ハント氏
他所さまで開催しておりました『嘘ごとの設定をひとつだけ入れた短篇』への参加作品です。
「はんとし」と入力し、「半年」と変換したい。
なのに、結構な頻度で「Hunt氏」と変換される。
その昔、ワードプロセッサー(略してワープロ)を使っていた頃からだ。
あの頃は「ハント氏」とカタカナ変換だった。
よくわからない変換と言えば、「なつかしき」と入力し、「長束式」と変換されることもある。
おそらく、長束正家という、豊臣政権下にいた戦国武将の一人のことだろう、とは予想できる。
この武将、名前程度だけなら知っているが、実際何をした武将なのかは知らない。
だが、字ずらから思うに「長束式」というのは、「延喜式」や「御成敗式目」と同じようなものなのではなかろうか。
長束正家の領内や城内での決まり事を綴ったものなのかもしれない。
さて、話は戻り「ハント氏」の件についてである。
とある筋から聞いた話なのだが、この「ハント氏」は、セルジュール・ハントというのが本名という。
彼は、伊能忠敬の地図を世界に広めた人物である。
江戸時代、かの地図は国外へ持ち出し禁止であった。
シーボルトが持ち出そうとして追放処分まで受けたほどのものである。
長崎で人々に医療を施し、鳴滝塾まで作り、医学や植物学などを教授していた人物であったのにそこまで重い処分を受けたのだ。
いや、そのような人物であったから、追放程度で済んだと言えよう……。
セルジュール・ハント氏は一介の商人であったらしい。
日本への貿易する船に乗ってきたという。
その際、日本の測量をしようとした英国船があり、うとましがった幕府が英国船に伊能図を見せる、という場に居合わせた。
その精巧さに驚き、一般に流布していないことがあまりにも惜しいと感じたのだ。
しかし、特級の禁制品である。
シーボルト事件はハント氏も知っていた。
シーボルトは国外追放で済んだが、一介の商人であるハント氏は、まあ処刑だろう。
時代は大政奉還直後、戊辰戦争が始まる直前である。
日本国内はごたついていた。
ハント氏は、「戦に巻き込まれたくない!」とさっさと日本を逃げ出したとされる。
しかし、その際、かつて尚歯会の一員だった田中何某が所有していた、伊能図の写しの一部を受け取っていた。
海を渡り、母国へ帰る前にドイツへ立ち寄った。
医師・シーボルトに会うためである。
そして、持ち帰った伊能図の一部を見せた。
かつて、持ち出したくとも持ち出せなかった代物が、一部とはいえ目の前に…。
シーボルトは、それはそれは感激したらしい。
そして、それがシーボルトが書いていた日本の記録本に残ることになる。
その後、シーボルトは日本に関する本を出版する。
それを読んだとある探検家が、伊能図に目を留め、何と素晴らしいと大絶賛をしたことから、世界的にも伊能図は有名になる。
こうして、運よく伊能図を世界へと紹介する窓口となったセルジュール・ハント氏ではあるが、その名を知る者はほとんどいない。
その名を知るものが、こっそりと「はんとし」の変換を「ハント氏」「Hunt氏」にしたらしい。
嘘が二つ入ってないかって?
いえいえ、一つですよ。
もう一個の方は「かもしれない」と私の想像であることを明示してありますゆえ。(卑怯)