八 其の拾弐
元服のとき、藍澤宗司という男の名を祖父から聞いた。
「おまえの仇敵だ」
と、彼は静かな声で言った。続けて、
「儂を怨んでおるか」
と尋ねた。祖父が質問をするのは非常に珍しい。
「いいえ」
当時の不知火は十五歳、「明貞」という新しい名を与えられたばかりであった。彼は、そう答えなければならないと考えて、返事をした。祖父匡房はいつもどおりの無表情で、
「いや、わかっておる。怨んでおるのだろう」
と言って白湯を飲んだ。それから、
「なぜおまえを元服させたか、わかるか」
と、かさねて尋ねた。これは、要するに明貞がなぜ男として育てられたのかという、そもそもの話である。明貞はいつになく緊張した。
「わかりません」
小さな声で明貞は答えた。顔にはあらわさなかったが、膝の上で拳が震えた。それを見た匡房は、手に持っていた扇子をいきなりその震えた拳に投げつけた。明貞は彫像のようにかたくなった。
「動揺するでない。隙ができよるぞ」
「申し訳ございません」
明貞は型どおりに平伏した。感情のこもらない、お座なりな謝罪である。匡房は白湯を飲み干し、空の湯呑を盆の上に置いた。そして唐突に、
「おまえは人ではない、剣だ」
と強い口調で言い放った。明貞は、まっすぐに彼の眼をみつめた。祖父の瞳は、ふたつ並んだ不気味な穴のように思われた。その黒い穴の向こう側は、どこまでも続く真っ暗な闇なのだ。
「おまえは儂の刀であり、儂はおまえを用いて藍澤宗司の首を刎ねる。彼奴は卑怯にも、謀略を用いてこの土生家を賊に襲わせ、将成とおまえの母を害したのだ」
明貞は黙って聞いていたが、そう言われてもぴんとこなかった。藍澤宗司がどういう男なのかもわからないし、両親への愛情を感じたことのない自分には、親を殺したという理由で怨む気持ちも湧かなかった。その戸惑いを、匡房は正確に言い当てた。
「いきなり仇と教えられたとて、恨みはあるまい。儂には、おまえの心が手に取るようにわかる」
祖父が自分の気持ちを言い当てることができるのは、幼い頃からずっと自分を注視してきたからではない、と明貞は感じた。家人が次々と去る中、ひとり残った乳母のおきぬは、明貞にとっては母のようなものであったが、匡房のように人心を見透かしたりはしない。どうもそういうことができるのは、身の周りでは匡房だけのようである。それが血の繋がりゆえなのか、あるいは匡房の特技なのか、剣豪というのはみんなそうなのか。明貞にはわからなかった。
「だからこそ、おまえは儂の恨みを受け継ぐのだ。儂を憎め。憎んで、いつでも斬りかかってこい」
「憎む気持ちなどありません」
明貞は正直に答えた。あの日のことをいくら考えても、何度恐怖や怒りが湧いても、それで土生匡房という個人に憎悪を感じることはなかった。今にして思えば、不思議なことである。
「憎まぬというならそれでも構わん。腕を磨き、儂の首を取れ。さすれば、その後はおまえの自由にしてよい」
このとき祖父の目つきは、一瞬ではあるが、少しだけ柔らかくなった。明貞は、人ではないような彼の中に、ほんのわずかな情のかけらを見つけたような気がした。
――『首斬鬼』は、わたしではないのだ。
不知火は自分の中に棲む獣の姿を、ちらりと垣間見た。きっと、長い間に植えつけられた怨恨が心に染み付き、根を張って、ときに怨霊のように現れてくるのだ。それはまさに、「呪い」と呼ぶのが相応しい。
――もしや、あの人の怨念が鬼となって、これまでわたしをずっと動かしてきたのだろうか。
自分は祖父の意のままに操られる、ただの人形だったのかもしれない。そういえば、偶に聞こえる男の声は、どこか祖父の声と似ている気がする。そう考えたとき、不知火は思わずぞっとして、錦の腕にしがみついた。




