第四話 契約/大戦の記憶
2031年 11月12日
この日もノーラはエスターレイヒの中心部を訪れていた。偉い人達との顔合わせに契約の確認と、アグネスが昨日しようとしていた話のためだ。空は晴れていたが、前日の日中に日光が差さなかったこともあり、寒さは厳しかった。
政府の建物に近づくと、昨日の一件を思い出させる弾痕や焦げ跡がたくさん残っていた。破壊された建造物の修理は既に始まっており、一部区間は立ち入り禁止になっていた。ノーラは今回、議事堂ではなく少し離れた建物の小さな部屋に案内された。
部屋に入ると、アグネスともう二人、スーツ姿の男性が座っていた。一人は見た目からして30~40代ほどの男性で、がっしりした体格とギラギラした目つき、黒いひげが印象的であった。もう一人は髪の白い老人で、長い杖を手にしていた。
最初に口を開いたのは、若いほうの男だった。
「初めまして。君がイェリネックだね。お会いできて光栄だ。あなたの対イタリエン戦線での活躍は私も聞いている。私の名前は、オットー・ルーフ。エスターレイヒ社会民主労働者党の党首だ」
低く、しかしよく通る声だった。手を差し出されたのでノーラは握手をした。ルーフの手には大きな力がこめられていた。
「初めましてです、皆さん。これからよろしくお願いします」
「こちらこそ。無事にお会いできて何よりですな。ああ、私はテオドール・ウイバーライターという者ですわ。社会民主党所属で、一応国民議会で議長を務めております」
今度は老人が答えた。まさにお爺さんといった感じの優しい口調だった。
「本当に良かったです。下手をしたらノーラさんも私も巻き込まれていたかもしれなかったんですから」
「どっちにしろ多分大丈夫でしたよー、わたしは」
「まあ、あなたほど優秀な軍人なら確かにそうかもしれませんけれど」
はじめは少し緊張していたノーラだったが、アグネスとの会話により本来の朗らかな口調を取り戻していった。
「では、そろそろ本題に入ろう。主に想定されるイェリネックの任務について——」
「あの、ノーラでいいです」
「そうか。ではノーラの任務についての確認を。アグネス君?」
「はい。ノーラさんには主にウンガルン・レーテ共和国の侵略行為からの防衛をお願いすることになると思われます」
そういいつつ、アグネスは地図を取り出し、ノーラのほうに向けて広げた。
「ウンガルンの拡張主義——彼らにとっては『拡張』ではなく『失地回復』ですが——いずれにせよ周辺諸国に対する軍事的な強硬姿勢はもはや明白です。数か月前、ウンガルンによるスロヴァケイ侵攻があり、先月はルメーニエンやユーゴスラヴィエンとの軍事衝突が報告されています」
そう言いつつ、アグネスは地図を指さしていく。ウンガルン共和国はエスターレイヒ共和国の東の隣国である。ルメーニエン王国はウンガルンの南東にあり、ユーゴスラヴィエン王国はウンガルンの南西、エスターレイヒの南に接している。スロヴァケイはチェコスロヴァケイ共和国の東部地域であり、ウンガルンの北部と接している。
「彼らは帝国の時代の装備を流用し、また恐らくはレーテ連合からの支援を受け、急速に軍事力を強化したようです。そして恐らくその目標は、講和条約によって割譲を命じられた領土の奪還、すなわち『大ウンガルン』の再興です」
今度はアグネスの指がずっと東のほうを指さした。ルメーニエンの東隣にあるのがレーテ連合である。
ノーラはというと、突然数々のよくわからない単語を浴びせられ、困惑するばかりだった。この話を理解するだけの知識が彼女にはないのだ。そのため焦点の合わない目でアグネスの手を見つめ、口を半開きにしたまま黙って聞いているしかなかった。
「彼らはこれまで、我々にもプロレタリア独裁を含むさらなる革命に加わることを再三勧誘してきていた。地理的な要因などから拒否せざるを得なかったがな......」
「そして今回の内乱を扇動したことにより、彼らは社会主義の同志に対しても牙をむき始めたというわけですな。まあ、彼らが回復しようとしている領土には、我が国の東部地域も含まれていますし、これは必然だったと思いますがね」
「その件に関してはまだ調査が進行中だがな」
ルーフがウイバーライターにくぎを刺すような視線を向けた。睨むというほどではないが、もともと目力が強いのもあって、鋭い視線だった。
「こりゃ失礼。しかし、これはもう明らかだと思いますがね。共産党執行部は今ウンガルンの人間の支配下にあるとみてよいでしょうし、日程にずれがあるとはいえ反乱の計画があったことは——」
「あのー」
ノーラが遠慮がちに口を挟んだ。
「何だろうか?」
「えーっと、何だろ......今なんの話してたんでしたっけ?」
一瞬の沈黙が流れ、アグネスが口を開いた。
「すみません、余計な情報が多かったですよね。では、ノーラさんのお力をどのように役立てていただきたいのかをご説明します。ウンガルンは戦車や装甲車といった強力な軍用車両を多数有しており、たいして我が国の軍はあまり豊富な装備があるとは言えません。そこで、イタリエン軍の戦車を何度も撃退したあなたの力で、ウンガルンにも対応していただきたいんです」
「おお、なるほどです。あの時と同じことをすればいいんですね。それなら大丈夫そうです」
「それから、何やら『特殊な車両』の存在も示唆されています。カルリーノのような兵器を保有している可能性も、ないわけではありません。十分に注意してください」
「任せてください!」
全身で意気込みを表現するノーラをみて、アグネスは相変わらず笑顔であったが、ルーフとウイバーライターはあまり良い表情を浮かべてはいなかった。
「そして、すでにお伝えしていますが、指揮については私に一任されることになります。リクテンシュテインとの契約も、形式的には私個人が結びましたからね——あなたの過去の戦いぶりからして、私の出る幕はないかもしれませんけど、それでも非常に名誉なことだと思っています」
アグネスはまだ話がありそうな様子だったが、ルーフが一瞬腕時計に目をやったあと、口を開いた。
「そういうわけだから、よろしく頼んだよ、ノーラ。我が国の存続のため、きみの活躍に期待している。もちろん、アグネス君もだ」
そういうと、ウイバーライターとともに席を立った。
「では、失礼する」
「期待しておりますぞ」
アグネスは立ち上がり、二人を見送った。
「お時間いただきありがとうございました」
「ありがとうございました!」
アグネスの真似をして、ノーラもぺこりとお辞儀をした。
「さて......今日は静かにお話ができそうですね、ノーラさん。さっきはすみませんでした。いきなりいろいろな情報を一気に話してしまって」
「そんな、あなたのせいじゃないです!確かに頭ん中こんがらがってわけわかんなかったけども、それはたぶんわたしがいろんなことを知らないからです」
「記憶喪失......なんですよね」
「そうですね。知識に関しては忘れているものとそうでないものの差が激しくて、社会のことになるとまるでダメなんですよね......とはいえ、もう保護されてから4年ですし、もっと多くのことを学ぶべきだと思うんです」
「まあ、それはとてもご立派な心掛けだと思いますよ」
アグネスは手を合わせてほめたたえた。
「それで今回の任務をきっかけに、アグネスさんたちのかかわる政治についても知れたらいいなーって思ってるんです」
これはノーラが以前から思っていたことだった。元来好奇心旺盛な彼女はいろいろなことに関心を示してきたが、カールが政治や経済についての話を嫌がったため、かえって興味が強まったのだ。
ただし、今回はアグネスという綺麗な女性に近づきたいという気持ちも少しあった。
「なるほど。『政治について教える』っていうのは難しいかもしれませんが、質問があれば喜んでお答えしますよ」
「ありがとうございます!」
ノーラは満面の笑みを浮かべつつ、お辞儀をした。
「えーっとそれじゃあ早速......」
ノーラは指先をくるくると回しながら何を聞こうか考えていたが、そのうち目をぎゅっとつむって肘から先をぶんぶんと振り回しつつ、唸りはじめた。
「んんんんん......わたしは何が分からないんでしょう?」
「いいんですよ、急がなくて。あの、差し支えなければ、私の話を聞いていただいてもよろしいでしょうか」
「あー、はい、喜んで。イタリエン軍との戦いですよね」
「せっかくですから、外に出てお話しませんか。今日は珍しく時間がありますから」
「お散歩ですか?いいですね。この辺のこと、もっと見ておきたいですし」
そうして二人は建物の外に出て、近くの公園へ歩き出した。
公園に着くと、二人は小さなベンチに座った。木々はたくさんの枯れ葉をすでに落としており、決して鮮やかな景観ではなかったが、午後の日差しにより気温も上がり、過ごしやすい環境になってきていた。
アグネスはグレーのスーツから私服に着替えていた。白いワンピースと栗色のブーツが彼女の穏やかな雰囲気によく合っていた。また、いつもはおろしている長い髪を後ろで結んでいた。
「似合ってますね、お洋服」
「ありがとうございます。最近はあまり着る機会もなかったので、嬉しいです」
「お仕事忙しいんですか?」
「今の私は国民議会の議員ですからね。プライベートな時間はほとんどないんです。とはいえ、他の議員の方々はもっと忙しいと思います。ブルンナーさんとか、党の皆さんがが仕事の多くを手伝ってくれますから」
「ブルンナーさん?」
「ああ、有名な社会民主党の党員の方ですよ。防衛省のトップで、『共和国防衛同盟』を指揮する立場でもあります」
ノーラの頭にはまた疑問符が渦巻いていたが、質問するより先にアグネスが話をつづけた。
「それで、件の話ですが......」
「はい。わたしの戦った戦争の話ですね。でも、どうしてそんな事を?わたしの戦績についてはもう知ってるんですよね」
「そうですけれど、あなたの口から聞きたいんです。......それと、聞きたいのは特定の場面についてなんです」
「特定の場面?」
ノーラが聞き返すと、アグネスは目を伏せつつゆっくりと答えはじめた。
「あなたとともに出撃し、撃破されたピックアップトラックがいましたよね......その時のことを教えてほしいんです」
「......ああ、あのミサイルを大量に積んでいたやつですね」
アグネスは首を縦に振り、視線をより一層下に向けた。黙って頷いたのか、それとも俯いたのかノーラには分からなかったが、肯定の反応だと察し、話を始めた。
「あれが、わたしの初陣でした」
そしてノーラは、イタリエンの戦車をレーザーで撃破した時のことを語り始めた。アグネスは一切の言葉を発さず、目を合わせず、苦しげな表情で聞いていた。そしてピックアップトラックが爆発した瞬間について言及されると、彼女は表情はひどく悲しそうな表情を浮かべ、呼吸も荒くなりだした。ノーラは、今まで基本的には穏やかな笑顔しか向けてこなかったアグネスの様子が変わってしまったことに大いに困惑していた。
「あの、大丈夫ですか?」
心配になったノーラが尋ねると、アグネスは顔を左手で覆いつつ、一呼吸おいてから答えた。
「.....大丈夫......続けて」
消え入りそうな声だった。明らかに『大丈夫』には見えなかったが、ノーラはどうすれば良いのか分からず、ただ話を続けるしかなかった。
「——敵の大部分が気を取られている隙に、わたしはレーザーを起動して、いくつも戦車を焼き切りました。あれのレーザーはエンジンの駆動力を車輪と切り離さないと使えないですから、発動に都合のいい状況が揃っていたんです。それで、敵は衝撃を受けて統制が乱れ、エスターレイヒ軍の攻撃を受けて撤退していきました」
「......わかりました」
囁くようにそういうと、アグネスは黙り込んでしまった。
「あの......どうしたんですか?さっきから様子がおかしいですよ?」
アグネスはようやく顔をあげた。しかしノーラのほうをを向く瞬間、すこし目元を拭っていた。どうやら涙をこらえていたようだ。
「すみません、心配をかけて。......今日は、もうお話はできないかもしれません」
「どうしちゃったんですか?何かできること——」
「一人に......してください」
そういうと、アグネスは席を立った。
「明日は、あなたの住居についてのお話があります。またお会いしましょう」
アグネスは笑顔を浮かべようとしていたが、深い悲しみと苦痛がにじみ出たぎこちないものだった。
「はい、また明日......」
ノーラはただただ困惑するばかりだった。ただでさえ今日は分からないことが増えてばかりだというのに、アグネスの振る舞いの理由も理解できず、不安が増していった。
アグネスはそのまま立ち去ろうとした——が、二、三歩歩いたところで立ち止まり、ノーラのほうを振り返った。
「質問があればお答えする......って、言いましたね、私」
「えっ?」
「約束は守ります。実はこのお話を聞いたのは......」
アグネスは目をそむけつつ、ノーラが聞いたことのない低く暗い声でつづけた。
「知りたかったからです。私の父の死について」
お読みいただきありがとうございます