが美味しくいただけるのだ。雪子が学内で一人で食事をする時は、いつもここに決めている。
今日はカルボナーラを注文した。
いつもながら美味しい。
「食事の趣味は同じなのかしら?」
外の雪子が中の雪子に尋ねる。
(私は特に好き嫌いなく、何でも美味しく食べるほうです。)
中の雪子が答える。
「そう。良かった。…ところでお絵描きの感想はどうだった?」
(構図や立体感や陰影の技法など、思った以上に数学的かつ物理的ですね。)
「でしょ?特にアカデミックな基礎技法は、そんな側面が大きいわね。レオナルド・ダ・ヴィンチのやり方なんてその最たるものですもの。」
(でも、時に理屈を超えた何かが生まれる。)
「そうよね。そこが芸術の奥の深いところ。」
食事が終わると午後はフランス語の授業だった。
中の雪子にとっては、こちらの方がお絵描きよりもよほど新鮮だった。
(そうか。将来的には英語以外にも多言語が必要よね。中国語とかロシア語とか…色々考えておかなくっちゃ。)
午後の授業が終わると、大学生の雪子は駐車場に向かった。
スーパーホワイトの初代ソアラに乗り込む。
「実は最近免許を取ったばかりなの。」
白状する外の雪子。
(安全運転でお願いしますね。)
頼む中の雪子。
雪子はエンジン始動のために鍵穴に刺したキーを回す。
今となっては古式ゆかしい儀式だ。
当時では珍しい虚像式のデジタルメーターが点灯する。
6気筒の2000ccエンジンが静かに回りだす。
ソアラはゆっくり大学の正門から出て行った。
刈谷市の大学から、名古屋市千種区の一人暮らしのマンションまでは、クルマで30分ほどだった。
マンション下にクルマを止めて、セキュリティも何もないシンプルなつくりの玄関を通りエレベーターで5階へ。
雪子はドアを開けて、3LDKの部屋に帰ってきた。
とりあえずソファーに腰をおろす。
(今日は色々ありがとうございました。)
中の雪子がおもむろに挨拶する。
「あら、もう帰っちゃうの?」
意外そうな外の雪子。
(実はこの実験、今日が試運転で。間もなく6時間のアラームなんです。)
「そう。それは残念ねえ。」
(初めてが貴女で良かったです。)
「私も新鮮な経験ができたわ。」
(じゃあ、ご縁がありましたら、いつかまたどこかで。)
「アナタも頑張ってね。」
(ありがとうございます。貴女の御武運をお祈りしております。)
次の瞬間、高校生の雪子は、自分の時間軸の実験室の体内に戻って来た。
初の時空移動体験は大成功と言って良いだろう。
「…でも最後に何か変なあいさつしちゃったかも。」
ちょっとだけ後悔している雪子であった。
以下、新章②「正和の雪子」に続きます。




