二 其の参
火鉢の前に座り、じくじくと燃える赤い炭火を眺めながら、彼はいままで感じたことのない、不思議な興奮にとらわれた。
──何者だろうか。
あの男の顔ばかりが、ずっと脳裏にちらついている。
剣の師である祖父から免許皆伝を受けたとき、
「もはや、おまえに斬れぬ相手はおるまい」
と言われた。最後の秘儀を伝授され、それを会得した日のことである。彼は、その言葉を信じた。
(まさか、この世に斬れぬ男がいるとは)
右肩に鈍い痛みを感じた。左手で襟を捲ってみると、指の形に痣ができている。刹那、掴まれたときの感触を思い出した。
胸の裡に、ふつふつと力が漲ってきた。今日まで、彼の胸はがらんとしていて、何も無い穴のようだった。さながら木のうろの如く、何かがごっそりと抜け落ちた跡だけが残った、からっぽの器であった。そこに、ひとつの新しい存在が現れたのだ。
唐突に、彼は立ち上がった。
(あの男を斬らねばならぬ)
その意志は、かの「誓」とは似て非なるものであった。目標には違いないのだが、「誓」には理由らしい理由が、何も無かった。「錦を斬る」という思いには、どこか希望に似たものがある。
そのとき襖の外側に、人の近づく気配を感じた。振り向くと、足音がして襖が開き、宿の女将が顔を見せた。
「お客さん、お呼びどす」
女将は、なんだか困ったような顔をしている。
「なんやら、えらい大きな……変わった格好のお侍さんで。錦さま、と名乗られまして」
彼は頷いて、さっと歩き出した。衣桁に掛けていた羽織を取ると、肩に引っかけて女将の横をすり抜け、急ぎ足で階下へ降りた。
「よう」
門口で、錦がにやにや笑いながら立っていた。
「鬼どの、迎えにあがったぞ」
錦のふざけた口調に、彼は苦々しく顔を歪めて、顎で外を示した。女将が階段を下りながら、慌てて声をかけてきた。あやぶんでいる様子だ。
「行ってらっしゃいまし」
彼は錦を押し出すようにして、ともに宿を出た。
「どうやって尾けた」
歩きながら、彼は小さな声で鋭く話しかけた。
「気配をさとらせぬのがおれの仕事よ」
錦は歯をみせて笑い、
「この先に行きつけの店がある。其処で少しばかり話さんか」
と言った。選択の余地はないらしい。




