『頼通父子と教通父子摂関を争い、中宮速記道具をまとめること』速記談2012
藤原頼通公が、父道長公の御遺言に従い、関白職を弟の教通公に譲られようとなさったとき、教通公は、一度目は信じられず、お受けにならなかった。二度目のときは、涙を流してお喜びになった。頼通公が御自身を、そう長くはないとお思いになられたとき、今となっては、我が子左大臣師実に関白を譲ってもらいたい。生きているうちにそれを見届けたい、とおっしゃったが、教通公は、このようなことは、私一人が決めてよいことではないので奏上したところ、関白の辞任はお許しいただけなかった、と返答したので、頼通公は恨みの念を持って薨去された。
教通公は、関白職を、我が子である内大臣信長公に譲ろうとなされたので、左大臣師実公は、出家しようとお考えになった。白河天皇が、中宮藤原賢子のもとへお渡りになったとき、中宮は、髪をとかしている間、ずっと涙を流していらっしゃったので、畳が濡れるほどであった。天皇は驚いて、わけをお尋ねになると、中宮は、関白職を内大臣様が継がれるということで、養父左大臣師実、実父大納言源顕房は、ともに出家することになるでしょう。私も出家し、宮中から退出いたします、とお答えになり、御自身の速記道具を女房にまとめさせようとなさったので、天皇は、急ぎ蔵人を召して、師実に関白の宣旨を下すよう仰せられた。
教訓:頼通、師実父子は、道長の子、孫でありながら、外祖父になれなかった。それだけでなく、師実、信長の争いに、白河天皇が介入したことで、摂関家の政治力は著しく低下したのである。