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不知火血風抄  作者: 高倉麻耶
二章
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二 其の肆

 さびれた様子の酒場には、彼ら二人のほかに客はいなかった。店主は確かに錦の馴染みであるらしく、このおかしな扮装をした男にも、さして驚く様子はない。戸惑いながらも、彼はしずかにを口元に運んでいた。酒の質は悪くない。


 話がある、と自分から言っておきながら、錦はなかなか切り出さずに、黙々と肴をつまんでいる。何事かを思案しているようだ。そのうち、ふと思い出したように話しかけてきた。


「しかしあれだ、名前が無ぇんじゃ困ったもんだよなあ」

「名は捨てた。もとよりわたしにとっては意味の無いものだ」

「ふむ」


 錦はごわごわした顎髭を撫で、彼の端正な横顔を眺めた。


「しらぬい」

「?」

「不知火。『知らぬ』と云うから、そう呼ぶことにする」

「勝手にしろ」


 彼は手もとに視線を落とした。対峙の瞬間を思い出すたび、戦慄が走る。今、この場でいきなり斬りかかったとしても、文字通り太刀打ち出来る気がしないのだ。


 錦の巨躯や怪力を怖れているのではない。この違和感は、たとえるなら生物の種類が違うようなものだろう、と彼は考えた。それまで彼の眼には、人間はすべて張り子で出来た人形のように、脆くかよわいものとして映っていた。


 錦は、何かが大きく違う。その存在感の異様さは、兎小屋に一匹だけ虎が這入りこんでいるような、ふだん鮒ぐらいしかいないような川に間違って鮫が来たような、「異界の住人」といった具合なのである。ただ、その巨体と服装の奇抜さに誤魔化されて、多くの者にはその違いがわからないだろう。


「俺の屋敷にはな、いま二十人ばかりの兵がいる」


 突如切り出され、彼は話がよく飲み込めずに、二、三度まばたきをした。錦は、何事かを考えつつも周囲の音や人の気配に意識を向けている様子である。


「いずれ劣らぬ猛者ばかりだ。あの連中は、おまえにだってそう容易く斬られはせんだろうな」

「何が言いたい」

「不知火、おまえの目的はなんだ?」


 いきなり訊かれて、彼は戸惑いながら自分の頭の中を探った。だが、その答えはすぐには出てこなかった。


「……わからぬ」


 これには錦のほうも驚いたようだ。やや咎めるような口調で、質問を重ねてきた。


「おまえ、わけもなく人を斬っていたのか? 斬るのが愉しいとでも言うのか」

「愉しくはない」

「では何故、五十余りも」

「百二十七だ」


 即座に、彼は辿れる限りの記憶を辿って数えた。


「いや、百二十八だった。わたしはまず最初にわが師を斬り、そして村人を五十三斬った。他は都のまわり、今日には……おまえで百二十九になるはずだった」

「数えたのか」

「おぬしは数えないのか?」


 錦は、ふと哀しげなになって答えた。


「俺は、まだ人を斬ったことはない」

「嘘だろう」

「ほんとうだ」


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